(17)
恐る恐る視線を上げた先で、瑚珀がピクリと眉を持ち上げた。
「誰が、かわいいですって?」
……ひえぇぇぇ。めっちゃ失言した。油断した。というか、全然かわいくないんだけど、むしろ怖いんだけど。鳳月長官の嘘つき!!
「間違えました。そんなこと言われてません。そっ……そうだ。どうやって、雨が降ることを予想したんだって、そんなことを聞かれました」
この男は虫も殺せない、かわいい男なんかじゃない。無表情で人を斬る、極悪死神刑部長官だ。
「それで、あなたはなんと答えたんですか」
「えっと、朝焼けの色から予想したと言いました」
「なるほど。あなたの世界では、そうやって空読みをしているんですか」
「いえ、私の世界ではコンピュータっていう巨大な機械があって、ほぼ自動で天気を予想してくれるんですけど……」
「巨大な機械?」
訝しむような低い声に、葉月の肩がビクンと跳ね上がる。それから、慌ててブンブンと首を横に振った。
「変な誤解しないでください。空読みの機械ですからね。人とか殺せませんからね」
巨大な機械なんて言ったから、殺人兵器みたいなものをイメージしたのかもしれない。そんなことを思われたら、不審者レベルは確実に上がる。三度目の牢屋行きは絶対にごめんだ。
背筋を凍らせて暗い胡同を歩く。気まずい空気が流れたけれど、極悪スイッチを押すよりはよっぽどいいと思いながら沈黙に耐えていると、ふいに瑚珀が一歩近づいた。
黒衣の袖から覗く手がゆっくりと持ち上がる。つられて視線を上げた葉月は、男の手元で光る銀色の物体に気がついた。
……なんだろう。フォークみたいな、ナイフみたいな。
目をすがめたと同時に、細長い鋭利なものが葉月めがけてまっすぐに降りてきた。提灯の明かりを受け、銀色の物体がキラリと光る。
……なにこれ。うそっ、これって、まさか――――刃物!?
「ご、ごめんなさい!! 殺さないでください!!」
悲鳴に近い声が、暗い路地に響き渡る。葉月はぎゅっと目をつぶって、次に襲い掛かる恐怖に備えた。しかし、刃物の先は降りてくる気配がない。
疑問に思いだしたところで、髪の間に何かを差し込まれた。
「えっ……!?」
葉月は髪に差し込まれた物に手を添えた。
……あれ? これって。
驚いて目を開ける。瑚珀は眉間に大きくしわを寄せ、左手でこめかみをぐりぐりと、心底呆れかえった様子で揉みこんでいた。
「あなたは、私をなんだと思っているんですか」
――死神です。とはもちろん言わない。
「すみません。ちょっと疲れていて、刃物と見間違えたみたいです……」
とりあえずとばかりに口から出た言葉は、蚊が鳴くように弱々しかった。
「あの……色々ありがとうございました」
「まさかこんな風に役に立つとは、思ってもみませんでしたよ」
きまり悪く俯く葉月に、瑚珀はそれ以上何も言わず歩き出した。
家に着くころには、風は湿り気を帯びたものに変わっていた。その風に雨の匂いを感じながら、自分の部屋に入る。
明かりをつけてから、そっと頭に差し込まれたものを引き抜く。
「やっぱり、これで居場所がわかったんだ」
燭台の灯りを浴びてキラキラ輝くそれは、瑚珀にもらった珊瑚の簪だった。
女官たちに牢に入れられる。そう思った瞬間、葉月はとっさに胸元に入れていたこの簪を地面に投げ捨てた。誰かが……いや、あの男が見つけてくれるんじゃないかという一縷の望みを託して……。まさか刑部の牢じゃなくて、後宮の牢だったとは思わなかったけれど。
「そういえば、どうして後宮の牢だってわかったんだろう」
もしかしたら、葉月が引きずられた跡を追って来たのかもしれない。
とにかく、あの状況でできたことは、それくらいだった。
「それしか方法がなかった。それだけだったんだよ……」
葉月の言葉は、静寂の中にポツリとこぼれ落ちた。
次の日、次第に強まる東風とともに、横殴りの雨が降り出した。
台風が泰京を襲ったのだ。
市井の民達は、突如吹き出した暴風に慌てながらも、空から降る雨に目を輝かせた。そして、誰もが「これは祈雨祭を行った文治帝のおかげだ」と、衣が泥だらけになるのもかまわず地面に額をつけて、皇城に向かって頭を下げ続けた。
*
「いやー、今回はまったく、さすがとしか言いようがありませんね。文治帝の威信も、私の首も守れました。この前まで苦情殺到の礼部は、今は感謝の礼状であふれかえっているくらいです。これもすべて、君のおかげですよ」
台風が過ぎ去り青空が戻ったその日、鳳月はおばさま悩殺の完璧な微笑みで、葉月を迎えた。
「いえ、私はただ空読みをしただけです。夜を待たずに祈雨祭を行った、礼部の方々のおかげです」
「決しておごらないとは、官吏の鏡ですね。どうですか? この際、本当に呪術祠祭課に籍を置いてみませんか?」
いや、けっこうです。もう胃が痛くなるような思いは勘弁です。
反射的に拒否の言葉が浮かんだけれど、すぐに別の言葉が脳裏を支配した。
『葉月は俺らの大事な仲間だ』
『癪だけど、一員として認めてやるよ』
それは先日、陽明と子草に言われた言葉。あの時、葉月の心は隠しきれない喜びで震えた。胸がじんわりと温かくなって、涙腺もちょっと潤んでしまった。
この世界に来てから『仲間』と呼ばれたのは初めてで、それは葉月の心を柔らかく包んだ。だから、思わず言ってしまっていた。
「じゃあ、週に一度くらいなら……」
次の瞬間、礼部長官室の扉が勢いよく開いた。
「本当か、葉月!」
怒涛の勢いで入ってきたのは、仕事中のはずの陽明。そして一目散に鳳月の所へ向かうと、二人は手を取り合って喜びだした。
「あの葉月から承諾の答えを取るなんて、さすが長官!」
「いやー、これで秋分祭も安泰です」
嬉しそうに小躍りし始めた男たちを見て、葉月は呆然と呟いた。
「完全に選択、ミスった……よね」
それでも、なぜか悪い気はしなかった。結局、自分も人との繋がりが欲しかったのだろう。仲間と言われて浮かれてしまうくらいには――。
その後、抱き着こうとしてきた陽明を、寸でのところでかわした。ちっと舌打ちされた気がしたけれど、おそらく気のせいだろう。
「葉月、かわしかたが上手くなったね」
呪術祠祭課の一員になるなら、これくらいかわせなくちゃやっていけない。基本暇な幽霊課の割には、キラキラオーラ全開の誰かさんのせいで、女性の注目率だけは高いのだから。
葉月はニッコリ笑って言ってやった。
「何度も同じ手には乗りませんよ」
≪祈雨 了≫




