魔法使いの居る村 その3
やることなすこと全てが思い通りにいかない。
自分の選択と行動が生み出す結果に、必ず苛立つことになってしまう。
厄日というものの存在を信じるのなら、今日のような日のことを言うのだと思う。
思い返せば、朝起きて、肌がいつもより荒れているのに気付いた時から嫌な予感はしていた。
日課の見回りで出くわす魔物の数はいつもより多かったし。
村の外で根を張り、成長を始めていた植物型の魔物を駆除したら大量の粘液を浴びる羽目になったし。
微妙に毒をもっている種類の魔物だったから、すぐに近くの川で水浴びをしなければいけなかったし。
そしたらよく分からない男がいきなり転がり落ちてきて、裸を見られた。
そいつは実に態度の悪い浮浪者で、胸のこととか、気にしている体型のことを侮辱された。
まあ、売り言葉に買い言葉だったことは認めるけれども。一応、向こうも頭を下げたけれども。
不愉快だったことに変わりはない。
「しまいには、村の中に魔物? 冗談でしょう!」
本来なら、この周辺に出没するような魔物が村の中に入ってくることは有り得ない。
丹念に、入念に、組み上げた結界を張り巡らせているからだ。
私が一対一で相手できるレベルの魔物なら、触れることはおろか近づくことさえできないだろう。
術式の丁寧さには自信があったのに。
何かの拍子に綻びでもできてしまっていたのだろうか。
「ああもう!」
溜まった鬱憤は、迷惑な侵入者相手にぶつけさせてもらおう。
ちょうどいい憂さ晴らしだ。さっさと処理をして、結界の点検もしなきゃならない。
頭の中でこれからの予定を組み立てながら走っていた、その時。
むせ返るほどに強い、血の臭いがした。
「まさかっ……!」
村の誰かが、魔物の犠牲になった。
鼻を貫いていくツンとした臭いに脳が最悪の光景を思い浮かべ、冷たい緊張感が背筋を伝い落ちていく。
間違いない。すぐ、近くだ。
ここは村の南端。周辺の民家の数は三つ。住んでいる人の数は十一人。
お願いだから、と、歯を食いしばり、家と家を繋ぐ道を走り抜ける。
この先にあるのは農具が保管されている倉庫と、牛舎だ。匂いはどんどん濃くなっている。
「……っ!」
血の海だ。
目の前に広がる凄惨な光景に、息を呑むのを堪えることができなかった。
最初に聞こえたのは肉が千切れ、硬い骨が砕かれる咀嚼音だった。
地面に横たわっているのは、牛舎で飼育されていた牛だったもの。その茶褐色の体躯は傷だらけで、特に食い破られたのであろう腹からは大量の血が流れ出て地面を汚していた。開いた口から力なく垂れ下がった舌や、虚ろに開かれたまま動かない眼を見れば、それが既に絶命していることは疑いようがない。
そして、その傍には大小二つの影。
片方の姿は、一言で表すならトカゲだ。だが、その体躯は倒れている牛よりも二回りは大きい。
苔むした岩のような表皮に、太く長い尾。血で濡れた口元には大人の親指ほどの太さの歯がずらりと並んでいて、先の割れた舌が出たり入ったりを繰り返している。
おぞましいトカゲの化物は、自重を支えるために発達した四肢の前脚で牛の体を押さえ付け、噛み千切った腹に頭を突っ込むようにして肉を貪っていた。
「どうして――」
地竜が、こんなところにいるのだろうか。
翼も持たず、魔力的な特性も持たない。龍はおろか、竜としても最下層に位置する魔獣の一種。
それでも、私にとっては文献の中でしか目にしたことがない存在だ。少なくとも、こんな田舎の農村に現れることなんて有り得ない。
有り得ない、あってはならないことと言えば、もう一つ。
地竜の傍らに立っている、あれは、まさか。
「よーしよし、キミはいい子だねえ。もう死んじゃってるんだし、焦らず、ゆっくり食べるんだよぉ」
人の言葉を話し、手と足が二本ずつ。自分も血塗れになりながら地竜を愛おしそうに撫でているところに目をつぶれば、そいつは私より幼い女の子に見えなくもなかった。
だけど、その肌の色は緑色。顔立ちそのものはあどけなさの残る少女なのだが、釣り目がちな双眸は黄色く、瞳の色は毒々しい紫色だった。頭の後ろで無造作に束ねられた朱色の髪は、まだいい。だが、もみあげにあたる部分では、蛸や烏賊を連想させる触手らしきものが三本ずつそれぞれ意志をもったように蠢いていた。
