(8)
夕食後、葉月と河柳は中庭で涼んでいた。そよそよと吹く風に心地よさを感じていると、じっと池の魚を見つめていた河柳がポツリと呟いた。
「この家での暮らしも、今日で最後だな」
「ようやく監視がなくなって、嬉しいでしょ」
以前の自分に置き換えて言葉を返す。「ああ、せいせいするよ」そんな返事が返ってくるものだと思いながら。けれど、河柳はなぜか黙りこんでしまった。
「どうしたの?」
「なんかよ――」
河柳がゴロリと地面に寝転ぶ。
「こういうのが、家族っていうのかな」
「えっ……?」
「家に誰かがいて、特別なことをするわけじゃねえけど、一緒に飯食って、たまに話したり遊んだりして……」
「えぇぇっ!?」
……これの、どこが家族なの?
そう思って隣を見たけれど、寝転びながら空を見る少年のまなざしは、少しも笑っていなかった。どうやら親のいない河柳にとって、この家での数日間は家庭を感じさせるものだったらしい。
「家族って……いいな」
河柳の言葉が満天の星空に消えていった。
「家族かぁ……」
それは葉月がこの世界に来てから、考えないようにしていた言葉だった。この世界でひとりきりの自分には縁がないものだったから。けれど言葉にした瞬間、それは特別な響きを持って葉月の中に沁みこんだ。
「私も河柳と家族みたいになれたらいいな」
特に深い意味はなく言ったつもりだった。しかし次の瞬間、河柳がガバリと体を起こした。
「じゃあよ、葉月、俺と結婚しねえか」
「……はっ?」
「だって、知らねえ者同士でも、結婚すれば家族になれるんだろ」
「ちょっと待って。よく考えてみて。私とあんた、一回りくらい年の差があるんだよ。どう考えたって無理でしょ」
「……だよなぁ」
河柳が再び草の上に寝転ぶ。どうやら、真剣に男女の関係を想定したわけではなかったらしい。一瞬、ドキッとした自分が恥ずかしい。
「俺ももっと稼げるようになりてえなぁ。こんなでっけえ家が建てられるくらい」
河柳の言葉が、爽やかに吹く夜風に流されていく。
「できるよ、きっと」
この国で身寄りのない子供が立身出世できる可能性は、どれくらいあるんだろう。何の励ましにもならないかもしれないけど、そう言ってあげたかった。
少しの沈黙の後、河柳が「そういや――」と言って、胸元をごそごそと探り出した。
「遅くなったけど、誕生日の礼物」
彼が差し出したのは、朝顔の刺繍が施された手巾だった。白地に洒落たデザインの手巾は、普通の手巾の倍はしそうだ。一般の男性ならまだしも、子供が買うには高級品だ。
「ちょっと、これどうしたの? 高かったんじゃない?」
「たいしたもんじゃねえって」
「どうやって買ったの?」
「別に、どうだっていいだろ」
河柳がプイと顔をそむける。それ以上の問いを拒むような態度に、葉月の中にあった疑問がふっと解けた。尋問の後、瑚珀が言っていた言葉を思い出す。
――被害者に所持金はなかった。ということは、窃盗目的の可能性もある――
欠けていたパズルのピースがピタリとはまった。
……ああ、そういうことか。
泣きたい気分になった。河柳を抱きしめて、思いっきり泣きたかった。どうして……と聞きたかった。
それでも、葉月はぐっと涙をこらえて、満面の笑みを作った。
「ありがとう、河柳。とっても嬉しい。大事に使うね」
*
河柳が寝た後、葉月はひとり中庭に残って、きらめく星を見ていた。
脳裏に浮かぶのは、さっき見た河柳の気まずそうな顔。思い出すだけで胸が痛んだけれど、それをごまかすように、じっと星の瞬きだけを見つめる。
「どうしたんですか?」
ふいに声をかけられて、振り返る。いつの間に現れたのだろう。少し離れたところに、紫紺色の衣を纏った瑚珀が立っていた。
