(12)
衣ひとつ息ひとつ乱さず、視線だけがもの言いたげに揺らぐ。
「えっと……、嫉妬するって、意味がわからないんですけど」
「わからないですか? あなたは鈍感すぎます」
――こんなところに唇を許して。
咎めるような言葉とともに、長い指が葉月の前髪をはらい、額をかすめた。
……ひえぇぇ。今めっちゃゾワッときた。手も足も心臓にも鳥肌立った。しかも唇を許してって、唇なんて許して……、あれ? もしかして。
わずかに冷静になった頭で、その場所を確認する。それは河柳にキスっぽいことをされた場所だった。
まさか今日の河柳とのやり取りを見られてた? その前に、あれは本当に唇だったのか、それすらわからないんだけど。でも、それがどうして死神に関係があるの? だって、この男は自分のことを監視していて、好意を抱いているはずがない。いや、その前にこの男は男が好きで……。だから、嫉妬なんて……。あっ、もしかして。
「河柳のことが好きなんですか?」
「どうして、そういう思考になるんですか」
「えっ、だって、男性が好きなんですよね」
長い指がこめかみに伸び、ぐるりと揉みこむ。
ああ、なぜか怒らせてしまった。もしかしてそこはデリケートな部分で触れられたくなかったのかもしれない。
「すみません」
気まずく頭を下げると、盛大に嘆息された。
「それは、ただの噂です」
「……えっ、噂?」
「ええ、噂です」
噂ってところ、すっごい強調された。というか、今の今まで男色家だと信じていたんだけど。……えっ、だったら何に嫉妬したの?
そっと顔を上げたら、視線がぶつかった。
時が止まったように見つめ合う。
漆黒の瞳の中心に小さな熱が沸いた気がして一瞬怯むと、すぐに瑚珀はため息とともにその瞳をまぶたの奥に隠した。
「あなたには何を言っても通じない気がしてきました」
「えっ?」
「いえ、ひとり言です。とりあえず、先ほどは感情的になってしまいました。悪かったと思っています」
突然の謝罪に、葉月は瞠目したまま固まった。瑚珀に謝られるなど初めてのことで、どう反応していいかわからなかったのだ。
でも、とりあえず自分も……と思って頭を下げる。
「私こそさっきは感情的になって……すみません」
「いえ、追い詰めたのはこちらです。もちろんあなたを刑に処すことはありません」
……刑に処す?
一瞬首をひねったが、すぐにさっき混乱するあまり、牢に入れるなり処刑するなり好きにしてほしいと言ってしまったことを思い出す。
今更ながら自分の発言が恥ずかしい。目線を下げて足元を意味もなく見つめていると、頭上からフッと笑いのような呼吸音が聞こえた。
「もしあなたが刑に処されたいなら別ですが。ずいぶん牢が気に入ったようですから」
えっ……と思って視線を上げる。そこにあったのは口の端を緩く持ち上げて笑う男の顔。それはいつもこの男が冗談を言う時の顔で。
……まさか、これはいつものブラックすぎるジョーク? こんなタイミングで!?
「けっ、結構です! ちなみに牢は気に入ってませんから!」
真っ赤になって否定すれば、男は「残念ですね」と言って、クツリと喉を震わせた。
……笑いながら残念って、どういうこと?
呆気にとられながら「冗談はやめてください」と呟くと、「冗談で言ったわけではありません」と返された。
……冗談じゃなかったら、いったいなんなの⁉︎
クツクツと笑う顔が、なんだかどす黒く感じる。やっぱりこの男、どこからが本気でどこからが冗談なのかさっぱりわからない。まさか、男色家じゃないと言ったさっきの発言も冗談とか。……いや、深く考えるのはやめよう。この男に関しては、いっそわかろうとしないほうがいい気がしてきた。
葉月は踵を返した。とりあえず部屋に戻ろうと思ったのだ。
西側の部屋へと続く石畳をまっすぐ進み、提灯の明かりが灯る石段を駆け上がる。そうして、部屋の扉に手を掛けたところで、一度だけ振り返った。
「……そういえば、今日は色々ありがとうございました。河柳を無罪にしてくれたこととか、釘を刺してくれたこととか」
何を考えているかわからない男だけれど、おそらく河柳に釘を刺してくれたことや無罪にしてくれたこと。それから、奉公先を紹介してくれたことなんかは彼の善意だったんじゃないかと、なんとなくそう思ったのだ。
けれど、それと同時に疑問も沸き上がる。
「あの……長官」
黒縁眼鏡を押しながらそっと尋ねると、いまだ笑いの残る顔で瑚珀が眉を持ち上げた。
「河柳に奉公先を紹介したなら、私もそろそろいいんじゃないですか?」
「そろそろいいとは?」
「だから、そろそろ監視付き居候を解いてもいいんじゃないかと思って」
「あなたはここから出て行きたいんですか?」
……出て行きたい?
反芻すると同時に、昼間見た可喜の笑顔が思い浮かんだ。ずっと口癖のように「監視付き居候から解放されたい」と言っていたけれど、この家から出て行きたいのかと聞かれると困ってしまう。
「出て行きたいというか、監視はもう必要ないというか。なんで、私ここにいるんだろうっていうか……」
「行く当てはあるんですか?」
「特にはないんですけど……でも」
「だったら、ここにいたらいい」
「えっ……」
ここにいたらいい。それって、……どういうこと?
「あの、長官、私のこと監視しているんですよね」
「ええ」
「それなのに、ここにいたらいいって、変じゃないですか?」
「変ですか?」
「変ですって!!」
間髪入れずに返したら、なぜかクツクツと笑われた。そんな男を見て、自分の言葉が通じなかったことにガックリとうなだれる。
相変わらず、何を考えているかわからないし、会話も通じない。冗談か本気なのかもさっぱりわからない。しかも、なぜか楽しそうに笑っている。
葉月は盛大なため息を吐き出した。なんだかすべてがどうでもよくなったのだ。
とりあえず、寝て起きてから考えよう。そんな気持ちで部屋の扉を開けたところで、名前を呼ばれた。
「――ハヅキ」
その声に温もりのようなものを感じて、息を呑む。
ゆっくりと振り返ると、深い海の底のような瞳に見つめられた。
「今も、私のことを恨んでいますか」