(7)
「ええええっ!」
葉月は目玉が飛び出るくらい驚いた。
……それって、どういうこと? 異国人っていう意味? それとも、まさか……異世界人?
驚く葉月の前で、老人が酒をぐいっと飲んだ。
「昔会ったことがある。異世界人とやらに」
「異国じゃなくて、異世界ですか?」
「ああ、異世界人だ。まだ、わしが下界におったころじゃがな」
……下界。完全に仙人の域だ。
「お主と同じような、珍妙な形をした眼鏡をかけておった」
この国には基本的に眼鏡を作る高度な技術はない。現在、この国にある眼鏡はほとんど西域からの渡来品だ。そのせいで、この世界に来た時はずいぶん驚かれた。異国から来たと言ったらあっさりと納得してもらえたけれど。
「その人は、元の世界に帰ったんでしょうか」
興奮から半身を乗り出して尋ねる。
老人は長い顎ひげをくるくると指に絡めながら「――はて」とつぶやいた。
「忘れてしまったわい。最近物忘れが激しくての」
がくっと音が出るくらいの勢いで、葉月は肩を落とした。
すっごい有力情報のはずが、忘れたの一言で終わってしまった。でも、それでもこの世界に来て初めての異世界人情報だ。
「あの、その人について何か覚えていることはありませんか?」
「そうじゃの……」
老人は草庵から見える森に目をやった。
「ああ、そういえば、そいつはある日、この世界に来た意味を見つけたと言っておったな」
……この世界に来た意味を見つけた?
「それって、どういうことでしょう」
「はて。忘れてしもうたわい」
そう言って、老人はふぉっふぉっふぉっと笑いだした。
なんだか三歩進んで二歩下がる会話だ。でも、それでも十分だ。自分以外にもこの世界に来た人がいたということがわかっただけでも、有力情報だ。
「おじいさん、出会えてよかったです。あの、お酌させてください」
「おお、すまんの。若い息子ができたみたいで、うれしいぞ」
……息子。女ですけど、もういいです。
「おい、息子。おぬし歌か踊りはできないのか?」
「歌は全然。踊りは盆踊りくらいしかできません」
「じゃあ、そのぼのどりとやらを披露しなされ」
「ぼのどりじゃなくて、ぼんおどりです。それより、私、足をけがしてるんですけど」
「おお、そうじゃったの。じゃあ、琴か笛はできるか」
「すみません、何も……」
「芸がないやつじゃのぉ。しかたがない、そこで合の手でも打っておれ」
興が乗った老人は立ち上がると、腰まである白髪を振り乱し、トントンと軽快なステップを踏みだした。
「二人そろって酒飲めば、山の花がふわりと開く。一杯一杯もう一杯」
「よっ、男前!」
「おぬしもなかなか男前じゃぞ」
「いえ、私は女です」
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」
そんなやり取りをしながら、二人の宴会は夜まで続いた。
*
「木に赤い印がついとるじゃろ。これに沿って行けば下界に着く。なに、たいした距離じゃない。じゃがな、けっして振り返ってはならぬ。道を見失ってしまうぞ」
翌日、木の生い茂る山道で、老人は葉月にそう説明した。ひとしきり話を聞いてから、ペコリと頭を下げる。
「色々ありがとうございました。昨日は楽しかったです」
「わしもじゃよ。今度はぼのどりとやらを披露しなされ」
……ぼんおどりです。
「また楽しもうぞ、息子よ」
……だから、女です。もういいです。
「ええ、ぜひまた。赤い印を頼りに来ます」
木に着いた赤い印を指さすと、老人は長く伸びる白髭を撫でながら、ふぉっふぉっふぉっと笑った。なんだ達観しているような、すべてを受け入れてくれるような不思議な人だ。
「じゃあ、お世話になりました。絶対にまた会いに来ますから、私のこと忘れないでくださいよ」
「ふぉぉっ、ふぉっふぉっふぉ」
……うん、なんか忘れられそうな気がする。
けれど、「それも、まあいいか」と思いながら、もう一度深く礼をする。そして、一歩踏み出したところで、ふいに「異世界人よ」と呼び止められた。
「この世界は楽しいかの?」
振り返ると、老人はさっきと同じように笑っていた。一瞬間考えてから、小さく頷く。
「まあ、それなりに。初めは大変でしたけど、最近は必要とされることも増えて、人との繋がりもできて、この世界も悪くないかなとは思ってます」
「元の世界に帰りたくはないか?」
……えっ。帰りたいか? それは……。
「帰りたい……ですよ。もちろん。でも……」
帰りたい気持ちはもちろんある。でも、この世界で繋がりができて、必要とされていることも増えた。居場所も少しずつできて、ようやくこの世界が楽しいと思えるようになってきた。
……帰りたい。それはそうなんだけど。
次の言葉が出ない葉月に、老人は穏やかな顔で笑った。
「もし、どうしてもこの世界が嫌だ、元の世界に帰りたいと思った時は、ここに来なされ。帰り方を教えてやろう」
……帰り方を教える?
「えっ!? もしかしておじいさん、元の世界への帰り方を知っているんですか?」
そう叫んだ瞬間、背後から「おーい、葉月―――?」という声が聞こえた。
「ほれ、お前を探しに来たようじゃ。早く行きなされ」
「えっ、でも……」
「なに、また会える。お主が、会いたいと強く願えばな」
首を傾げる葉月の背を、老人が「ほれ、ほれ」と押す。
「空が暗くなってきた。一雨きそうじゃ。早く行かないと、お主の待ち人に会えなくなるぞ」
急かすように言われて、葉月は慌てて礼をした。
「おじいさん、足、ありがとうございました! また、遊びに来ますから、それまで元気でいてくださいね」
まるで自分の祖父に言うような口調で言えば、老人は嬉しそうに笑った。
「孫ができたみたいで嬉しいぞ」
そうして、葉月は老人に別れを告げ、杖をつきながら山を降りた。老人の言いつけどおり、赤い印を目印に。一歩一歩注意しながら。
程なくして、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「葉月、どこだー?」
……あっ、やっぱり、子草さんの声だ。なんだ、けっこう近くにいるんじゃん。
嬉しくなって口元をほころばせたその時、森の中を突風が吹き抜けた。葉が風に舞い、その風を避けるように葉月は顔を伏せた。
……雨が近いな。早く行かなきゃ。
目を閉じながらそんなことを考えていると、
「――ハヅキ」
突如、森の中に低く通る声が響いた。