光輪(1)
――眉山の頂上でな、俺は幽霊を見たことがある――
鋭さをたたえる三白眼を細めて、男は語り出した。
それは、丑の刻が過ぎたあたりだった。真っ白な霧の中、俺はそこで暖を取りながら寝ていた。ふと誰かが自分を見ている気配を感じて、起き上がって辺りを見たんだ。でも、誰もいない。俺は一安心してふと上を見た。そうしたら、そこに巨大な幽霊が――。
「きゃーきゃーきゃー! 馬さん、やめてください、そんな話」
葉月は絶叫とともに耳を塞いだ。天壇の周辺にいる人たちの視線が一斉に集まる。
「お前がなにか一瞬で涼しくなる方法がないかって言うから、話してやったんだろ」
「誰も怪談しろとは言ってないじゃないですか。これでも、ゴキブリと怖い話は、世の中で一番嫌いなんです」
若干涙目になる葉月の前で、三白眼の飴売り男がニヤニヤと笑った。前歯が二本かけているため、その笑顔はなんだか妖怪に見えなくもない。
「お前も一応女なんだな」
「なんですか、その一応って」
「一応は一応だ。そのメガネザルみたいな顔をどうにかしたら、もうちょっとなんとかなるかもしれないけどな」
この男、いつもこうやって、ちょっかいを出してくる。「お前の傘は相変わらず売れねえなー」とか「もっと愛想よくしたらどうだ」とか。
傘が売れないのはその通りだから何も言い返せないけど、メガネザルはどうかと思う。
「隙っ歯の馬さんに言われたくありませんよーだ」
「お前、そのずけずけ言うところも、なんとかしたほうがいいぞ。女はやっぱり小さな足に柳腰。触れたら消えてしまうくらい、か弱いほうが庇護欲そそ…………いでっ!」
葉月は売り物の傘で、隣に座る飴売り男の足を突いた。
「あらー、すみません。片付けようとしていたら手が滑ってしまって。おほほほほーー」
「おー、まー、えー、なーーー」
「では、私、今日はこのくらいで失礼します。ごきげんよう、また明日」
傘を詰めた竹籠をよいしょと担ぐ。そして、淑女のようににこやかに一礼すると、葉月はスタスタとその場を去った。
……こんな炎天下の中、直射日光をずっと浴びていたら熱中症になる。どうせ傘も売れないし、さっさと帰ろう。
「それにしても、触れたら消えるって、完全に幽霊じゃん。そんな女、現実にいるわけないって……、ああ、それよりも暑いー」
額に滲んだ汗を衣の袖で拭いながら、空を仰ぐ。
今年は立秋を過ぎても暑さは収まらず、処暑を過ぎてもまだ暑い。
――秋老虎――
こちらの人は残暑のことをこう呼ぶ。秋に猛々しい虎が戻るという意味らしい。たしかにその通りだと、この国の人の発想力には感心する。……けど。
「猛虎ちゃん、お願いだから、さっさといなくなって……」
じりじりと照らす太陽を仰いで、葉月は嘆息した。
*
居候先の瑚珀宅に着くと、葉月は裏口から屋敷に入った。厨房のほうからはトントンという包丁の音が聞こえてくる。ひょいっと覗くと、可喜が晩御飯の下準備をしていた。
「ただいま、可喜さん。煎り豆を買ってきたんですけど、一緒に食べませんか?」
「ああ、葉月さん、おかえりなさい。煎り豆ですか? いいですね。これが終わったら、お茶を淹れます」
「お茶は私が淹れますよ。可喜さんはその作業をしてください」
「そうですか、すみません」
ぺこりと頭を下げた可喜に笑顔で返し、葉月はいったん部屋に戻って竹籠を置くと、その足でお茶の準備をした。
お盆に茶器を並べ、急須にひと匙の茶葉と湯を入れる。茶葉が開いたところで茶器に注ぐと、すぐに爽やかな香りが立ち昇った。
中庭に設えた卓に煎り豆も置いて、準備は完了。
煎り豆を一粒つまんで口に入れたところで、厨房のほうから可喜が小走りで近づいてきた。
「葉月さん、お待たせしました」
「花茶を淹れたんだけど、よかったですか?」
「花茶ですか。爽やかでいいですね」
「暑いから、爽やかなお茶のほうがいいかなって思ったんです」
「嬉しいです。それにしても、本当に暑いですよね。今年はいつになったら涼しくなるんでしょうか」
「今年の猛虎ちゃんは、まだまだ暴れたりないんじゃないですか?」
秋老虎にかけて言ってみたら、茶器を手に取りながら可喜が笑った。
