(10)
日に焼けた腕が、青い空に向けて思いっきり伸ばされる。
「やったー、晴れて釈放だーーー」
刑部から出てきた河柳を、葉月は笑顔で迎えた。
「釈放祝いに、お姉さんがなんかおごってあげましょうか?」
年上ぶった葉月の言葉に、河柳は困り顔で肩をすくめた。
「悪い、これから行く所があるんだ」
「えっ……これから?」
「刑部長官に仕事を紹介してもらって、その人にこれから会わなきゃならねえんだ」
刑部長官という言葉に、眉を寄せる。
「その仕事、本当に大丈夫? どんな仕事なの?」
「住み込みの使用人だ。でも、長官の話だと、その家の主人は高位の武官らしいから、住み込みで働きながら武術を磨けるだろうって」
「そう言って、こき使われるだけこき使われるんじゃない?」
「それでもいい。きっとこんな話、俺には一生巡って来ねえ。こき使われたって、ぼろ雑巾のように扱われたって耐えてみせる。だからよ、飯はこの次で。給料もらったら、おごってやるから」
河柳が得意そうに顎を持ち上げる。子供が精いっぱい背伸びをしているような姿に、思わずプッと噴き出した。
「そっかぁ、がんばってね。辛いことがあったら、いつでも相談に乗るから」
「ありがと。……あっ、やべえ、のんびりしていられないんだった」
小さく肩をすくめると、河柳は大股で駆けだした。そのまま勢いよく走っていくかと思ったけれど、なぜかその足は数歩進んだところでピタリと止まった。
「……なあ、葉月。本当はわかってたんだろ。俺のやったこと」
葉月は息を呑んだ。胸元に入れた手巾を、服の上からギュッと握る。
――ウン、ワカッテタ。キミガヤッタコトモ、ドウシテ、ソンナコトヲシタノカモ。
「えっ……何が? 河柳、何かしたの?」
おどけたような声に、振り返った少年の顔がクシャリと歪んだ。
「なんだよ、あんたも長官も……」
言われた言葉の意味がわからなくて、大きく瞬きする。すると、歪めた顔のまま河柳が近づ
いてきた。
「なあ、葉月。お前、あいつのことが好きなのか?」
「あいつって?」
「瑚珀長官だよ」
「はっ……? ないない、絶対にないって。突然、どうしたの?」
「今のところ、一番の敵はあいつだからよ」
「何の敵?」
河柳はそれに答えることなく、人差し指をクイクイと曲げた。その指に誘われるように、少し身をかがめる。
「葉月、目つぶれ」
「どうしたの?」
「いいから、さっさとつぶれ」
どうして、いきなり目をつぶれなんて言い出したんだろう。新たなプレゼントとか出てきたらどうしよう。だったら、やんわりと断らなくちゃ。
そんなことを考えながら目を閉じる。次の瞬間、額に柔らかいものが押しつけられた。
「葉月があと五年経っても行き遅れのままだったら、俺が結婚してやるよ」
…………はいぃぃぃ?
今、なんて言った? 行き遅れのままとか、結婚してやるとか。その前に、今おでこにあたったものってもしかして。
ぱちりと目を開けると、河柳は何事もなかったかのように道の先を見ていた。
「ちょっと河柳、大人をからかうのはやめてよね」
「別に、からかってねえよ」
「とりあえず、ひとつだけ訂正させてもらってもいい? 私、まだ二十六。全然行き遅れじゃないから」
「もう二十六だろ。世間では十分行き遅れ。普通、子供のひとりやふたりいる年だって」
たしかにこの世界ではそうかもしれないけど、日本では女性の適齢期は三十に引き上げられて。って、今はそんなことどうでもいいか。まずはこのマセガキ河柳にしっかりと注意しておかないと。
「あのね、河柳」
そして、つらつらと説教を始めようとしたのだが、気づいた時にはすでに河柳は駆けだしていた。
「またな、葉月」
少し恥ずかしそうに笑った河柳が道の先に消えていく。
「ちょっと、まだ話は終わってないって……!」
振り返る気配のない彼に諦めて、葉月はフッと息を吐いた。それから額を擦る。
「今、おでこに当たったのって……。でも、元気そうに笑ってたから、まあ、いっか」
ぽつりと呟いて、視線を空に向ける。入道雲の隙間から夏の日差しが眩しく降り注いでいた。
「一件落着。めでたしめでたし。……だったら、よかったんだけどなぁ」
葉月は空に向かって深いため息を吐き出した。
*
刑部の前で河柳と別れた後、葉月は瑚珀宅に戻った。午後から傘売りに行こうと思ったのだ。
朱色の大門の門環をカンカンと鳴らすと、すぐに可喜が門を開けた。
「葉月さん、裁判はどうでしたか?」
どうやら可喜も河柳のことを心配していたらしい。「無罪で釈放された」と言うと、ホッとした表情を見せた。
「それで、河柳とお昼ご飯を食べようとしたんだけど、フラれちゃって、帰ってきました」
「よかったら、昼食を召し上がってください。実は、私も作りすぎてしまって……」
聞けば、河柳があまりに食べるものだから、最近は昼食の量を多めに作っていたらしい。
もしかしたら、彼女も河柳と過ごす時間が楽しかったのかもしれない。そんなことを思いながら「じゃあ、せっかくだから、一緒に食べませんか」と誘うと、可喜は一瞬驚いてから嬉しそうに笑った。
気づけば、可喜ともこうやって自然に話せる関係になった。それが、嬉しい。
一緒に食事をした後、可喜が食器を洗おうとしたので「私が洗います」と席を立った。はじめ猛然と拒否した可喜だったが、引き下がらない葉月に困った顔で頷いた。
洗い物をしながら、ふと河柳の言葉を思い出す。
――こういうのが、家族っていうのかな――
この屋敷で河柳と過ごした数日は、葉月の心をわずかに変えた。いや、葉月だけじゃなく可喜の心も変えたかもしれない。河柳の遠慮のない子供らしさのおかげで、可喜との間に笑顔が増えた。
気づけば、こんな関係も悪くない。ここでの生活も悪くないと思うようになってしまったのだ。でも――。
葉月は洗い物の手を止めた。
――それも今日で終わりかもしれない。