(16)
意外な言葉に思わず息を呑む。鳳月に直接賛辞をもらうのはこれが初めて。普段恐ろしい分だけ、褒められると嬉しい。
「あっ、ありがとうございます」
直角九十度で腰を折り曲げながら、葉月はホッと安堵の息を吐いた。
そのまま会話は終わるだろうと思った。しかし、鳳月は何を思い出したのか「そういえば」と話を続けた。
「君、瑚珀の所にいるらしいですね」
「えっ、そうですけど」
「どうして、あそこにいるんですか?」
なぜそんなことを聞いてきたのだろう。そう思いながら、葉月は素直に答えた。
「実は、監視されていまして……」
「監視?」
「はい。どうやら私のことを、この国に害を及ぼす侵略者か不審者だと思っているみたいで……」
もう三ヵ月も監視状態が続いている。と今の状況をそのまま伝えれば、鳳月は驚いた顔で「信じられませんね」と返した。
「あの男が不審な人物を、自分の家に三ヵ月も住まわせるなんて考えられません。それに、どうしたらあなたがこの国に害をなす侵略者になるんですか。間接的にせよ、この国の皇帝を救ったというのに」
皇帝を救ったなんて大げさだけど、でも、とりあえずそれは横に置いておく。監視つき居候を始めてから三ヵ月。ようやく今、同意者を得られたのだ。
「ごもっともです」
ことさら大げさに頷きながら、頭の片隅でこれはチャンスだと思う。鳳月なら上手くやって、葉月の監視を解いてくれるかもしれない。
「あの……、できればでいいんですけど、鳳月長官から瑚珀長官に言ってくれませんか」
「何をですか?」
「監視は必要ないから、私のことを解放しろとかなんとか、まあそんな感じのことです」
なるほど、と鳳月が頷いた。
「いいですよ。……と言いたいところですが、やめておきます」
「えっ……」
驚いた葉月を一瞥すると、鳳月はゆっくりと歩き出した。どうやらついて来いということらしい。葉月も一緒に歩き出す。
「あの男は刑部長官になってから、自分の周りに人を置かないということを徹底しています。いつでも、どんな人間でも容赦なく断罪できるように、情と名のつくものをすべて排しているんです。私ですら近くに寄せません。現に屋敷にもほとんど人がいなかったでしょう?」
たしかに、屋敷には侍女の可喜しかいない。
「それが君だけは近くに置いている。それには――」
いったん言葉を止めて、鳳月はクツリと含み笑いのようなものをこぼした。
「何か意味がある気がするんですよ」
「……意味?」
訳がわからず首を傾げたが質問に対する答えはなく、鳳月は一瞬浮かべた笑みを消して、しんみりと語り出した。
「どんなに栄華を極める国でも、光の裏には必ず闇がある。あの男はその闇の部分を一手に引き受けている。損な役回りを自ら買って出た。そういう男なんです」
鳳月の中で説明する気がないのか、その言葉は独り言のようだった。
なんとなく口を挟むことができなくて黙って隣を歩いていると、ふいに鳳月が笑った。
「知っていますか? あの男、元は虫も殺せないようなやつなんですよ」
突然落とされた爆弾に、葉月の足はピタリと止まった。
……虫も殺せない? いやいや、ちょっと待って。死神のどこが虫も殺せないの!? 虫なんて、片手で捻りつぶしているとしか思えないんだけど。
あまりに驚きすぎて、ぽかんと口を開けた葉月を見て、鳳月は「いい反応ですね」と愉快そうに言った。それから、ポンッと肩を叩かれる。
「とにかく、いいじゃないですか。食事もついて寝床もある。居候先としては最高ですよ」
それは葉月も知っている。食うのにも困るような生活は、瑚珀宅に行ってからかなり改善された。
フカフカの布団においしい料理。たまに可喜が点心を作ってくれて、これがまたおいしかった。たしかに、形だけ見れば好条件居候先だ。
「でも、監視つきですよ……」
ぽつりと呟けば、鳳月は堪えきれないというように噴き出した。
「いったい、どんな監視なんですかねぇ」
「えっ……?」
「とにかく瑚珀はだいぶこじらせていますから、よろしく頼みますよ」
監視から解放してもらうつもりが、逆にお願いされてしまった。ああ、どうしてこんな展開に……。
「噂をすれば、迎えが来たようです。あの男もかわいいですね」
かわいいという言葉に首を傾げながら、視線を先に向ける。数メートル離れたところに、提灯を持った瑚珀が立っていた。その顔は鉄壁の無表情だ。
……ごめん、鳳月長官。ぜんっぜん、かわいくは見えません。
どうやら礼部長官の目は節穴らしい。葉月は引き渡される罪人のような気持ちで、鳳月に辞去の挨拶をした。
*
日が沈んでからの空は、一気に闇へと姿を変える。すっかり暗くなった帰り道を、葉月は瑚珀とともに歩いた。
電気がないこの世界。月明りのない夜は真っ暗で、歩くためには提灯の明かりだけが頼りになる。静寂が落ちる道を歩きながら、葉月は牢に入れられた状況を説明した。
「――というわけです」
こめかみを揉みこみながら説明を聞いていた瑚珀は「長官のおかげで、祈雨祭を無事行えました」と礼を言うと、ようやく長い指をこめかみから離した。
少しは溜飲を下げたらしい。そんな男の顔を見つめながら、葉月は思った。
葉月が閉じ込められていたのは後宮の牢だった。いくら刑部長官といえども、後宮の牢に偶然入ることはない。あの時、偶然のように現れたけれど、おそらく葉月を探しに来たのだろう。
……また、助けられてしまった。
これで彼に助けられたのは三回目。いつも葉月がピンチの時に現れて、なぜか助けてくれる。
「どこかで野垂れ死んだのかと思いましたよ」
「私も、あのまま出られないのかと思いました」
道はだんだん狭くなり、二人並べばギリギリ通れるくらいの幅になった。肩が触れるくらいの距離を並んで歩く。
「そういえば、ずいぶん楽しそうでしたが、鳳月とは何を話していたんですか」
「あっ、瑚珀長官のことを、話していました」
「私のこと?」
「ええ。虫も殺せないとか、かわいい男だとか、そんなことを言われました」
珍しく相手のほうからたわいもない話を振られて、気が緩んでしまったのかもしれない。思わず正直に話してから、葉月は凍りついた。
隣から漂う空気が一気に温度を下げていたからだ。