(5)
――そろそろ寝ようか。
誰かの発した一言で、その場はお開きとなった。
葉月は火元に近い岩の陰で、荷物を枕に地面に横になった。昔は、これといった特技もなかったけど、今はどこでも寝られるのが特技だ。
……でもさすがに地面に直接は体が痛い。眠れるかな。
始めはそんなことを考えていたのだが、相当疲れていたらしい。数分もしないうちに、電気が消えるようにパッと眠りに落ちた。
――パチッ。
火の爆ぜる音で、葉月は目を覚ました。
見上げると、辺り一帯は先ほどよりも濃い霧が立ち込めていた。それでも、空が薄明るくなっている様子から、夜明けが近いことがわかった。
……そういえば、火の番って誰がやってるんだっけ。
もぞもぞと体を起こして、火のある方向を見る。けれど、そこに人影はなかった。
「あれ? 誰もいない」
視線を自分の近くに戻す。葉月から人ひとり分離れたところで、子草と王偉が体を寄せ合うようにして寝ていた。
つまり火の番は宋健ということになる。トイレにでもいったのかもしれない。
「私もトイレに行きたくなってきたかも」
とはいっても、山頂にトイレなんてものはないから、どこでもご自由にどうぞ状態なんだけれど。
「ちょっと、トイレに行ってきまーす」
寝ている男達に声を掛けたのだが、二人に起きる気配はない。
……まあ、すぐに戻ってくるし、事後報告でもいっか。
そんなことを考えながら、葉月は山を少し下った。
「はぁぁぁ。すっきり」
茂みから体を起こし、長い息を吐く。
「もしかして、またひとつ特技が増えた? いや、これは応急処置的なもので、断じて特技とかじゃないからね」
ぶつぶつと独り言を言いながら身なりを整え、ぐるりと周りを見回す。昨日来た時は草木が生い茂っていた登山道だったが、今は濃い霧に包まれていた。
昨日とは一変した景色に恐怖が忍び寄る。
……ちょっと怖いな。
一寸先は闇。道を間違えたら命取りになる。葉月は急いで来た道を戻った。
少し歩いたところで、ふいに白い霧の中を移動する人影が見えた。
……うそっ。まさかの幽霊……じゃないよね。
ギクッと肩を揺らすと同時に、山を下っていく人影が一瞬こちらを向いた。その糸のような目に、既視感を覚える。
……ん? あれって――。
「宋健さん?」
たしかに彼だった。しかし、笑うと糸のようになる優しい瞳が、今は感情の読めない冷たい瞳に変わっていて、ぱっと見た感じ同一人物とは思えない。
トイレという雰囲気ではないし、道に迷った気配もない。むしろ、はっきりとした意思を持って、どこかに行っているような。
……緊急事態でも発生したのかな?
「でも、そういうときって、誰かに声をかけてから行くよね」
訝しみながら男の後をついていく。はじめ下っていた山は、いつの間にか上りに変わっていた。
これはもしかしなくても戻ったほうがいいんじゃ……。そう思って振り返ったけれど、濃い霧に包まれた山の中では、いったい自分がどちらから来たのかもわからなかった。
……駄目だ。これ、ひとりで戻ったら、確実に遭難するやつだ。
「こんなことになるんだったら、子草さんに、ちゃんと言ってから来ればよかった」
自分の浅慮さに悲しくなりながら、これはもうひたすらついて行くしかないと諦めて、葉月は宋健の後ろを歩き続けた。
しばらく行ったところで、宋健が立ち止まった。少し離れたところで葉月も立ち止まる。
そして、その先の景色を見て、息を呑んだ。
そこは、断崖絶壁の崖だった。
……まさか、自殺!? あんな癒し系の顔をして、実は何かに思い悩んでいたとか? いや、癒し系の人も悩むことはあると思う。むしろ、おとなしい人ほど内に色々ため込んで、爆発するって聞いたこともある。とりあえず、声をかけた方がいいのは確実だ。
自らを納得させるように大きく頷いて一歩踏み出す。と同時に、宋健の顔に光が差し込んだ。
山の稜線に目を向ければ、霧の向こうで登り始めた太陽が辺りを薄明るく照らしている。
……ああ、日の出だ。
なぜかホッと胸を撫でおろしたその時――。
「――お前たち!」
辺り一帯にドスの効いた声が響き渡った。
「金目の物を置いて、ここから立ち去れ。さもなくば呪い殺すぞ」
声はまるで山びこのように、緩やかな稜線を描く山々に響き渡った。そして、声の主は――今まさに、目の前にいた。
……う、うそーーーー。まさか、妖怪の犯人、見ちゃってる? まさかまさかの身内が犯人って、どういうこと!?