「何かあったんですか」
「いえ、別に……」
「別に……という顔じゃないですね。河柳と何かあったんですね」
河柳という言葉にドキッとする。さっきは穏やかそうにしていたけれど、やっぱり警戒を緩めていたわけではなかったらしい。
「もしかして、何か新しいことがわかったんですか」
それは刑部長官としての問いだった。つまりこの男は、官吏殺害の容疑がかかった河柳から、何か聞き出せたかと尋ねてきたのだ。
さっきまでの楽しい雰囲気はいつの間にか消えていた。そして訪れたのは気まずい空気。そして、その空気を作っているのは自分だ。
「いえ、なにも。前と同じです」
「それはつまり、彼はこの事件に関与していないと?」
衣の中に隠した手巾を握りしめて、短く「はい」と答える。
俯いた葉月から男の顔は見えない。けれど、視界にわずかに映る衣の袖が揺れている様子から、彼がいつものようにこめかみを揉んでいることを察した。
もしかしたら――。この男はすでに気がついているのかもしれない。
泡のように沸き上がったその思いは、急速に葉月の脳裏を支配した。
――河柳は嘘をついていた。
刑部での尋問の様子を、葉月は思い返した。
刑部の官吏に尋問された時、河柳は空き地にある杉の木の下で、雨宿りをしたと言った。そして、木から二メートルほど離れた場所に来た男に雷が落ちたと――。
一見正当そのものに聞こえる証言。でも、気象の面から見ると、何から何まででたらめだった。
まず第一前提として、雷は高い所に落ちる性質がある。杉の大木ひとつしかない空き地だったら、まず間違いなく、雷はこの杉の木に落ちたはずだ。
そうした場合、木の下にいる人間は、雷の側撃を受けて感電する確率が高い。事実、現場にあった杉の木は、その痕跡を残すように上半分が折れていた。
つまり彼の証言を信じるなら、雷は木の下で雨宿りをしていた河柳に落ちたはずだ。落雷で死んだのは、河柳だったということになる。
でも、実際に死んだのは官吏の男だった。
答えは明白だ。木の下に河柳はいなかった。
そこにいたのは、官吏の男だった。
どうして河柳は嘘をついたのだろう。嘘をつかなければいけない、何かが起こったのだろうか。もしかしたら穢れがなさそうに見えた瞳はまったくのまやかしで、本当は嘘八百を平気で言う、大ほら吹きだったのかもしれない。
……ううん、違う。
残飯をあさるような、乞食同然の生活を経験したからこそわかる。
ここでは窃盗や詐欺は普通にある。人を騙して自分だけがうまい汁を吸おうとする人間なんて、ごまんといる。でも彼の目はそういう人間が持つ、死んだ魚のような濁りきった瞳ではなかった。社会の最底辺にいながらも、その瞳は澄んでいた。
じゃあ、どうして嘘をついたの?
疑問の答えを求めるように、葉月は毎日河柳と遊んだ。もみくちゃになって彼と戯れながら、心の片隅には常にその疑問があった。
次のタイミングで聞いてみよう。その次のタイミングで……。そうしているうちに、時間だけがどんどん過ぎた。焦る気持ちばかりが膨らみ諦めかけたその時、答えは河柳のほうからもたらされた。
――手巾だ。
きっと河柳は、雷の側撃を受けて死んだ官吏からお金を盗んだのだろう。そして、死んだ官吏を木の下から移動させた。おそらく、何か証拠を隠そうとしたのではないか。指紋か毛髪か……。いずれにせよ、土砂降りの雨なら証拠を隠しやすい。
その後、盗んだお金で手巾を買い「木の下にいたのは、自分だった」と嘘の証言をした。
――すべては、葉月に手巾を買うためだったのだ。
思考が結論に達したところで、低く通る声が葉月を現実に戻した。
「嘘を、ついていますね」