(4)
着替えを終えて山頂に戻ると、一足早く戻った子草が焚火の準備をしていた。他の男たちはまだ戻っていない。つまり……二人きりだ。
……ちょっと、いや、めちゃくちゃ気まずい。こんな時は、いつも通りに接したほうがいいはず。こっちが気まずくしていると、相手もどうしたらいいかわからないだろうし、いつも通りに、いつも通りに……。
「子草さん、さっきは、すみませんでした」
そろそろと近づいて囁いたら、子草の肩がビクンと跳ね上がった。
「お、お、お、俺も悪かった」
……だから、そういう素直な反応をされるとやりにくいんだって。いつもみたいに、お前の裸なんか、物の数のうちに入らねえとか言ってほしかったのに。
「どうせ見るなら、もっと豊満な体がよかったですよね」
「そんなことないぞ。ガリガリのまな板だと思っていたけど、意外に……」
子草はこちらを一瞥して、顔を赤くした。
「……あるんだな」
……って、ストレートすぎるんだよ!
気づけば、葉月は子草の肩をグーで殴っていた。
「なっ、何するんだよ!」
「子草さん、デリカシーなさすぎです。そんなんだから、女子にもてないんですよ」
「なんだと!? お前に言われたくねえ。それよりも、今、本気で殴りやがったな。いってえ……」
肩を押さえる子草を無視して、葉月は歩き出した。
……本当に信じられなくらい、デリカシーゼロだ。このことは、蚊に刺されたとでも思って、直ちに記憶から抹消しよう。ポチッ。
それにしても――。
「意外に……ある?」
こっそりと胸元から自らの胸を覗く。
たしかに最近は三食しっかり食べているから、半年前よりも肉付きがよくなった。まな板ガリガリだった胸も元に戻りつつある。でも、どう見ても豊満とは言い難い。
まあ、想像よりは……ということだろう。
*
夏の日没は遅い。とはいえ、あれこれ準備をしているうちに、あっという間に日は暮れた。暗くなってしまえばやることもなく、四人は早々に夕食をとり、その後は思い思いの時間を過ごした。
暖を囲んだ男たちのとりあえずの話題は、やはりこの山に妖怪が出るかということだった。
「本当に妖怪の仕業だと思うか?」
いかにも武官といった体つきのいい王偉が、火をくべながら三人を見た。
王偉の横に宋健、宋健の隣に子草と円を描くように座る。葉月は子草の横にちょこんと座りながら答えた。
「やっぱり人の仕業なんじゃないですか。金をよこせなんて、妖怪が言うかな……」
「でも、もし人の仕業だったら、この辺で俺らのことを見てるんじゃないか」
子草の問いに、王偉が首を横に振る。
「いや、辺りを見てきたが、人影はなかった」
「じゃあ、本当に妖怪……」
「いや、熊かもしれない」
……うそ。この山、熊が出るんかい!
葉月はギョッとして、向かいに座る筋骨隆々な武官を見た。
「もし、熊が出たらどうしたらいいんですか?」
「とりあえず、声は出すな。そして、背中は向けるな。ゆっくりと後ろ脚でその場を去れ。それでも襲ってきたら、弓矢で撃て」
「ゆっ、弓矢? そんなの使えないんですけど」
……武官なんだから、助けてくれますよね。
そんな思いを込めて見つめると、王偉は背後から自らの弓矢を取り出した。
「しかたがない。貸してやる。今のうちに練習しておけ」
「練習しておけって、そんなの無理ですよ! まさかの一夜漬けですか!? たしかに、試験勉強は完全に一夜漬け派でしたけど、漬物は浅漬け派でって、そうじゃなくて、どう考えても無理です」
……まさか、ここでは自分の身は自分で守るシステムなの? ハードル高すぎ……。
「とりあえず、声は出さないようにします。背中も向けません。後は、ひたすら神に祈ります。今まで神様が自分の願いを聞いてくれたことなんてなかったけど、根性で祈りたいと思います!」
祈りのポーズを取ると、それを見た男たちがクツクツと笑いだした。王偉も肩を震わせて笑っている。
「お前、それ素か?」
「へっ?」
「冗談に決まっているだろ。一日二日で弓矢が使えるようになったら天才だ」
どうやら冗談だったらしい。
「王偉さん。あんまりこいつをからかうと鉄拳をくらいますよ。これが結構痛くて」
「へえ。一度受けてみたいな」
「もしかして、そっちの趣味があるんっすか?」
「実は女に踏みつけられると快感で――」
しなを作った厳つい武官を前に、男たちは声を立てて笑った。どうやら、これも冗談らしい。これが体育会系のノリというやつなのだろうか。まったくついていけない。
「そういえば、葉月、妖怪の正体に心当たりがあるんだろ」
すっかり乗り遅れていた葉月は、子草の問いかけに一瞬遅れてから「ええ」と頷いた。
同時に、男たちの笑いが調子を合わせたようにピタリと止む。どうやら冗談を言い合っていても、気は緩めていなかったらしい。
葉月は眼鏡を押し上げて、男たちをぐるりと見た。
「おそらく妖怪の正体は、――自分自身です」
「自分自身? それって、目に見えない自分の分身が現れたとか? 幽体離脱みたいな状況かよ」
「えーっと、そうじゃなくて……正確には、妖怪の正体は、霧に映った自分の影です」
「自分の影?」
「はい。朝日が昇る時、ちょうど太陽を背にして霧の方向を見ると、霧の中に太陽の光でできた自分の影が映ることがあるんです」
「……なるほど。影って考えたら、巨人に見えるっていうのもわかるな。だったら、その周りにできる光の輪はなんなんだ?」
鳳月も言っていた。妖怪の周りに光の輪ができると――。
「それは、光の屈折現象です。太陽の光が真横から差し込む時、反対側に霧があると、光が霧の粒にぶつかって屈折して、七色の輪が見えることがあるんです」
「七色の輪?」
「うーん……。簡単に言えば、虹みたいなものですね」
王偉が「ほお」と驚きの声を上げた。
「なんだか説得力があるな」
「私の国では、ブロッケン山という山でよく起こるので、ブロッケン現象って呼ばれているんですけど。またの名を、ブロッケンの妖怪っていったりもするんです」
「妖怪!? 今回の妖怪騒動と一緒じゃないか!」
「ええ。だから、ピンと来たんです」
――ブロッケン現象――
またの名を光輪現象ともいう。朝日が昇り始め、太陽の光が真横から差し込むとき、目の前にある霧に自分の影が映る現象である。その時、霧の粒に当たった光が散乱して、影の周りに虹に似た光の輪が現れる。
妖怪と恐れられることもあれば、仏の後光といって崇められることもある珍しい現象だ。
「ふーん。じゃあ、その現象が明日も起これば、妖怪騒ぎの犯人が現れるかもしれないってことだな」
腕を組んだ子草がフムフムと頷く。その横で、それまで無言だった宋健が、ぐるりと辺りを見回しながら呟いた。
「霧が、濃くなってきましたね」