(11)
夕方、中庭の椅子に腰かけて、葉月は涼をとっていた。昨日まであんなに賑やかだった庭は、今は木の葉が揺れる音が聞こえるくらいで静かだ。
しばらくすると、表門のほうから瑚珀が歩いてきた。疲れた仕草で官吏服の襟を緩めた男は、葉月に気がつくなり切れ長の瞳をつっと細めた。
……うん、間違いなく、不機嫌だ。
彼の表情に自分が絡んでいることは、なんとなくわかっている。でも、どんなに罵られようとも、言わなくてはいけないことがあった。自分の罪を――。
「今日はありがとうございました」
瑚珀が食卓につくなり、葉月は頭を下げた。
「何がですか」
「河柳の件です」
「ちょうど使用人の話があっただけです」
それだけ言うと、瑚珀は隣で控える可喜に「水を一杯」と頼んだ。その間、一度も葉月とは目を合わせない。
――ふぅ、と聞こえないくらいの息を吐く。
今夜は話したくないオーラがバシバシ出ている。でも、ここからが本題なのだ。
葉月は腹の底に力を入れて、ゆっくりと黒縁眼鏡を押し上げた。
「それから、私の嘘を見逃していただいたことも――」
男の視線がようやくこちらに向かった。
ずっとこの冷たい瞳に見据えられるのが怖かった。心の奥まで見透かされていそうで。でも、なぜかその時は、冷たく冴える瞳がただ綺麗だと思った。
「私は今日、嘘をつきました」
葉月は静かに切り出した。
「河柳の証言は、空読みの面から見るとでたらめでした」
瑚珀は瞳をわずかに眇めて「どういうことですか?」と尋ねた。
そして、葉月はすべてを話した。
木から離れた場所に倒れていた官吏に雷が落ちることは、気象の面から見て考えにくいこと。
おそらく官吏は木の下で落雷したこと。
そして、河柳が落雷した官吏を木の下から移動させたこと。
「なぜ、そんなことを?」
「たぶん……倒れた官吏からお金を取ったんじゃないかと思います。でも、それは私のせいなんです。誕生日が近いって話したから……。彼は私に礼物をあげたかったんです」
「礼物?」
――はい、と頷いて、懐から白い手巾を出す。
きれいに刺繍が施された子供が買うには高級な手巾に、瑚珀が眉を寄せる。
「昨日、河柳にもらいました。たぶん盗んだお金で買ったんだと思います。誕生日が近いなんて話さなければ、彼はこんなことをしなかった。だから、私のせいなんです」
一息に言って、顔を上げる。
瑚珀の眉間には深いしわが刻まれ、長い指はこめかみを苛立たし気に揉みこんでいる。案の定、相当お怒りだ。でも、今回に限ってはそれも当然だ。
「それを私に言って、どうするつもりですか」
「罪を償おうと……」
「罪を償う? あなたが?」
緊張しながら小さな声で「はい」と呟く。そのまま部屋には沈黙が落ちた。
唾を飲む音さえも響いてしまいそうな静寂の中、瑚珀が視線を上げた。その瞳はさっき見惚れていたことなんて一瞬で吹き飛ぶくらい、冷ややかだった。
「私に言って、罪を償ったつもりですか」
「いいえ、それ相応の罰を受けるつもりです」
「何、甘いことを言っているんですか」
……甘いこと? 罪を償うことのどこが甘いっていうの!?
