(9)
あの老人のおかげだろう。ひねった足はすぐに良くなり、葉月は翌々日内城に出仕した。鳳月に今回のことを報告しなければならなかったからだ。
内城までの道を歩きながら、ふと山で出会った老人のことを思い出す。
「そういえば、帰る方法を教えてやろうって言ってたけど、あのおじいさん、何か知ってるのかな?」
老人は異世界人のことも知っていたし、実際に異世界人にも会ったと言っていた。そして、帰り方を教えてやろうと……。
でも、あの時葉月は即答できなかった。帰りたいはずなのに、ずっと帰りたいと思っていたのに、なぜか答えられなかったのだ。
異世界に来たばかりのころは食うにも困る生活で大変だった。今はそんな辛く苦しい状況からようやく抜け出して、異世界生活がちょっと楽しくなってきたところだ。だから、もう少しここにいたいと思ったのかもしれない。それとも、次第に人との繋がりができてきて、この繋がりを切りたくないと思ったのかもしれない。
でも、実際のところはよくわからない。すべてがもやもやとしていて、自分がどうしたいのかよくわからないのだ。
「まあ、今すぐ答えを出せとは言われなかったから、いっか……」
あの老人はまた会えると言っていた。だから、その時にまで考えよう。それに……、老人が言った言葉でもうひとつ、引っかかるものがあった。
――そいつは、この世界に来た意味を見つけたと言っていた――
この世界に来た意味。その言葉が、のどに刺さった小骨のように引っかかるのだ。
「私がここに来た意味かぁ……。そんなの、考えたこともなかったなぁ」
もし、異世界人がこの世界に来ることに意味があるのなら、自分にも意味があるのかもしれない。
「でも、そんなのあるのかなぁ……」
視線を空に向けてしばらく考えてから、小さくため息を吐く。
「とりあえず、鳳月長官の所に行かなくちゃ」
*
礼部長官室に行くと、鳳月は相変わらず完璧な微笑みで葉月を迎えた。
「いやー、今回は私も肝を冷やしました。さすがに君にも申し訳ないと思っていますよ」
微笑みを顔に貼りつけてそう言った男に、胡乱な視線を向ける。
……今回はってことは、今まではどう思ってたんですか。
「それにしても、まさか宋健が妖怪犯だったとは。誠実な仕事ぶりで高く評価していたんですがね」
「仕事の圧力に耐えられなかったと言っていました」
「そうですか。自分で自分に圧力をかけてしまったのかもしれませんね。まじめな性格でしたから」
ふいに『君みたいに、地位には興味ありません、自由に生きたいんですっていう人間が一番嫌いでね』と言った、宋健の顔を思い出した。
あれは嫌悪をむき出しにしながらも、どこか悲痛さを滲ませていた。
別に、自分だって自由に生きたいわけじゃない。ただ、異世界にやってきて、生きるのに必死で、食べるのに必死で、誰にも頼れなくて……。そんな中でなんとか自活しようとやってきた。それが結果的に自由に生きているように見えるだけだ。
「……彼を探すんですか?」
「ええ、もちろん。でも、実際に見つけるのは難しいでしょうね。手掛かりがなにもないですから」
「そうですよね……」
――地位を捨てた彼は、今、自由を手に入れたのだろうか。もし自由を手に入れたのなら、少しでも幸せだと思っていてほしい。
自分の身に降りかかったことと、そのせいで周りに迷惑をかけまくったことを思えば、軽々しくは口にできないけれど、葉月はそんなことを思った。
ふいに鳳月が何かを思い出したように「そういえば」と言った。
「君、瑚珀に背負われて山を降りたんですって?」
「えっ、はい。そうですけど」
「武官がいたにもかかわらず……ですか?」
そう言った男の瞳が笑っていないことに、葉月はビクンと体を跳ね上がらせた。
……うそっ。これってもしかして叱責パターン? 大目玉食らうってやつ!?