「本当に、今年の虎さんは元気ですね」
最近、可喜とはお茶をしながら、たわいもない話をするようになった。街での噂話だったり、天気の話だったり。ほとんど中身のない会話だったけれど、葉月にとっては楽しい時間だ。なんとなく友達と意味もなくしゃべっている気分になるのだ。
「そういえば、今日、飴売りの馬さんに聞いたんだけど、眉山に幽霊が出るらしいですよ」
「幽霊ですか? でも、あの山ならちょっと納得です。昔から霊山と言われていますから」
「霊山?」
「ええ、不思議な現象がよく起こるらしいです」
へえ。と葉月は相槌を打った。じゃあ、飴売り男が言っていたのも、脚色過多というわけじゃないのかもしれない。
「不思議な現象かぁ……」
ポツリと呟いたところで、背後からスッと手が伸びてきた。
「不思議な現象が、どうしたんですか?」
低く通る声にハッとして横を見れば、そこには屋敷の主、瑚珀の姿があった。仕事から帰ってきたところなのだろう。男は長官職の者が着る黒い官吏服を着ていた。どう見ても暑そうなのに、その額には汗ひとつ浮かんでいない。
……こっちは家に帰るだけでも汗だくだっていうのに、この男、本当に血が通ってるのか?
そんなことを考えながら見つめていたら、豆をつまんだ瑚珀と目が合った。その手がゆっくりと伸びてくる。
「食べますか?」
言われた意味がわからなくて、自らの口元に視線を移す。そこにあるのは男の指と、その指に挟まれた黒い豆。
……えっ、まさかこの状況で食べろって、この手から直接食べるってこと?
「けっこうです。自分で食べられます!」
威勢よくそう言って、葉月は皿から豆を鷲掴みにして口の中に一気に入れた。喉の奥のほうまで豆が勢いよく流れこんで息が苦しくなる。
「うほっ、ごほっ、……ごほごほっ、ごほほっ」
……完全に入れすぎた。というか、豆がモホモホして、苦しっ。こんな時は……。そうだ、お茶だ!
慌てて手元の茶器を掴んで、ごくりとお茶を飲む。続けて、ごくごくごくと一気飲み。ついでに胸をトントン叩いて、ようやくホッとしたところで、クツリと笑う男と目が合った。
「百面相ですか?」
「……えっ、百面相?」
口の端を持ち上げて笑うその顔は、この男がからかうときのもので……。
……というか、これ、かんっぜんに、からかわれたし!
葉月はむうっと口を尖らせた。
あれから――。
この男に「ここにいたらいい」と言われてから、葉月はこの家で過ごしていた。
可喜とは以前よりも仲良くなったし、お客様気分も抜けて、いつの間にかこの家の一員のようになっている。
でも、それと同時に、以前にも増して、瑚珀にからかわれること多くなった気がする。気がするのではない、確実に多くなった。どうしてからかってくるんだろうとは思うけど、もちろん理由なんてわかるわけがない。
魑魅魍魎さは減ったが、何を考えているかわからないのは相変わらずだ。
「からかわないでくださいよ」
「別にからかったわけではありません」
……からかったわけじゃないなら、いったいなんなんだ。
目線だけでジロリと睨み上げる。そんな葉月に、これ以上何か言うと本気で怒らせるとでも思ったのだろうか。瑚珀は小さく肩をすくめると、豆を一粒口に入れて自室へと戻っていった。
瑚珀の姿が見えなくなったところで、それまで静かだった可喜がクスクスと笑い出した。
「旦那様、楽しそうでしたね」
「えぇっ!? あれのどこが楽しそうなんですか。からかわれてばっかりで、いい迷惑です」
「からかうというよりも、葉月さんとの会話を楽しまれている気がします」
「そうですかー。ぜんっぜん、そうは見えませんけど」
ニヤリと笑う男の顔は皮肉さたっぷりで、葉月にしてみたら全く楽しそうには見えない。
とはいっても、たまに見せる思わず出てしまったというような微笑みは、それはそれでなぜか見てはいけないものを見てしまったような気分になるので、この男はこれくらいの笑いがちょうどいいのかもしれないとも思う。
……まあ、いまだに監視されている事実は変わらないらしいし、そんな男のことをあれこれ考えてもしかたがないんだけどね。
葉月は仕切り直しとばかりにコクリとお茶を飲んで、可喜との会話に戻った。