膨らんだ胸元と、腰回りだけを隠しているだけの煽情的な格好のせいで、剝き出しになった肩や腹、太腿には幾何学的な模様の入れ墨らしきものが刻まれている。
人と決定的に違うところを数えればキリがない。しかし、知性を持ち、人と近しい姿をした魔の存在。
魔物や、魔獣を統べる者。
これが、魔族なんだ。
目の前のそれを見て、知識と現実が確信をもって結びつくのを、私は感じた。
「あれぇ? まだ人間がいるじゃん。なぁに、じろじろ見てんのよ」
しまった。気づかれる前に、隠れなければならなかったのに。
動揺して、冷静に動けなかった。
私の姿を見た魔族は、さも鬱陶しそうに目を細める。
「…………あなた達、この村に何の用ですか」
だめ。声が震える。悟られちゃ、いけないのに。
私がなんとかしなきゃ、いけないのに。膝が勝手に笑い出しそうになる。
頬が引きつって、自分がどんな表情になっているのかも、わからない。
怖い、とか、逃げ出したいとか、バレちゃいけないのに、抑えきれない。
「はあ? あんたさあ、見ればわかるじゃん。 ご飯だよ、ご・は・ん。この状況で他になんかある?」
こっちのことを完全に小馬鹿にした様子で鼻を鳴らし、魔族の少女は肩をすくめる。
声だけならその辺にいる生意気盛りの女の子のそれなのに、言葉の端から妙な圧力を感じるのはどうしてだろう。負けてたまるか、と、大きく息を吐いて睨み返す。
「ちょっと人を探すついでに、この子のお散歩をしてたんだけどさあ。お腹空いたよーって、アピールしてくるんだもん。ほんと、困っちゃった」
貴重な家畜を一頭殺しておいて、抜け抜けと。
悪びれもせずに言った魔族の少女は、さも可笑しそうに笑いだす。
「まあ、あと一、二頭か、二、三人? いただいたら帰ってあげるからさ。お邪魔するよん」
吊り上げた口元で白い牙がむき出しになり、赤くて長い舌がぺろりと垂れる。
その言葉と、表情で分かった。
こいつは、人間じゃ、ない。本当に邪悪な、別の何かだ。
「ふざけるな。今すぐに、ここから立ち去りなさい」
「……は?」
沸々と腹の底から湧き上がってきたのは、怒りだ。震えも、止まった。
地竜とか、魔族とか、もうどうでもいい。いるものはいるんだから、知った事か。
もう我慢も限界だ。
今日は本当についていない。なんで私が、こんなクソガキにビクビクしなきゃならないんだ!
「なんかさあ、勘違いしてない? 皆殺しにはしないでやるって言ってんの。お前も、この辺にいる奴らも全部、あたしがぁ」
私の視線に込められた敵意に気が付いたのだろう。魔族の少女の声色が変わる。
「気まぐれで生かしておいてやってるだけだからね?」
その低く、冷たい響きで、肌の表面が一気に泡立ったのが分かった。
もう後戻りはできなさそうだ。私が生き残るための道は、そう多くない。
「仕方ないですね」
こいつらを倒す。それが叶わないなら、せめて力ずくで追い返すんだ。
ほんの一瞬だけ目を閉じて、感覚を研ぎ澄ます。姿勢は低く落として、いつでも動き出せる状態に。
そして、両手に魔力を集めておく。これが腕力のない私の、唯一の戦う手段だ。
「へぇえ、いい度胸じゃん。それじゃあ、うちのペットと遊んで……」
『バーニカ!』
最後まで喋らせるつもりはなかった。
私がかざした手の先、魔族の少女の顔面で炎の塊が爆ぜて咲く。
先手必勝。下級呪文とはいえ、直撃だ。流石にしばらく身動きできないだろう。
短い悲鳴をあげ、後ろに倒れた彼女は一旦放置。まずなんとかしなければならないのは。
「グゴォオォオオオオオ!」
主を攻撃された途端、向き直って怒り狂ったように突っ込んでくる地竜。こっちの方だろう。
四足で踏み出す度に、地面が微かに揺れているのが分かる。初めは遅かったはずのそれは、瞬く間に私を軽々殺せる速度と質量をもった突進へと変わっていく。
ここで背を向けて逃げるのは愚策だ。既に相手の方が速い。だったら。
一、二、と地竜に向かって踏み込み距離を詰める。息もかかるほどに肉薄した直後。
三歩目はとにかく低く、右斜め前に跳ぶと、決めていた。
『チルド!』
すれ違いざまの地竜の脇腹に、用意していた術式を叩き込む。
昔、読んだ文献を信じるなら、地竜の表皮は地面に近い腹の部分ほど柔らかいのだという。そして、その鱗には特に魔法に対する耐性はない。むしろ、この魔獣は爬虫類に近い性質を持っているらしい。
つまり、当て所を誤らなければ、私の使える氷結系の呪文でも通る!
