(2)
呪術祠祭課の机で頬杖を突きながら、葉月は久しぶりに見る太陽に目を細めた。
祈雨祭の後、なかば勢いで「週に一度なら……」と言ってしまってからというもの、葉月はこうして週に一回、呪術祠祭課に働きに来ていた。
といっても基本暇な部署なので、部屋の掃除とたまった書類の分類くらいしかやることはない。今は朝の掃除を終えて一息ついたところだ。
「明日は傘売りに出かけられそうだなぁ」
窓の外を見ながら呟いたところで、背後からだみ声が飛んできた。
「よう、葉月、久しぶりだな」
「子草さん、久しぶりって、先週会ったばかりじゃないですか。そういえば、今日は床に寝ていないんですね。どうしたんですか?」
顔も見ずにそう言ってから扉のほうに視線を向けて、そのまま固まる。すっかり見慣れた子草の顔に、あるはずの物がない気がするのだ。
ボサボサ頭から覗く黒目がちな瞳はそのままだが、問題はその下。つるりとした頬にすっきりとした口周り……。
「子草さん……ひげが……」
「おうっ。暑いから、少しさっぱりしようと思って剃ったんだけどよ、どうだ?」
葉月は思わず首をひねった。
なんだろう。思ったより、かっこよくならなかったというか、童顔がさらに強調されたというか……。正直、微妙だ。
でも、そんなことは言えない。
「えっ……と、いいです! すごくいいと思いますよ!」
「そうか! これでラブレターが殺到するんだよな」
「えっ……」
「前に、お前が言ったんだろ。ひげを剃ったら、課長並みにラブレターが殺到するって」
そういえば、祈雨祭の後にそんなことを言った気はする。でも、そこまで断定的ではなかったと思う。第一、課長並みのラブレターは普通に考えて無理だろう。
「そっ……そんなこと言いましたっけ?」
「おいっ、今ごまかしただろ。これでラブレターが一枚も来なかったら、お前の首を絞めるからな」
首に手をかけようとした子草から、慌てて距離を取る。
「ちょっと、そんなの言いがかりです! あっ、そうだ。私が一枚出してあげますよ」
「お前からのはナシだ」
「ええっ、そんなぁぁぁ」
不満げな声を上げたところで、部屋の扉が開き、ニコニコ顔の陽明が入ってきた。
「お疲れー。あれ、子草、ひげ剃った?」
「暑いから、剃っちまいました」
「さっぱりして、いいねー。丁稚奉公の少年みたいだよ」
「……丁稚奉公の少年?」
鋭い視線がこちらに向かう。
いっ、いえ、こっちは丁稚奉公とまでは思ってないです。それに、世の中には童顔が好きな女性もいるし、若く見えたからって気にすることはないと思います!
と言おうとしたが、射るような視線を前にやめておいた。今の子草に何を言っても、火に油を注ぐことになりそうだ。
……とり合えず、話題を変えよう。
「それよりも課長、その手に持っているものは何ですか?」
「ああ、これ? はい、葉月に礼物」
「えっ? 礼物?」
目の前に差し出されたのは、木の板に細長い管が張りついた温度計のようなものだった。よく見ると、細長い管の中に銀色の液体が入っている。
「もしかして、これって気圧計ですか?」
「そう。工部の仲間に銀ちゃんの構造を伝えて、壊れにくい素材でできないか相談して作ってもらったんだ。これなら面倒な作業もいらないし、壁に貼りつけておけばいつでも気圧が測れると思って」
つまり彼は以前葉月が使っていた銀ちゃんの仕組みを改良して、いつでも気圧が測れる測器を作ってしまったというわけだ。
さすが頭脳明晰なだけある。しかも、陽明ファンクラブ一号に“銀ちゃん”を壊されたのを覚えていて、パワーアップした状態で弁償するという義理堅さもある。……モテるわけだ。
今なら女官のお姉さま方が嫌がらせという暴挙に出たのも、ちょっとだけ気持ちがわかる。
……本当にちょびーーーっとだけだけどね。
そういえば、祈雨祭の後、葉月に対する嫌がらせはピタリと止んだ。どうしたのだろうと思っていたら、後で子草に「課長が釘を刺したらしい」とこっそり耳打ちされた。
どんな風に釘を刺したのか気になって聞いてみたけれど、なぜか真顔になった子草に「安心しろ。課長は一度仲間と認めたやつには優しい。お前は大丈夫だ」と言われ、それ以上聞くことはできなかった。
いったい何をしたのか……、考えるとちょっと怖い。
当時のことを思い出しながら、葉月は気圧計を突き返した。
「でも、こんな高価なもの、いただけませんよ」
「ああ、値段なら気にしないで。これを量産して、街で売ろうと思っているから。元は取れる計算」
なるほど。どうやらただ弁償するために作ったわけじゃなくて、これで一儲けしようと思ったらしい。
まあ、元々自分が考えたものじゃないから、儲けてくれてかまわないんだけど。
「問題は商品名なんだけど、銀ちゃん晴雨計と葉月晴雨計。どっちがいいと思う?」
「……はっ?」
「せっかくだから、葉月にとって馴染みがある名前のほうがいいと思ってさ」
いやいや、ちょっと待って。なに、その残念すぎるネーミング。馴染みがあるというより、どっちも恥ずかしい。特に後者!
「どっちも嫌です!」
「じゃあ、葉月が名前を決めて?」
「ただの晴雨計でいいですよ」
「だめだめ。こういうのは、インパクトが大事なんだから。じゃあ、俺が勝手に決めちゃうよ」
「どうぞご自由に。とにかく、私の名前は入れないでくださいね」
「えー、俺の一押しは葉月晴雨計なのに」
「恥ずかしすぎるから、やめてください!」
万が一、自分の名前がついた商品が並んでいる姿なんて見てしまったら、しばらくその店には近づけないだろう。シャイで有名な日本人を舐めないでいただきたい!
葉月の必死の願いが届いたのか届いていないのか、陽明はクスクス笑いながら何も言わずに気圧計を差し出した。
どうやら受け取れということらしい。たしかに彼は銀ちゃんが壊されたことについて、多少なりとも責任を感じている様子だった。ここは素直にもらったほうが、彼も納得するのかもしれない。
お礼を言って受け取ると、陽明は満足そうに頷き、それから思い出したように言った。
「そうだ。鳳月長官が葉月を呼んでいたよ。今すぐ来てほしいって」
「えっ、鳳月長官が……?」
これまで鳳月に頼まれた、数々の面倒事が脳裏をよぎる。春分祭に祈雨祭。礼部長官に名指しで呼ばれるなんて、なんだか悪い予感しかしない。
葉月は何もないことを祈りながら気圧計を机の上に置くと、その足で礼部長官室へ行った。
長官室に入ると、鳳月は机に向かって書き物をしていた。
「鳳月長官、何かありましたか?」
「ああ。実は、君にちょっと頼みたいことがあるんです。一緒に来ていただけませんか?」
そう言った鳳月の顔に浮かぶのは、いつも通りの微笑み。でも、目は――。
目線を合わせた葉月は、次の瞬間思いっきり後ずさった。
……全然笑ってないじゃないかぁぁぁ!!
葉月の警戒に気づいた鳳月が、喉を震わせて笑う。
「相変わらず、勘がいいですね」
「あの……頼み事って」
お願いしますから、簡単なものにしてください。
雇ってもらっている手前、断りにくい状況の葉月はそれだけを願った。