(9)
葉月は弾かれたように顔を上げた。
それは自分が? それとも河柳が?
いずれにせよ、彼は何かに気づいている。やっぱり、どう考えても自分ごときが、この国の悪事をさばき続けてきた百戦錬磨の刑部長官を騙せるはずがなかったんだ。
何をどう答えればいい? どう答えたら河柳を守ることができる?
「言っている意味が、わかりません……」
声が震えた。視線が急速にさまよった。それに何かを感じたのか、瑚珀は長いまつげをゆっくりと持ち上げた。
「わからない? あなたはわかっているはずです。嘘をついて苦しくなるのは、あなた自身ですよ」
そんなのわかってる。もうすでに、十分苦しいんだから。
できることなら、すべて言ってしまいたい。言って、どうしたらいいか相談したい。今まで彼は葉月がピンチの時に現れて、なぜか助けてくれた。だから、今だって相談したら、助けてくれるかもしれない。
縋るような思いで視線を上げる。けれど、そこにあったのは冷たい男の顔。それは血も涙もないと噂の刑部長官の姿だった。
……やっぱり無理か。
彼は仕事にプライドを持っている。きっと葉月が何を言っても、河柳のやったことは許さないだろう。
そこにどんな理由があったとしても、どんな気持ちがあったとしても、罪は罪として罰する。それが彼の仕事だ。甘えや情は介さない。
「嘘なんて……つくわけないじゃないですか」
胸が引き裂かれたように痛い。嘘をつくのが、こんなに苦しいだなんて思わなかった。それでも苦しさを胸の奥に押し込んで、口元に笑みの形を作る。
「じゃあ、明日は早いのでもう寝ます。おやすみなさい」
葉月はニッコリ笑うと、男の横をすり抜け自分の部屋に戻った。
月明りがほのかに差し込む部屋の中、そっと衣の袖から手巾を出す。
――遅くなったけど、誕生日の礼物――
河柳のはにかんだ笑顔がよみがえる。次の瞬間、堪えていた涙が堰を切ったようにあふれ出した。
本当はすべてを言ってしまいたかった。嘘なんてつきたくなかった。でも、河柳を守れるのは自分しかいないと思ったら、言えなかった。
だって、すべては自分のせいなのだから。誕生日が近いだなんて言わなかったら、河柳はこんなことをしなかったんだから。
「河柳は……犯罪者なんかじゃない」
濡れた声で呟いて、手巾を握りしめる。
彼はただ――、誕生日プレゼントをあげたかっただけなのだ。
*
雨が降っていた。滝のような雨だった。遠くから雷の音が聞こえて、河柳は雨宿りしようと高い木を探した。
一本の杉の木を見つけた時には、雷はもう目の前に迫っていた。短装の袖で頭を覆って、その木に向かって駆ける。
しかし、木の下には先客がいた。官吏服を着た身なりのいい男だった。
河柳の足がピタリと止まる。辺りを見回したが、雨宿りできそうな木は他にない。
しかたなく一緒に雨宿りさせてもらおうと、もう一度駆けだしたその時、辺り一帯をまばゆい光が覆った。と同時に、大地を劈く轟音が鳴り響く。
とっさに目をつぶり、数秒して目を開けた。そして目の前に広がる光景に、河柳は衝撃を受けた。
雨宿りしていたはずの男が、地面に倒れていたからだ。
恐る恐る男に近づき、そっと顔を見る。しかし、すでに息はなかった。
……どうしよう。誰かに連絡しようか。
そう思ったところで、男の衣の胸元から覗く銭包が目に入った。ふいに半分に分けた焼餅を差し出した、葉月の顔が浮かんだ。
……これがあったら、礼物が買える。
ごくりと唾を飲んで辺りを見回す。人のいないことを確認した河柳は、泥だらけの手で銭包をつかみ取った。
……これは犯罪だ。
そう思ったと同時に、胸が鼓膜を突き破るくらい激しく鳴りだした。もしばれたら牢屋に連れていかれるだろう。証拠は隠さなきゃならない。
きょろきょろと視線をさまよわせた河柳は、官吏服についた自分の手垢に気がついた。
銭包を取った時についてしまったのだろう。泥だらけの手の跡は、明らかに子供のもの。もしかしたら、これが証拠になるかもしれない。いや、これだけじゃない。何が証拠になるかわからない。
底知れぬ恐怖に襲われた河柳の視界に、土砂降りの雨が飛び込んできた。
……ああ、そうだ。雨だ。この雨ならすべてを消してくれる。
男を木から離れた空き地に引きずる。そうして引きずった跡を足で消すと、河柳は土砂降りの雨にまぎれるように、その場を立ち去った。
*
焼けつくような暑さが和らいだその日、河柳の裁判が行われた。場所は前回尋問が行われた石造りの部屋だった。
部屋の中に、まずは官吏に引き連れられた河柳が入り、それから恰幅のいい白ひげの裁判長と、涼し気な美貌の刑部長官が入った。
裁判は粛々と進んだ。検死した医官が死因を述べた。大きな外傷はなく、皮膚にやけどの跡があったことから、落雷による心停止だろうということだった。
末席に座った葉月は、中央の席に座る瑚珀を見た。
すっと伸びた鼻梁に、長いまつげに縁どられた瞳。相変わらず、いつまでも見ていたくなるくらい整った顔だ。でも、彼の顔に穏やかさはない。そこにあったのは、一切の情を消した刑部長官の姿だった。
「空読み師、葉月。官吏殺害事件の容疑者河柳の証言について、何か不審な点はあるか?」
裁判を取り仕切る官吏の声に、葉月は我に返った。
ああ、自分の番だ。
背中が強張る、膝がガクガクする。できることなら、今すぐにでも高速ダッシュで逃げ出したい。でも、自分の証言で河柳の今後が決まる。だから――。しっかりしなくちゃ。
黒縁眼鏡を押し上げて、静かに立ち上がる。不安そうな顔の河柳を一瞥してから、怜悧な瞳を向ける瑚珀をまっすぐに見据えた。
「――いいえ。落雷についての証言に嘘偽りはありません。容疑者はこの事件に関与していないと思います」
きっぱり言い切ったその声に、瑚珀は冷たい瞳を静かに閉じた。