葉月は息もできないくらい驚きながら、足だけを後ろに動かした。
……と、とりあえず、ここから逃げなきゃ。
でも、元々慣れない獣道。視線を宋健に向けたまま後ろ足で歩いていたのだが、ぬかるみに足を取られて、そのままズルリと転んでしまった。
「うわっ!」
とっさに声が出て、慌てて口を押える。けれど、すでにバレてしまったらしい。糸のように吊り上がった目が、ゆっくりとこちらを向いた。
「誰ですか? ああ、空読み師さんでしたか。どうしてこんな所に? もしかして、私の正体に気づいていたんですか?」
ブルブルと首を横に振って、否定する。
「一人で来たんですか?」
ブンブンと首を縦に振る。
「そうですか。まあ、見られてしまったのなら、しかたがないですね」
口に笑みを浮かべながら、宋健が近づいてくる。
逃げたいのに、体が動かない。それどころか、恐怖で足が震える。
「あ……あの、どうしてこんなことを……」
「どうして? もちろん金が必要だったからです」
「でも、あなたは国家官吏で、お金になんて困っていないんじゃ……」
「普通に使っていれば困りませんね」
「じゃあ、何に?」
「そんなこと、事細かにあなたに説明して、どうなるんですか?」
たしかにどうにもならない。でも――。
「もしかしたら、なにか助けられることが、あるかもしれない……じゃないですか」
得体のしれない怖さに声が震えた。その時、宋健が急に声を上げて笑い出した。
その叫び声のような笑いに、体が震える。彼の顔からマイナスイオンたっぷりの癒しオーラは消え去り、視線はどこか狂気じみた色を帯びていた。
「私はね、けっこう君のことを気に入っていたんですよ。知っていましたか?」
「……いえ、知りません……でした」
「でも、今はもうそんなことはどうでもいいですね」
宙を見つめた男は、独り言のように語り出した。
「子供のころから血のにじむような勉強の末、ようやく官吏になれたと思ったら、次は選良意識の高い官吏の中で、常に出世争い。いつになっても競争競争で気が休まる暇もない。妻は自分の地位にしか興味はなく、大した才能もない私は、今の場所を確保するのに必死で、いつしか心がすり減っていたんです」
そこまで言って、急に宋健は俯きながら肩を震わせた。
「そんなときに、あの人は現れた。そして、私の疲れ切った心を癒してくれた。だから、彼女のためなら金は惜しくないと、自分は、自分は……」
……えっと、それはつまり、女に金を使ったということでしょうか。元の世界でも似たような話を聞いたことがあります。
「あの……、だったら、それをそのまま鳳月長官に話してみたら……」
言葉を最後まで言わないうちに「無駄だ!」と宋健が金切り声を上げた。
「あの人は能力のない者には見向きもしない。どうせ、このまま官吏は続けられないとわかっている。南方へ逃げる手筈もすでに整えた。だから、これで最後だった。それなのに、最後の最後で君に見つかるなんて――」
宋健が顔を上げる。糸のような目がクワッと見開かれた。
その豹変ぶりに驚く間もなく、男が突進してくる。殺気に満ちた相貌に全身を緊張させた瞬間、伸びてきた手が葉月の喉を押さえた。