(10)
一瞬、頭が真っ白になって何が起こったのかわからなかった。
「……無事、でしたか」
喉の奥から絞り出された声に、思考がわずかに戻る。
……無事? それはこっちのセリフなんだけど。夢でも見てるのかな。もしかして、熱で意識がもうろうとしてるとか?
訝しく思って眉を寄せた葉月は、次の瞬間、相手の体が熱いことに気がついた。
「ちょっと、長官、すごい熱じゃないですか」
勢いよく体を離せば、瑚珀は呆けた顔で瞬きをひとつした。その顔はまだ夢から覚めていないというような、彼にしては無防備な表情だった。
……今抱きしめられたけど、意識混濁中の不可抗力ってことでいいですよね。
「熱が出たって聞いたんですけど、大丈夫ですか」
極力相手を見ないようにして尋ねれば、瑚珀はため息とともに「……夢か」と呟いた。しばらく天井を見つめていた瞳が、ゆっくりとこちらに向かう。
「どうしたんですか」
「鳳月長官からの見舞いを届けに来たんです」
「鳳月から見舞い?」
意味がわからないとでも言うように、瑚珀が眉をひそめる。
「西瓜です。瑚珀長官の好物だと聞きましたけど」
「たしかに、そうですが、あの男に見舞われる意味がわかりません」
「たぶん、礼部の者が迷惑をかけた……みたいなことだと思います」
鳳月の代わりとばかりにペコリと頭を下げる。
納得したのかしていないのか、瑚珀はそれ以上尋ねることはなかった。ふうと短く息を吐きながら布団に身を預け、目を閉じる。
「足は……よくなりましたか」
「ええ、おかげさまでよくなりました。長官こそ大丈夫ですか」
「……全く問題ありません」
目も開けられないくらいぐったりしながら言われても、説得力ゼロだ。
……それにしても、額の汗、すごいけど、このままでいいのかな。衣も汗ばんで……っていうか、これって着替えたほうがいいんじゃない?
「あの、そのままだと体が冷えてしまいそうです。着替え持って来ましょうか」
薄眼を開けた男と目が合う。否定しないということは承諾したということだと勝手に解釈して、葉月は長椅子に置いてあった内衣を持ってきた。
「ここに置いておきますから、着替えてください。私、濡れた毛巾を持ってきます」
葉月は駆け足で部屋を出て、毛巾を持ってきた。途中可喜に会ったら薬湯を渡されたので、それも一緒に持って部屋に戻る。
着替えた男が毛巾で顔や首を拭くのを確認して、薬湯を飲ませた。その間、ほとんど無言だったけれど、思ったほど沈黙はつらくなかった。というか、素直すぎて逆に戸惑ってしまう。
……普段もこれくらい素直だったらいいのに。
服を着たことで安心して男の寝顔を見る。憔悴したその様子に、急に罪悪感が湧き上がった。
「……私のせいですよね。雨の中私を背負って山を降りたから。すみませんでした」
小さな声で言うと、男がそれに反応するように唇を動かした。ほとんど聞き取れなくて「……えっ?」と聞き返す。すると、男は目を開けて口の端を少しだけ持ち上げた。
「だったら、褒美のひとつでもください」
「褒美……ですか?」
「ええ、あなたのせいらしいですから」
いつもより力なく笑うその顔に、首を傾げる。
……もしかして、これはいつものジョーク……なのか? 弱った死神のジョーク、わかりにくすぎる。力なく崩れた笑いが、ちょっとだけかわいいとか思っちゃったし……って、なに考えてるんだ。これって病気マジック!?
内心慌てながらも、なんでもない顔で黒縁眼鏡を押し上げる。
「わかりました。じゃあ、目を閉じてください」
一瞬瞠目した男だったが、素直に目を閉じた。
「ご、ご褒美です」
……なんだよ、この羞恥プレイ。
そう思いながら、葉月は男の口元に近づいた。
「口、開けてください」
長いまつげを微かに揺らし、濡れた唇を薄く開けたその姿はあまりにも無防備で、不覚にもドキッとした葉月は、その正体を脳が正しく理解しないうちに、勢いをつけて男の唇にくっつけた。
赤く色づいた瑞々しい、――西瓜を。
しゃりっと西瓜をかじった男が、薄目を開けた。
「甘いですか?」
「……ええ」
「ご褒美です」
したり顔でにっこり笑う。瑚珀は物言いたそうに瞳を眇め、そのまま思考の闇に戻るようにすうっと目を閉じた。
微動だにしなくなった男に、再び眠ってしまったのかと拍子抜けした次の瞬間――。
男は西瓜をつまんだ手首を片手でつかむと、こちらが驚く間もないくらいの速さで、指ごと残りの西瓜にかぶりついた。
「なっ!!!」
西瓜を掴んだ手を離そうとしたら、逆に口の中に引き込まれた。そうして、最後の一滴までおいしそうに西瓜を咀嚼した男は、壮絶な色気を含んだ瞳で微笑んだ。
「ご褒美、おいしく、いただきました」
……おいしく、いただきって、
「何してるんですかーーー!」
顔を真っ赤に、それこそ茹蛸のように真っ赤にして葉月は椅子から立ち上がった。つかまれた手を離そうとブンブン振ってみたけれど、離れない。
……ちょっと、なんで離れないの!? 弱ってくるくせに握力強すぎだし。これ、絶対にからかわれてるし。とりあえず、冷静にならなきゃ。
椅子に座り直して、深呼吸する。
「病人なんだから、おとなしくしてください」
「わかっています」
……でも、この手は離さないんですね。
「さっさと寝てください」
わかりました。そう言って、瑚珀は一旦手を離し、そして今度は手のひらを重ね合わせるようにして葉月の手を柔らかく握った。
「あの、私はどうすれば……」
「私が寝たら戻ってください」
「じゃあ、早く寝てください」
仏頂面で視線をそらせば、「冷たいですね」と男がつぶやいた。
……なんですと? かなーり優しくしたつもりですけど。
むうっと口を尖らせて開けっぱなしの窓に視線をやる。蝉の声に交じって、かすかに秋の虫の音が聞こえてきた。暑い暑いと思っていたけれど、季節は確実に移ろっている。
「……本当に、無事でよかった」
虫の音に紛れて聞き逃してしまいそうなその声は、低く掠れていた。
……もしかして眉山でのことを言ってるのかな。
「私は無事です。ぴんぴんしてます。それよりも、人のことはどうでもいいんで、病人は病人らしく、自分がよくなることだけを考えてください。ちゃんと、安静に寝てくださいよ!」
思ったより語気が強くなってしまったことに、急に不安になって、こっそり寝台を見ると――
男は切れ長の目を細めて、とろけそうな甘い笑みを浮かべていた。
……ちょっ…ちょっと、なに、そのうれしそうな笑い。なに、赤くなってんのよ、私。でも――、弱った死神は案外悪くないかも。この際だから、ずっと、ずっと、ずぅーーーっと熱が下がらなきゃいいのに。
寝息が聞こえてきたのでわずかに手を引いてみたが、握られた手が離れることはなかった。葉月は諦めて、作り物のように整った、それでいていつもより陰を帯びた寝顔を眺めた。
「早く、よくなってくださいね」
もう一話ありまする