「ギャォオォオオオ!」
私が放った無数の薄くて鋭い氷の刃が腹部に突き刺さったことで、地竜の喉から苦悶の声が漏れた。
だけど、まだだ。
受け身を取って転がり、即座に駆け出しながらまた両手に魔力を込める。
この後、あの魔族の少女と戦うことも考えれば、一発たりとも無駄撃ちできない。
地竜の周りを旋回するように駆けながら、さっきと同じ氷の刃を四肢に打ち込んでいく。
「ギィッ! ギイイイイイィッ!」
一発ごとに身悶えする地竜の動きが、確実に鈍っていく。大丈夫だ。
これなら、いける!
「くらいなさい!」
両手に込めた魔力は、これまでで最大の量。
動きを止めるためではなく、ここでこいつを確実に仕留めるための一撃を放つ。
『グレイチルド!』
魔力を開放し、これまでのものとは比較にならないほど複雑な術式を展開させたことで、地竜の頭上に円形の魔法陣が生まれる。陣の中から放たれるのは、地竜の体よりも大きな氷塊。
冷気と質量、その両方で対象を圧し潰す。
そのための呪文の、はずだった。
『アトラスープラ』
「……っ!」
突然、地竜の周囲から間欠泉のように水の柱が噴き出し、今まさに落下しようとしていた氷塊に激突するのが見えた。水流は氷を押し退け、纏っていた冷気を霧散させ相殺してしまう。
威力そのものは、互角の呪文同士のぶつかり合い。
だけど、私にとって、それが意味することは……
「ふーん、やるじゃん。お姉さん」
片手を上空にかざし、魔族の少女は感心したような表情を浮かべていた。
今の水の呪文は、彼女が発動させたものだったんだろう。中級呪文を唱えたはずなのに、その顔には何か特別なことをしたような気配はない。
私の呪文の威力を確認して、当たり前のように打ち消したんだ。嫌でもそのことを思い知らされる。
「生意気な態度をとるだけのことはあったんだね。魔法を使う人間にしては動きもすばしっこいし、呪文の発動速度や正確さも、まあまあ。ちょっと驚いちゃった」
そう告げる魔族の少女の顔に、私の呪文がダメージを与えた形跡はない。
本当に、数秒の目眩まし程度にしかならなかったってことなんだろう。
「こんなちっちゃな村のくせに、周りの結界もやたら頑丈でなかなか壊れなかったしさあ。どうせあれもお姉さんでしょ? 几帳面に色んな術式を編み込んでさ。どんだけ時間かけたわけ?」
やっぱり、こいつが破ってきたのか。私が一年以上かけて張った結界を。
これでもう、理解できてしまった。
私では、とても敵う相手じゃない。
どんな偶然が起きようと、幸運に恵まれようと、殺される。それだけの力の差があるんだ。
『……ブライン』
片手を真上に掲げ、閃光の呪文を打ち上げる。
上空で一度だけ大きく輝くあの光は、この村に住むみんなへの合図だ。
逃げて。一秒でも早く、一歩でも遠くへ、逃げて。それを伝える時に使うと決めていた呪文。
「時間は、私が稼ぐから」
もう一度、今度はありったけの魔力を両腕に込める。その余波で、自分の髪の毛がふわりと逆立ち、全身が微かに赤く輝きだすのが分かった。
「へえ?」
自分の足元に現れた、さっきとは異なる魔法陣を見て、魔族の少女が薄く笑うのが見えた。
どれだけ意味があることなのかわからない。それでも、今は、全力でやるしかない。
『テオバニカッ!』
生まれたのは、空に向かって一直線に伸びる火柱。
轟音と、爆風、炎熱で視界が真っ赤に染まり、肌の表面に灼けるような痛みが走る。
普段ならまず使うことがない規模の攻撃呪文だ。間違いなく、ただの人間なら命を奪うような威力。
「これで全力? なぁんだ。拍子抜けじゃん」
声が聞こえたのと、炎の柱が内側から爆ぜて消えたのはほとんど同時だった。
辺り一面に立ち込めだした蒸気を見て、私は何が起きたのかを悟る。
魔族の少女は自らの体を水で包み、炎をやり過ごしたのだ。
私にとっての必殺の一撃を、難なくなかったことにされてしまった。
これでもう、いよいよ打つ手がない。
「あれ? お姉さん、なぁにそれ?」