「あっ、あれは、瑚珀長官が乗れって……じゃなかった。乗ってくださいとおっしゃって、私も歩けると言ったんですけど、なぜか断れない雰囲気になりまして、武官の王偉さんも――」
「で、背負われたんですね」
「……はぃ」
「途中で雨が降ってきたらしいですね」
「……はぃ」
「あの男、熱を出しているらしいですね」
「……はぃ」
瑚珀は葉月を背負って山を下りた後、熱を出した。今日も仕事を休んでいる状態だ。鳳月はそのことを咎めているのだろう。
「す……すみませんでした!」
ガバリと勢いよく頭を下げた葉月の目の前に、ドンッと重量感のあるものが置かれる。視線を上げると、それは丸々とした西瓜だった。
「……西瓜?」
「見舞いの品です。持っていってくれませんか。あの男の好物なんですよ」
「それなら鳳月長官が直接……」
そう言いかけた葉月の言葉は、おばさま悩殺の完璧な微笑みに遮られた。
「あなたのせいで熱を出したんですから、これくらいのことはしてくれますよね」
……また、脅迫ですね。
*
その後、葉月は西瓜を持って瑚珀宅に戻った。
可喜に話したら、すぐに西瓜を食べやすいように切り分けてくれた。「可喜さんが持っていってください」と言うと、なぜか鬼気迫る顔で「葉月さんが持っていくべきです」と西瓜の載った皿を渡された。
……なぜに自分が?
と思いながら、屋敷の主人の部屋の前で首をひねる。
「鳳月長官からの見舞いの品だっていっても、いきなり入っていいのかな」
男が熱を出した原因の一つは、間違いなく自分を背負って山を下りたからだろう。昨日熱を出したと可喜に聞いてから、一言謝ったほうがいいとは思っていた。けれど、ただの居候が家主の部屋に断りもなく入るわけにはいかない。とりあえず元気になったら謝ろうと、今朝は出仕した。
それが、こんな形で部屋に入ることになるなんて……。
「まあ、西瓜を置くだけだからいいよね」
……そういえば、この部屋に入るのって初めてだ。ちょっと緊張するな。
葉月はゴクリと唾を飲み込んで、部屋の扉を開けた。
「――長官」
恐る恐る声を掛けたが返事はない。とりあえず、部屋の中をぐるりと見回す。赤や黄色で彩られた豪華絢爛な部屋を想像したが、意外にも落ち着いた色で統一された室内になぜかほっとして、足を踏み入れる。
寝台に視線を移せば、横になっている男の足が見えた。
……寝てる?
音を立てないように寝台に近づく。瑚珀は白地の内衣だけを身につけて寝ていた。綺麗な弧を描く眉は、今は苦しそうに歪められ、すっと伸びた首筋には玉のような汗が浮かんでいる。いつもはきっちりと締めている胸元は緩く開いていて……、思わずじっと見つめてから、慌てて顔をそむけた。
……ちょっと、薄着すぎでしょ!
正直目のやり場に困る。しかも、なぜか心拍数がやばい。寝ているようだし、こんな時はさっさと立ち去ろう。
早まる胸の鼓動を深呼吸でごまかしながら、葉月は寝台脇の袖机に西瓜の皿を置いて、すぐにくるりと踵を返した。
……これで自分の任務は完了した。後は可喜さんがなんとかしてくれるだろう。謝るのは……元気になってからでいいと思う。
うんとひとつ頷いて、歩き出したところで――。
「ハッ……」
寝ているはずの男がうわごとのように何かをつぶやいた。自分が呼ばれたような気がして振り返ったが、男は瞳を閉じたままだった。眉間には大きな皺が寄って、先ほどよりも苦しそうに見える。
「――長官?」
名前を呼ぶと、切れ長の瞳を彩る長い睫毛がピクリと動き、ゆっくりと持ちあがった。現れた漆黒の瞳が潤んでいるのは熱のせいだろうか。いつもの冷たさを感じない。
「ハ……ヅキ」
名前を呼ばれた瞬間、葉月の体は強い力で寝台に引き寄せられていた。