わたしの暮らし その2
拓海は口が悪くてぶっきらぼうだったけれどやっぱり親切だった。保育園出身で、どちらかというと乱暴者的な扱いをされてきた拓海は、女の子たちからは敬遠されていたけれど、拓海を初めての友だちと認識したわたしは、バカとかアホとかジョーシキしらずとか言われながらも、縄跳びの使い方とかブランコの乗り方とか、小学校一年生に必要なことをいろいろ教えてもらった。
なにしろ家にテレビがないし、ジネさんの仕事部屋にはパソコンがあるけど、それは仕事用で、ほかに知識のもとになりそうなものはラジオだけ。「ブランコに乗って」なんて言葉が聞こえてもわたしには何のことなのか分からず、車みたいなものかと思っていたくらいだから、当時のわたしは本当に常識がなかったと思う。
拓海のおかげで小学校にはどんどん慣れていったけど、残念ながら女の子の友だちはできなかった。同じ学年の女の子たちはわたしが近づこうとするとすすっと距離を取ってしまう。ときどきわたしのことを見ているし、嫌われているわけじゃないと思うんだけど、なかなかうまくいかない。
そして、ジネさんに覚えさせられた約束は学校生活にはちっとも関係がないこともわかった――そして本当に関係なかった。
あの日までは。
小学校に入って三カ月が過ぎたその日、体育の時間に「プール」が登場したのだ。
島の子たちは海に行き慣れていて大抵が泳げる。けれど中には海に連れて行ってもらえない子どももいるから、学校にある二十五メートルのプールで泳ぐ練習をする。高学年になると体育の時間に海に泳ぎに行くこともある。
学校のプールには入らないこと、という祖母の約束があったし、消毒薬の塩素がどうとかいう理由をつけて、担任の先生にも伝えてあった。だからわたしだけが、体操着のままでプールの側に立ててあるパラソルの下で水筒を持って見学。
すごく気持ちよさそうだった。
太陽の光を反射して水が揺れる。
みんなははしゃいで水をかけあっている。
泳げる子が得意そうに他の子にクロールをして見せる。
ちっとも上手じゃないのに。
なんで、どうして。
わたしも泳ぎたい。
三十分が過ぎるころにはわたしはもうたまらなくなっていた。
そっとプールに近づいて足先で水に触った。
海の水ともお風呂のお湯とも違う感じがして、ピリッとしみた。
不思議に思って、もうちょっとだけ、足首までつけてみる。ちょっとチクチクした。
なんだろう?
足を引き抜いて、今度は手を付けてみようと伸ばしたとき、足が滑った。バランスを崩して頭からプールに落ちる。
目を開くと視界はうすぼんやりとした水色で、ちくりと痛んだ。急いで目を閉じる。感じたことのない目の痛みにびっくりして祖母の教えてくれたことを忘れたわたしは、反射的に身体から空気を抜いて、いつものように肺を水で満たそうとした。
痛い!
ものすごい痛みだった。水を取り込んだ鼻が、気管が、痛みに悲鳴をあげた。慌てて取り込もうとした水を外に出す。空っぽの身体に空気を取り込まないと苦しい。けれど空気をすべて吐き出していたわたしの身体は浮こうとしてくれなくて、空がどっちにあるかわからない。
自称「アンジェ係」になっていた拓海がすぐ近くにいて大声で先生に知らせてくれなかったら、どうなっていたかと思う。
この日、クラスで一番上手に泳げるはずのわたしは学校のプールで溺れかけ、学校から連絡を受けてやって来たジネさんにこってりと叱られて、二度と学校のプールには近づかないと誓った。
だけどそれから、拓海はクラスのみんなに一目置かれるようになった。それまでは「乱暴者」だった目線が「頼りになる子」になり、女の子も近づいてくるようになった。かくして、ついにわたしにも女の子の友だちができた。
同じ学年の女の子、花奈ちゃんは、肩のところでそろえた黒髪がよく似合う、色の白い日本人形みたいな子で、本が大好きなおとなしい子だ。拓海とは家が近くて保育園が一緒だったけれど、その行動が正反対なせいでずっと拓海を怖がっていたらしい。後で聞いた所によると、わたしが入学式の翌日以来つねに
その拓海と一緒にいたから近づけなかったのだそうだ。
プールから引き揚げられてようやく落ち着いたわたしが、べそをかきながら拓海に抱き着いたのを見て、拓海は怖くないんだって思ったそうだ。大変なできごとだったけれど、女の子の友だちができたなら、溺れたのも無駄じゃなかったかも。拓海が「くん」や「ちゃん」を嫌がったこともあり、やがてわたしたちは名前で呼び合えるようになった。
六年生の今はもう、わたしには「普通」がどんなことで、自分がどう変わっているのかだいたいわかっている。あいかわらず学校のプールには入らないし、体育の時間に海に行く時は泳ぎが得意ではないからという理由で見学だけれど、外海側で泳いでいるところを誰かに見られた時のために、息継ぎをしながら泳ぐ方法も覚えた。
海のことが一番なら、二番目に「普通」と違うって感じるところは、人の体調に敏感だということだ。具合の悪い人がいると、なぜかそっちの方に引き寄せられるような感じがする。そしてそれが誰かってことにも多少は左右されるけど、その人を助けてあげたいような気もする。実は、助けてあげられることもあるんじゃないかって思ってる。
先月、花奈が腹痛で保健室に行くことになったとき、わたしは一緒について行った。花奈は登校した時から顔色が悪く、二時間目になるころにはもっと辛そうになった。休んで様子を見ることにしたものの歩くのも辛そうでどうにかしてあげたくて、廊下で手を握ったら花奈がほっと息をついて言った。
「アンジェの手、気持ちいい。なんだかほっとした」
二人でゆっくり歩いて行くうちに花奈はどんどん元気になって、保健室につく頃には腹痛はどこかに消え、結局わたしたちはそのまま教室に戻った。
あの時のほっとしたような息のつき方を、わたしは何度か経験している。
薬を取って来るからとか、ここの包帯を巻いている間とか、「アンジェ、ちょっと手を握っていてあげなさい」ジネさんがそう言うたびに、おばあちゃんたちが、おじいちゃんたちが、ほっと息をつく。ジネさんに会ってもう大丈夫だと気がゆるんだのかと思っていたけれど、あれはジネさんがわざとわたしに手を握らせたんじゃないかと思う。
一番古い記憶があの、二年前の漁協のおじさんだ。あのときジネさんはわたしにおじさんの手を握らせた。
わたしにもジネさんみたいな癒しのパワーがあるんだと思う。あの日はおばさんを助ける方で手が一杯だったから、おじさんを助けるためにわたしの手を借りたっていうか、力を借りたんじゃないかな。わたしが手を握ったとき、おじさんは先月の花奈みたいにほっと息をついたし、なんだか安心したような顔をしていた。
人間だけじゃない。ゆりかもめのギイちゃんがこんなに懐いているのも、時々もらえるイワシやキビナゴのせいだけじゃなくて、怪我の治りが早かったとか、動物の勘でわたしの癒しのパワーに気づいたとか……考えすぎかな。
でも、わたしにも魔女の才能があるのかもって思えるのはいい。それってなかなかすてきだと思う。