腰元から短剣を抜いて構えた私を見て、魔族の少女が怪訝な顔をする。
「あー、もしかして……あーあーああ! そういうこと! なるほどなるほどぉ!」
本当に意味が分からない、といった表情が、徐々に状況を察し、嘲笑に変わっていくのを私は黙って見ておくことしかできなかった。
「お姉さん、もしかして、もう魔法打ち止めなの? 下級何発かと、中級たったの二発で? 嘘でしょ? めっちゃめちゃ雑魚じゃん! え、魔力すっくな! あは、あはははははははっ!」
魔族の少女が涙を浮かべ、腹を抱えて笑うのも無理はない。
情けないのは、私が一番よく分かっている。
自分の魔力の量が、普通の魔法使いより遥かに劣っていることなんて、言われなくても分かってる。
「だぁから、あんなにちょこまか動くし、一発一発馬鹿丁寧に撃ってたわけ? ウケるんだけど! それで、最後はそのちっちゃな刃物で? どうすんの? 私、切られちゃうの? えー、ヤダ、こわあい」
ケラケラと声をあげる魔族の少女に、私は何も言い返せない。
どれだけ悔しくても、血が出るほどに唇を噛みしめても、それが事実だから。
今、この場で、私はどうしようもなく無力だ。
「でもぉ、お姉さん、それ、もう無理なんだあ」
「!」
一際、意地が悪い笑みを魔族の少女が浮かべた瞬間、身体が下に沈むのを感じた。
おかしい。何が起きたの?
どうして、脚に、身体に、力が入らないの?
「えへへぇ、これ、私の力ね。全身から、毒が出ちゃうんだあ。さっきからあ、ちょーっとずつこの辺に漂わせてたんだけどぉ、そろそろ効いてきたみたいだね?」
「ど……く……?」
「そぉだよお。死ぬほどのことはないんだけど、身体が痺れて動けなくなるのね」
ピリピリと、動かそうとする手足の指先から甘い痺れのような感覚が走る。
駄目だ。動かせない。
「これさ、便利なんだ。例えば、ほら、ペットに生きたままの餌をあげる時とかにさ」
視界の外から聞こえたのは、氷が砕ける音と、重量を感じさせる足音。
見えなくてもわかる。地竜だ。私の氷の呪文を振り払って、動けるようになったんだろう。
「おーい、いい子だから、頭から食べちゃ駄目だよお。まずは手足から、よーく噛んで、一本一本千切ってあげるんだよ。そのお姉さんがさ、自分から殺してくださいってお願いするの、私楽しみにしてるんだから」
「………………く、そ、動いて、動いてよお!」
「あははははははははは! いい顔! 悔しいよね、怖いよね! ほら、もっと! もっと鳴いてよ!」
とうとう、目の前に地竜がやって来た。
牛ですら軽々と食べてしまう口から、血生臭い臭いが漂ってくる。
嫌だ。死にたくない。痛いのは怖い。逃げたいのに。お願いだから、許して。
誰か。
助けて。
「だああああああああああああああああああああああっ!」
「!」
素っ頓狂な叫び声とともに、浮遊感というにはあまりにも乱暴な衝撃に体をすくいあげられた。
その後にやってきたのは、地面をごろごろと転がる感覚。
何? 今、私、どうなってるの?
「あああっ、ぶねええ! セエエェェエエフ!」
どうやら私は、目の前でやかましく叫んでいるこの人に助けられたらしい。
顎の先から汗を滴らせ、肩で荒い息をしている男の人。この顔には見覚えがあったけれど。
「ごめんな! 遅くなった! ほんとお前、ぜんっぜん見つからなくてさ」
牢屋の中にいるはずのその人は、抱きかかえた私をそっと地面に横たわらせて笑いかけてくる。
「……ど、ぅし、て?」
「手助けに来たんだよ。すげえんだな、お前。一人で、あんなのを相手にしてたのか」
俺も身習わなきゃな、と言ったその人は、私の頭をごしごしと乱暴に撫でて、くるりと背を向ける。
振り返る瞬間、ほんの少しの間だけ見えたのは笑顔が、真剣な表情に移り変わっていく様子。
どうしてだろう。私には、それが。
「バトンタッチだ、レモン。あいつらは、俺がなんとかする」
泣きだしそうになるほど、頼もしく見えた。