(8)
……えっ?
瞳を開けて前を見る。数メートル離れたところに、切れ長の瞳に秀麗な顔の男が立っていた。その額には、珍しく玉の汗が浮かんでいる。
……死神が汗を掻くなんて珍しい。
なぜこの男がここにいるのかということを冷静に考えるよりも先に、そんなことを思っていると、瑚珀が険しい顔で駆けてきた。目の前まで来て、葉月の持つ木の杖に視線を止める。
「どうしたんですか」
「ちょっと足をくじいちゃって……」
くじいたほうの足に体重をかけると、つきりとした痛みが走った。でも、歩くのには問題ない。そう答えようとして、思わず伸ばした足を引っこめた。
男が自らの衣に土が付くのもかまわず、葉月の足元にしゃがみこんだからだ。
「どこをくじいたんですか」
「えっ、大丈夫です。大したことありませんから。それよりも、長官がどうしてここにいるんですか?」
「妖怪騒ぎで刑部も動いていたんですよ。それで来てみれば、あなたが行方不明になったとかで麓は大騒ぎです。昨日から近隣の住民も総出で捜索活動です」
どうやら、大大大迷惑をかけたらしい。
「すみませんでした」
ぽつりとつぶやいた謝罪に答えることなく、瑚珀は葉月の足首にまかれた布に指を触れた。
「自分で手当てしたんですか?」
「それは、昨日偶然助けてもらった人に手当てしてもらいました」
「偶然助けてもらった人?」
「はい。この辺りに住む白髪のおじいさんです」
「名前は?」
「あっ、聞くの忘れた」
そう答えると、瑚珀は呆れ顔で自らのこめかみをぐりぐりと揉みこみこんだ。普段なら背筋が凍る死神のこめかみ揉みに、なぜか胸に安堵が広がる。
……ああ、現実に戻ってきたんだ。
「えっと、名前はわかりませんけど、この先の草庵に住んでいるおじいさんです」
指だけで後ろを指す。瑚珀は葉月の背後を一瞥して、奇妙なものでも見るように視線を戻した。
「何もないですが」
「えっ、なにもない?」
慌てて振り返り、そして、そこに広がる光景に絶句する。
そこは、――断崖絶壁の崖だった。
「う……そ。違うんです。さっきまでここに道が続いていて、赤い印を頼りに……」
「夢でも見ていたんですか?と言いたいところですけど、これは薬草に知識のある者がやったとしか思えませんね」
「だから、長い白髭のおじいさんが……」
煙にまかれた気持ちで呆然と切り立った崖を見る。その時、背後から焦った声がした。
「葉月、大丈夫か!」
子草が慌てた顔で駆けてくる。王偉もその後ろから厳つい体を揺らして走ってきた。二人とも息が上がり、額から流れた汗が顎まで伝っていた。
「無事だったか。葉月も宋健もいないからびっくりしたぞ」
「すみませんでした」
「それで、宋健は一緒じゃないのか?」
「宋健さんは……」
脳裏に、葉月の喉頸を掴んだ宋健の、狂気に満ちた瞳がよみがえった。
「実は……妖怪騒ぎの犯人は宋健さんでした」
はぁ? と驚く子草の声に被せて、背後から冷たい声がした。
「その男は今どこですか?」
振り返ると、瑚珀の鋭い視線がこちらに向かっている。
「……逃げました。昨日のうちに船に乗って南方へ行くと言っていたので、もう泰京にはいないと思います」
「今から追っても間に合いませんね。詳しくは、戻ってから聞きましょう。とりあえず、乗りなさい」
「……へっ?」
葉月は目の前に差し出された広い背中に言葉を失った。
……乗りなさいって、もしかして、死神の背中に? おんぶってこと?
「イヤイヤ、それは無理です。……じゃなかった、けっこうです。歩くくらい平気です」
さっきは状況がよくわからなかったけれど、よく考えてみたら、刑部長官本人が捜索活動に参加しているなんて異例のことだ。
しかも、おんぶされるなんて……普通に考えたらありえない。後で大目玉を食らうか、もしくは変な噂を立てられるか。いずれにせよ、よからぬ事態になりそうなのは目に見えている。
……断固お断りいたします!
