(3)
このタイミングでその話? と思ったけれど、この数日で突拍子もないことには耐性がついた。葉月は別段驚くこともなく、机の横から白紙を一枚取り出し、数字を書いてその一つに丸をした。
「えーっと、ここが晴れる可能性の高い日です。春分祭当日は、晴れてから二日目になります」
「へえ、どうしてわかるの?」
「ここしばらくの空の様子を見ると、六日周期で移り変わっているんです。それでいくと、次に晴れそうなのが明後日。その次に晴れそうなのが、春分祭前日ということになります」
「なるほど」
「春分祭当日は晴れてから二日目になるので、雲は多いけど、強風は避けられると思います」
葉月の言葉にひとつひとつ頷くと、陽明はその紙を子草に投げた。
「空のほうは問題なさそうだし、後は吉兆を示す時間を決めればいいだけだよ。がんばってね、子草」
「えー、俺がやるんですか? 陽明さんがやってくださいよ」
「部下の仕事をとっちゃったらダメでしょ」
陽明は机の中をごそごそかき回して、そろばんと一冊の本を取り出した。
そこには『暦算書』という文字が書かれていた。しかたがないという顔で、子草がその本を受け取る。
「そろばんはいりませんけど、正直無理っす」
「無理って、それ面倒の間違いでしょ」
「だから、面倒だから無理っす」
押し問答のように繰り返される会話は、どう見ても上司と部下のやり取りには見えない。それでも、この二人にとっては日常茶飯事なのだろう。諦めたように陽明が言った。
「わかった。それができあがったら、妓楼にでもなんでも連れていってやるから。完全におごりで――」
言い終わるやいなや、それまでやる気ゼロだった子草が瞳を輝かせて暦算書を開いた。
「期限は、今日の宵のうちまで」
「ういっす!」
葉月はちらりとその本を見た。開いたページには、細かい数字がびっしりと書かれている。どうやら月や日の出入り時間と吉兆が記されているらしい。
……これをパソコンなしで計算。しかも数時間でやるなんてどう考えても無理でしょ。
さすがに可哀そうに思って「手伝いましょうか」と言おうとした矢先、大きく伸びをした子草がそれまでの雰囲気を一変させた。
机に向かって一心不乱に何かを書き出す。横に置かれた紙に、すさまじい勢いで数字が刻まれていった。
……な、なに、この豹変ぶり。
呆気に取られていると、いつの間にか隣に来ていた陽明に肩をちょんちょんと突かれた。
「大丈夫だよ。子草はこれでも算術家の家系だから、こんなの朝飯前。それよりも、暇だから三時のおやつでも食べに行かない?」
驚きすぎた葉月の口からは「……へっ?」と素っ頓狂な声が漏れた。
一応言っておくけど、三時のおやつに驚いたわけじゃない。もちろん三時のおやつも食べたかったけど……、問題はその前の『算術家の家系』とかいうところだ。
「えっと……、この国では、誰でもこんな計算ができるわけ……ないですよね。どうしてこんな特技を持った人が、年に数度しか仕事がないこの課にいるんですか。もっとその計算能力を生かせる場所があるんじゃないですか?」
人間驚きすぎると、何をしでかすかわからない。心の中で呟いたはずの言葉は、見事に声に出ていた。
そして、それに対して課長である陽明は、爽やか百点満点の笑顔で「だよねー」と当然のように返したのだった。
「いやいや、だよねーって、この課の課長さんですよね」
「まあ、二人しかいないから一応課長っていう程度だからさ。とりあえず、おやつ食べに行こうよ。泰京大街の饅頭がいいなぁ」
ニッコリ笑って肩を叩かれて、葉月は脱力した。
……この前も思ったけど、やっぱり発言が軽い。でも、考えれば考えるほどわけがわからなくなりそうだから、深く考えるのはやめよう。郷に入れば郷に従えだ。
「じゃあ、食べに行きますか。子草さん、いってきます」
一声かけたが、集中しきっている子草が返事をすることはなかった。
……ホント、さっきまでのやる気のなさが、嘘みたいなんだけど。
そして、数刻後。
葉月たちは夕飯までしっかり食べて、腹いっぱいで帰ってきた。
苦しさを隠して「ただいま、戻りました」と明るく部屋に入る。けれど、部屋はすでにもぬけの殻。
子草の机に残された紙を見ると、そこには白紙に収まりきらない、というよりも収める気がまったく感じられない馬鹿でかい文字が書かれていた。
――春分、卯の初刻、吉兆を示す――
卯の初刻とは、午前五時ころを指す。それは葉月が提案した『日の出前か日没後に、祭祀の時間を変更すればいい』という条件に、ぴったり当てはまっていた。