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空読み師  作者: こでまり
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激雷(1)

「暑いー、なんでこんなに暑いの。もう籠持つの限界……」


 傘を入れた竹籠を胡同の脇に置くと、葉月は槐樹えんじゅの木陰で涼をとった。額の汗を拭きながら空を仰ぐ。


 ――三伏さんぷく――


 泰京の人は夏の暑さが一番厳しい期間をこう呼ぶ。

 三伏はさらに初伏、中伏、末伏に分けられる。初伏には餃子を、中伏には麺を、末伏には卵入りの烙餅ロウビンを食べて栄養をつけるのだが……。


「こんなに暑い中、熱々の麺なんて食べたくないって。それよりもエアコンが効いた部屋で、アイス食べながらゴロゴロしたいー」


 妄想も一瞬ではじけ飛ぶ暑さに、諦めて竹籠を担ぎなおす。考えたってどうにもならないことは、考えないほうがいい。


 こぼれる汗をそのままに歩き出したところで、胡同の反対側をノロノロと歩くひとりの少年が目に入った。

 ふらつく足元と視点の定まらない動きに、熱中症じゃないかと勝手に案じていると、少年は突然電池が切れたようにパタリと倒れた。


 ……うそ。まさか暑さで野垂れ死に!?

 慌てて近づいて、ピクリとも動かない少年の横にしゃがみ込む。


「だ、だいじょうぶ?」


 反応なし。


「って、ちょっと待って。死んだとかやめてよ。私、何もできないからね。医療の心得とかゼロだからね。誰かいないの誰か!」


 半身を起こして人を探し出した矢先、下から「うっ……」とうめき声が聞こえた。


「生きてるの? 意識はある?」


 葉月の声掛けに、少年の唇がわずかに動く。


「……く……」

「く?」

「……み……」

「み?」


 くみ? なんだそれ。

 首を傾げながら血色のない顔に耳を近づけると、少年が乾いた唇を動かして呟いた。


「みず……くれ……」

「水? ちょっと待って」


 葉月は急いで首から下げた水筒を手に取り、少年の口を無理やり開けた。

 とぷりとぷりと水を流し込む。それを苦しそうに嚥下した少年は、幽霊のように生気のない顔で起き上がると、突然生き返ったように水筒の水を一息で飲み干した。


 今日の分の水、まさかの一気飲み。いや、いいんだ。人が死ぬところを見なかったんだから。

 そう自分自身を納得させていると、生気を取り戻した少年は開口一番「助かったー。兄ちゃん、ありがとー」と長い息を吐き出した。


 ……兄ちゃん。


 また男に間違われたわけだが、もはやこの手の間違いには驚きもしない。第一、男物の短装を着ているのは自分だし、そう見られてもしかたがない。気分はすっかり諦めモードだ。でも、とりあえずやんわり訂正しておく。


「これでも、一応お姉さんでーす」


 ひとり言のように呟けば、少年は「えっ……」と明らかに気まずそうな顔をした。その素直な反応にプッと笑って、腰に下げた布袋から胡瓜きゅうりを取り出す。


「腹の足しにはならないと思うけど、一本あげる」

「俺は物乞いじゃねえ。そんなのいらねえ」


 少年はちょっと大人びた顔で胡瓜を突き返した。けれど言葉とは裏腹に、立ち上がった少年の下腹部からグウゥと腹の虫が鳴る。すました顔が一瞬で朱に染まった。


「ほら、食べて」


 笑いながら差し出せば、少年は渋々胡瓜を受け取り、次の瞬間行儀もへったくれもなくガツガツと貪るように食べきった。

 ――それが葉月と河柳かりゅうとの出会いだった。


「俺は川沿いの柳の下に捨てられた子供だったんだ。だから、名前は河柳っていうんだ。葉月はどうしてそんな名前なんだ?」

「えっ、私? 八月生まれだからかな。私の国では八月のことを葉月っていうんだよ」


 あれ以来、河柳は天壇前で傘を売る葉月の前に、度々現れるようになった。

 普段は街でごみ拾いの仕事をしているらしい。それでも十分な給料とはいえず、親のいない河柳は乞食一歩手前といった生活をしていた。


 切りっぱなしの髪に、棒っきれのような手足。顔にまで土がこびりついた、みすぼらしい姿の親なし子。


「日本にいたころなら、警察にでも通報するところだけどなぁ」


 なぜか葉月は彼を追い返せなかった。理由はわかっている。襤褸衣を纏う彼に、この世界に来たばかりのころの自分を重ねてしまうのだ。


「じゃあ、葉月は夏生まれなんだな」


 河柳に言われて、ハッとした。

 葉月の誕生日は立秋のころだ。日本の暦とこの国の暦は違うからすっかり忘れていたけれど、もうすぐここに来て二回目の誕生日を迎えることになる。


 ちなみに一回目の誕生日は、食うのにも困る生活で祝うどころじゃなかった。あのころは本当につらかったと、今になって思う。


「そういえば、もうすぐだ。すっかり忘れてた。どうせ誰かが祝ってくれるわけじゃないからいいんだけどね」

「じゃあ、俺が祝ってやる! といっても、礼物プレゼントなんてないんだけどよ」

「そんなのいらないって。それよりも、河柳の誕生日はいつ?」


 何気なく尋ねたら、河柳は明後日のほうを向いて「そんなの、知らねえ」と口を突き出した。

 ……ああ、そっか。親がいない河柳が、自分の誕生日を知っているわけがないのか。


「じゃあさ、河柳の誕生日は私と一緒ってことで、今一緒にお祝いしようよ」

「葉月と一緒?」


 うん、と頷いて、葉月は日本で最もポピュラーな誕生日の歌を歌った。言葉なんてわからないだろうに、しだいに瞳を輝かせていく河柳になぜか安堵しながら……。


「――ハッピーバースデートゥーユー」


 歌い終わると同時に、腰袋から焼餅シャオピンを出す。


「誕生日おめでとう。はい、半分こ」


 焼餅を半分にして差し出せば、河柳は迷惑そうな、それでいてどこか嬉しそうな顔で受け取った。二人で焼餅を食べる。お腹は満たせないけれど、心は少しだけ温かくなった。


「お前、商売下手だろ」


 焼餅をむさぼっていた河柳が唐突に言った。


「たしかに傘はまったく売れないけど……って、どうして?」

「だって損得考えてねえもん。頭の悪い俺だってわかる。こんな金のない子供に食い物やったって、なにもいいことはねえ」


 この世界は厳しい。子供が真剣にお金のことを考えてしまうくらいに。


「将来出世したら、倍返しにしてもらうから。覚悟しておいてね」


 ニッと笑うと、河柳はげんなりした顔で「マジかよ」と呟いた。

 金がなければ、教育は受けられない。学がなければ、まともな仕事に就けない。乞食同然の少年が出世できる方法なんて、ほぼゼロに等しい。

 それでも、希望だけは捨ててほしくなかった。甘いと言われるかもしれないけど、恵まれた環境で好きなことをしてきた自分は、やっぱりそう思ってしまう。


 そんなやり取りをしてから数日後、激しい雷雨が泰京を襲った。

 轟く雷鳴と土砂降りの雨は止む気配を見せず、三日三晩続いた。

 そして四日目の朝、いよいよ天のお怒りかと人々が騒ぎ出した矢先、それまでの荒天が嘘のように雨はピタリと止んだ。



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