(3)
眉山は泰京の東方に位置する、標高二千メートル級の山々だ。眉のようになだらかな稜線を描くことからその名がつけられたが、実際に登ってみると――。
「ハードすぎる……」
頂上に辿り着いた葉月はその場にへたりと座り込んだ。もう一歩だって歩けない。
「お前、体力ないなぁ」
濁声を響かせた男にむうっと口を尖らせる。顔を上げなくてもわかる。こんな事を言うのはひとりしかいない。
「子草さん、私これでも女なんです」
……しかも、運動神経ゼロなんです。登山なんて小学校の課外授業で登ったきりなんです。しかもその時の山なんてハイキング程度の高さで、こんな本格的な登山初めてだったんです。そんな、か弱き乙女に向かって第一声がそれですか? お疲れ様とか、いたわりの言葉はないんですか?
と、心の中で叫んだが、疲れすぎて言葉にならなかった。それよりも、これからここで一晩明かさなければいけないのだから、まだまだ先は長い。
「なんでこんなことに……」
ぽつりとつぶやいた声は、蚊の鳴くように弱弱しかった。
鳳月の一声で、葉月は妖怪退治に参加することになった。メンバーは礼部の官吏と武官がひとりずつ。そして、葉月と子草の四人。子草は葉月のお目付け役みたいなものだ。一応、知らない男たちの中に女がひとりはまずいと思われたのだろう。
けれど、出発前に子草が放った、
「こいつ、男みたいなもんですから」
という一言で、全く女性扱いされていない。今日は男物の短装を着ているし、髪は適当にひとつに結っただけという、女らしさの欠片もない格好だからしかたがない。とはいっても、体力が男性並みにあるわけではない。登山がこんなにきついなんて想像もしなかった。
「こんなことになるなら、日本にいる時、登っとけばよかった」
声にならない声で呟いたところで、ふいに目の前に杯子が差し出された。
「お疲れ様。大変だったでしょう」
顔を上げれば、そこには長身痩躯の男が細い目をさらに細めて、にこりと笑っていた。
なんだか癒しオーラが、マイナスイオンがでまくっている。
名前はたしか宋健といった。礼部の官吏だと紹介されたけど、礼部にこんな癒し系がいたなんて知らなかった。
……もっと、早く会いたかったです……マイナスイオンさん。
そんなことを思いながら杯子を受け取る。
「すみません。実は登山は初めてだったんです」
「昨日の今日で、突然山に登ってこいだなんて、鳳月長官も鬼なところがあるから。とりあえず、水でも飲んで休んでいたらいいよ」
「ありがとうございます」
杯子の水をグイッと飲む。冷えた水が喉を通って、臓腑に染みわたった。
「はあぁぁ、おいしいーーー」
長い息を吐くと、宋健が糸のような目を細めて、ニコリと笑った。
「それはよかった」
……なんだか、とってもいい人だ。
*
しばらくして、男たちは見回りに出かけたり、夜に備えて火の準備をしたりしだした。
何もすることのなかった葉月は、汗でべっとり張りついた服をパタパタと仰いだ。
「とりあえず、着替えでもしよっかな」
とはいっても、山の頂上に着替えができる建物があるわけではない。少し下って、登山道から外れた木の間に身を潜ませる。
「ここなら山頂からは見えないし、大丈夫だよね。さっさと着替えちゃおう」
べっとりと張りついて腕をはずすのも一苦労な衣を脱ぐ。胸当ての紐も汗を吸ってするりとは解けない。絡まった結び目に四苦八苦して、ようやく胸当てを取り去った。
心地いい風が上半身を吹き抜ける。
……気持ちいい……でも、さすがに恥ずかしいな。さっさと服を着よう。新しい胸当て、胸当て、って、どこだ?
慌てて荷物の入った包みをひっくり返す。
……ない、ない、どこにもない!
額に嫌な汗が浮かぶ。それでも、どこかにあるはずだと衣をバサバサと振ったところで、袖からポロリと紐のついた胸当てが落ちた。
「あっ、あった……!」
どうやら衣の袖の中に紛れ込んでいたらしい。
ホッと胸をなでおろし、おもむろに視線を上げる。そして、そのまま固まった。
視線の先、葉月から数メートル離れたところで、ぼさぼさ頭から除く瞳を極大まで見開いた子草が、口を半開きにして立っていたからだ。
「えっ…………」
人間、あまりに予想しないことが起こると、脳がフリーズするらしい。胸を隠すことも忘れて呆然と子草を見つめる。すると、子草の手から焚き火用の木がぼろぼろとこぼれ落ちた。
そこでようやく我に返る。
「しっ、子草さん、何、見てるんですか!!」
子草も同様現実に戻ったらしい。顔を真っ赤にして、勢いよく後ろを向いた。
「お、お前の裸なんか見たいわけがないだろ。たまたま、見えちまっただけだ」
「そんなのわかってます!」
「言っとくけど、そんな所で着替えているお前が悪いんだからな」
「それもわかってますって。とりあえず、さっさと消えてください」
「当たり前だろ」
ぶっきらぼうにそう言うと、子草は落ちた木を拾いもせず、一目散に去っていった。
……なんで子草さんがこんなところにいたの? いや、彼は悪くない。こんなところで着替えてた自分が悪い。それはわかってる。わかってるんだけど……。
「ウギャーーー」
葉月は到底女らしくない叫び声を上げた。