ブンブンと首を横に振って拒否する葉月の前で、王偉が膝をついた。
「長官、私が背負います」
厳つい体の武官が、葉月に向かって背中を差し出す。
「さあ、どうぞ」
「本当に平気なんです」
「何かあっては困りますから」
……それって、私に何かあったらってことじゃないですよね。刑部長官に背負わせたなんてバレたら、武官としての自分の首が飛ぶかもしれないって思ってるんですよね。――わかります。その気持ち、すっっっごくわかります! ここはひとつ協定を結びましょう。
「すみません。じゃあ――」
アイコンタクトで無言の協定を結んだ葉月は、そろそろと王偉の背に手を伸ばした。おんぶされて山を下りるなんて恥ずかしいけれど、背に腹は代えられない。ここは互いの利害を重視しよう。
けれど、王偉の背にあと少しで手がかかるというところで、葉月の動きは横から割り込んできた切れ味たっぷりな声に止められた。
「君は下がっていなさい」
何事かと葉月が驚いていると、「ひぃぃぃぃっ……」とおよそ武官とは思えない引きつった声を上げて、王偉が目の前から飛びのいた。
「もっ、申し訳ございません」
瞬間移動とともに平身低頭する王偉。その横には、冷たい視線で見下ろす瑚珀の姿があった。
……さすが国家官吏も恐れる極悪死神刑部長官。屈強な武官を言葉ひとつで黙らせた。うーん、お見事。って感心してる場合じゃない。これって、もしかしなくてもこのまま死神に背負われて、山を下りるってこと!?
思わず助けを求めて、子草を見る。恐怖で大きく目を見開いた子草は、葉月と目が合うなり、口をパクパクと動かした。
――は、や、く、の、れ!
……って、助ける気ゼロかい!
子草が正義感を出して助けてくれるなんて思っていなかったけれど、これじゃあ、完全に生贄状態だ。恥ずかしい……というよりも、なんか色々色々後が怖い。怖すぎる。
……ああ、何とかしてこの状況を回避する方法は――。
その瞬間、頭上からぽつりと雨粒が落ちた。
「長官、雨です!」
「それがどうしたんですか」
「濡れてしまうので、先に山を下りてください」
「なに、馬鹿なことを言っているんですか。早く乗ってください」
「いぇ、けっこう……」
「乗りなさい」
「はっ、はい! わかりました! すみませんが、よろしくお願いしますっ!」
ささやかな抵抗は徒労に終わり、葉月は瑚珀に背負われて山を降りることになった。
途中、にわかに激しくなった雨に、男が自らの衣を脱いで葉月にかけようとしたのを全力で拒否した。しかし、結局は問答無用の視線に負けた。
肩に黒い衣が掛けられる。フワッと男の温もりに包まれた。
「すみません、重くて……」
「大丈夫です。牛よりは軽いですから」
……相変わらず、今日もブラックジョークは冴えまくってますね。それより、足滑らせて怪我とかしないでくださいよ。体重は軽くなりませんので。
落ちないように男の首にギュッとしがみつく。男性的な少し甘い香りが鼻腔をくすぐった。
……この匂い、嫌いじゃないな。
そんなことを考えているうちに、葉月は視界を遮られた衣の中でうつらうつらしだした。助かった安堵と心地よい揺れ、そして落ち着いたこの香りのせいかもしれない。寝てはいけない寝てはいけないと呪文のように唱えていたが、いつの間にか夢の世界へ旅立っていたようだ。
そして、目が覚めたのは麓に辿り着いた時で――。麓に集まっていた官吏たちに信じられない物でも見るような目で見られたところで、自らの状況に気がついた。
……まさか、死神の背中で寝てた!?
「すっ、すっ、すみませんっ!」
葉月は文字通り飛び上がって背中から降り、そんな様子を呆れた顔で見下ろす男に向かってペコペコと何度も頭を下げた。
その後、王偉に――刑部長官の背中で寝た女――という名誉からは程遠い称号を与えられ、この国の精鋭が集まる内城勤務の武官達に恐れられ……、いや、一目置かれたのはまた別の話。