(4)
年は三十代くらいだろうか。物腰柔らかでスマートで、微笑みの紳士という言葉がピッタリの男性だった。
けれど、いかにも優しそうな微笑みの紳士様に、なぜかこの世界に来た時に初めて見た死神男を重ねてしまった。雰囲気はまったく違うのにどうしてだろうと思って、その理由を悟る。
……そっか、死神さんと同じ黒い官吏服なんだ。
この国の官吏はその階級や職種によって、衣の色や帯の装飾が変わる。この一年で葉月が黒色の官吏服を見たのは、あの死神男だけだった。
「本当ですか、ありがとうございます。一本銅五銭。良心的な値段でしょう?」
「そうですね。詐欺まがいの売り方にしては良心的ですね」
葉月渾身の営業スマイルが一瞬で固まる。
ケンカ売っているんですか? とは、もちろん言わない。これでも社会人の端くれだ。
「お言葉ですが、私はまっとうな商売をしています」
「失礼。では、雨が降るというのには、もちろんまっとうな根拠があるんでしょうね」
紳士然とした穏やかな顔には不釣り合いな言葉に、違和感を覚える。そして、その顔をまじまじと見て気がついた。
……ちょっと、この人、目が全然笑ってないんだけど!
全身にぞわぞわと悪寒が走る。少しでも相手から距離を取ろうと、体を仰け反らせたその時――。
「そんな直球勝負じゃ、子猫ちゃんが逃げちゃいますよ。ほら、怖がってる」
黒色の官吏服の後ろから、イケメン青年がひょいと顔を覗かせた。
年齢は葉月とそれほど変わらないのではないだろうか。垂れた瞳とにこやかな顔が相手の警戒心を緩ませる。その効果は抜群で、葉月は思わずホッと肩の力を抜いた。
でも、完全に警戒を解いたわけではない。まだまだ疑いたっぷりに見つめていると、そんな気持ちを察したのかイケメン青年が肩をすくめた。
「突然ごめんね。俺らさ、君の空読みの力に興味があって来たんだ。怪しい者じゃないよ」
「空読み?」
「そう、空読み」
イケメン青年が人差し指を上に向かって突き立てる。
その先にあるのは鈍色の空。
なるほど。
どうやらこの世界では、天気予報のことを『空読み』というらしい。
一年も生活してきたのに、葉月はそんなことも知らなかった。
「それでさっき話していた、まっとうな根拠とやらを教えてくれない?」
イケメン青年が太陽の化身かと見まがうキラキラした笑顔で、一歩間合いを詰める。
……うわっ。笑顔がまぶしい。
元の世界では、こんなキラキライケメンと話す機会なんてなかった。だから、いきなり迫られても反応に困るし、正直何を話していいかわからない。ちなみに、隣の紳士は裏にひと癖もふた癖もありそうで、こちらもお近づきにはなりたくない人種。
つまり葉月が取る道は――、
「えっと、ごめんなさい。嘘です。雨が降るなんて嘘八百です。本当は傘を買ってほしかっただけです。すみません、許してください」
とにかく平謝りして、その場をやり過ごすことだった。
だって、二人とも世の女性が放っておかないような美形どころだ。女の中でも下の下の下を突っ走る自分が、太刀打ちできるはずがない。しかも、普通の官吏じゃない匂いがプンプンする。こういう時は逃げるが勝ちだ。
どうやってこの場を離れようか算段していると、妙なオーラを放っていた紳士がその笑顔をいっそう濃くした。
「冗談はほどほどにしてくださいね。私には君の仕事を根こそぎ奪うことくらい、簡単にできるんですよ」
「きょ……脅迫ですか!?」
「脅迫なんて心外ですね。ただ、お願いをしているだけです。雨が降る根拠はもちろん教えていただけますね」
微笑みから逃れるように、横目でイケメン青年に助けを求めてみる。けれど、彼は「ごめんねー」とでも言いそうな顔で笑うばかり。
……あぁ、助けてくれないのかぁ。
でも、よく考えてみたら、それも当然か。彼は微笑み紳士のお仲間だ。自分を助ける理由なんてどこにもない。優しそうな笑顔を向けられたから、ちょっと警戒心を解かれてしまった。
……逃げ場がないなら言うしかないか。
葉月はひとつ溜息をこぼすと、黒縁眼鏡を押し上げて空を見た。
「南風が強まってきました。この時期に南風が強まるのは、荒れる前兆です。それから、玉泉山にも雲がかかってきました。上空は湿ってきている証拠です。おそらく、そろそろ降ってくるでしょう」
言い終わると同時に、売り物の傘が飛んでしまうくらいの突風が吹いた。
「君、空が読めるんですか?」
「空を読む!? いえ、そんなだいそれたものじゃありません。これは簡単な観天望気です」
「観天望気?」
「雲の形とか風の吹き方で、今後の天気を予想する方法です」
「あなた名前は?」
「葉月です」
「仕事は?」
「傘売りです」
微笑みの紳士は目の前に並べられた色とりどりの傘を一本手に取って、その場で開いた。
「なるほど、悪くない。これをもらいましょう」
「えっ……あっ、ありがとうございます」
何がどう転んだのか、彼は傘を買う気になってくれたらしい。彼らの真の目的は謎だけど、とりあえず今夜の晩御飯が確保できたのはよかった。
にんまり笑って、勢いよくお辞儀をする。その時、頭の上にポツリと雨粒が落ちてきた。
ポツ、ポツ、ポツと、雨粒は数を増やす。
視線を上げれば、それまで完璧な微笑みを崩さなかった男が、驚愕を露わにして葉月を見ていた。
「……驚きましたね」