自分の言葉が届かない悔しさに、葉月は卓子の下でギリッとこぶしを握り締めた。
「あなたは河柳を助けるために嘘をついた。よかったですね。そのおかげで、彼は助かりました。でも、考えてみましたか? 彼は今回のことで、嘘をついても世の中生きていけると思ったかもしれません。また同じような嘘を繰り返して、もっと大きい罪を犯すかもしれません」
心臓がドクンと大きな音を立てた。
そんなこと考えもしなかった。今回のことに気をよくして、彼がさらに大きな罪を犯すかもしれないだなんて、そんな可能性、想像もしなかった。
ただ彼を助けたかった。彼を助けられるのは自分だけだと思ったのだ。
「あなたがやったことは、ただの――偽善です」
突き放すような言葉に、体の芯が冷えた。
「……偽善?」
瞬きもできず、次の言葉を待つ。じゃあ、どうすればいいか。どうしたら河柳を正しい道に導けるのか。その先を教えてほしかった。
しかし、男はそれ以上何も言わず、黙々と食事をしだした。
葉月はまったく味のしない料理を喉の奥に詰め込んだ。頭の中は真っ白で、ただ胸だけが刃物で刺されたように痛んだ。
食後の茶を出されたところで、ポツリと呟く。
「私は取り返しのつかないことを、してしまったんでしょうか」
「その自覚があるなら、軽々しく罪を償うなんて言わないことですね」
自分は――。ただ、河柳を犯罪者にしたくなかった。
屈託のない、あの笑顔を守りたかった。
彼の未来をつぶしたくなかった。
でも、果たしてそれは、本当に彼のためになったのだろうか――。
静かに席を立つ。そして一歩を踏み出すと同時に、葉月は駆けだした。
頭の中はぐちゃぐちゃで何も考えられなかった。ただ、すべてから逃げ出したかった。冷たい男の瞳からも、自分がやってしまったことからも。
しかし、その足は中庭に続く石段でピタリと止まった。追いかけてきた男に襦裙の袖を掴まれたのだ。
「彼には釘を刺しておきました。嘘をついてまで助けてもらったのだから、その恩を忘れるなと」
「えっ……」
瞠目したまま振り返ると、思ったよりも近くに感情の読めない瞳があった。
嘘の証言をしたことは夕食の時に初めて言った。それなのに河柳に釘を刺していたということは――。
「気づいていたんですか?」
「あなたが嘘をついて河柳を守ろうとしていたことには、気づいていました。その内容まではわかりませんでしたが」
「じゃあ、どうしてさっき、そのことを言わなかったんですか?」
ああ、これじゃあ、ただの当てつけだ。彼は別に何も悪くない。ただ自らの仕事をしただけだ。むしろ嘘をついたことを知りながら河柳を無罪放免にしたのだから、感謝すべきだ。
それなのに胸の奥から湧き上がる感情を押さえられない。
怒り? いや違う、これは悔しさだ。精一杯大人ぶって河柳を守ろうとしたちっぽけなプライドを、一瞬にして握りつぶした男に対しての、悔しさ。
「人がもがいている姿を見るのは、楽しかったですか?」
目頭にピリリとした痛みが走ったけれど、気がつかないふりをして言葉を続ける。
「追い詰めて、ボロボロになっている姿を見て満足ですか?」
俯く葉月に相手の表情はわからない。きっと何食わぬ顔をしているんだろう。そう思ったら、自分の言葉が届かないことが悲しくなった。
「自分がやったことは反省しています。牢に入れるなり、処刑するなり、好きにしてください。でも、これ以上――」
――私の心を傷つけないで。
最後の言葉は声にはならなかった。
「失礼します」
ああ、もう嫌だ。いつでも平然としている男も、そんな男の言葉に取り乱してしまった自分も、素直にお礼が言えないことも、何もかもが嫌だ!
すべてから背を向けるように、踵を返す。
いろんな感情が渦巻いて、まったく整理できない。頭の中はいっぱいで、何ひとつ冷静に考えられない。とにかく、今はひとりになりたかった。
石段を駆け下り、わき目もふらず中庭を横切る。けれど、庭の石畳を半分まで進んだところで、どこか切羽詰まった声に呼び止められた。
「――ハヅキ、待ってください」
なんでこんな時ばっかり名前で呼ぶの?
「あなたを追い詰めるつもりはありませんでした」
そんなこと、今更言われたって遅い。もう振り回されたくないし、何を言われても自分の気持ちは変わらない。もう放っておいてほしい。この際だから、このまま追い出してほしい!
「嫉妬したんです」
ああ、嫉妬したんですか。それはよかったですね。どうぞご自由に嫉妬してください。
……。
…………。
「…………えっ?」
振り返ると、男は意外にもすぐ後ろに立っていた。