(11)
「あれ? 水銀の高さが微妙に下がっている気がする……」
翌日、いつもと同じように礼部に出勤した葉月は、水銀の入ったガラス管を見て、首を傾げた。
もう一度測り直したけれど、やっぱり水銀の高さが前日より少し下がっていた。
「でも、観測には誤差がつきものだし……昼に、もう一回測ってみよう」
体を起こしたところで、衣の襟元からポロリと光るものが落ちた。それは昨日瑚珀にもらった珊瑚の簪だった。ふと男が見せた笑みを思い出す。
「……こんなのもらったって、使い道がないって」
一瞬、胸を通りすぎた靄のような感情をしかめっ面でごまかして、葉月は胸元に簪を戻した。
その日も礼部の入り口は、苦情を叫ぶ男たちでごった返していた。相変わらず、陽明も子草も苦情対応に追われて忙しそうで、本来の仕事をする余裕はない。
葉月は彼らの代わりに他部署に書類を運びにいったり、彼らが使った本を書庫へ返しにいったりした。
雑務を終えたころには、太陽は天頂近くに達していた。
「うわっ、ギリギリ。ちょっと遅くなったかも」
観測は正確な時間に行わないと、データとしての意味がなくなる。慌てて呪術祠祭課に戻った葉月は、机を見て「あれ?」と首を傾げた。
「銀ちゃんが……ない」
黒縁眼鏡を押し上げて目を凝らしたけれど、やっぱり机に置いたはずの銀ちゃんセットが見当たらない。
「まさか、陽明課長が持ち出したとか?」
口に出してみたところで、その可能性が低いことは初めからわかっていた。「銀ちゃんに触って、万が一にでも壊したら、一生恨み続けますからね」と冗談交じりで忠告していたからだ。
「もしかして、外に置き忘れたかな?」
戻ってきた陽明と子草に「銀ちゃん知りませんか?」と聞いたが、二人とも首を横に振るだけだった。
「どうしよう。唯一の仕事道具なのに……」
探しても探しても見つからない。それでも諦めきれなくて、葉月は辺りがすっかり暗くなってからも探し続けた。
物見台のある空き地をもう一度見渡す。今日が満月でよかった。月明りで辺りが薄明るく見える。
ふと今朝、銀ちゃんを使って気圧を測った時のことを思い出す。あの時、水銀の高さは微妙に下がっていた。
もし気圧が下がったのなら、それは雨が近いということ。でも、見切り発車で祈雨祭を行うのは危険だ。しっかり雨が降る確証を得てから祈雨祭を行いたい。
「とにかく、もう一度気圧を測らなくちゃ……」
葉月は藁をも掴む気持ちで、辺りを見回した。
しばらく探していると、ふいに月明りの下に人の姿が浮かび上がった。
幽霊でも現れたかと思ってビクッと肩を跳ね上がらせたが、よく見ると近づいてきたのは人間の女性だった。
一人、二人……、暗い色の衣が闇に浮かび上がる。目を凝らせば、それは女官の衣だった。
「誰ですか?」
問いかけてみたけれど、女官の名前なんて知るわけがない。それでも聞いたのは、恐怖心から自分を奮い立たせるためだった。
闇の中、ひとりの女官が言った。
「あなた、いつまで陽明様に張りついているつもり? 目障りなのよ」
……陽明様に張りつく? そんなことした覚えは……って、もしかしてこれは陽明ファンに脅されてる!?
「官吏でもないくせに官衙街を我が物顔で歩き回って、陽明様の隣を陣取るなんて見ているだけで虫唾が走るわ」
甲高い声とともに、女官たちが前に出てきた。
数人いる女官たちは、綺麗に身なりを整えた美女ぞろい。しかしながら、柳のように整った眉は剣のように吊り上がり、熟した果実のような唇からは辛辣な言葉がこぼれ落ちる。
……ああ、やっぱりファンの方々か。
「あの……お言葉ですけど、私は張りついたことも、隣を陣取ったことも一度もございません。むしろ、陽明課長のほうが――」
「お黙りなさい! コバエが陽明様の周りをうろついていると、はっきり言って目障りなのよ」
「コ……コバエ? それって、私のことですか?」
「あなた以外に誰がいるの!」
……ですよねぇ。ちょっと驚いて、言ってしまっただけです。
気を取り直して、葉月は数歩後ろに下がった。距離を取ったことで、少しだけ冷静になれた。
一、二、三、四、女官は全部で四人。さっきから先頭でまくしたてている、ことさら綺麗なあの人がボスというところだろう。
こんな夜中に、わざわざ後宮から内城の南端まで足を運ぶなんてご苦労なことだ。自分がこの辺りをうろつきまわることを予想していたとしか思えない。
……ん? 待てよ、それって。
「もしかして、銀ちゃん隠したの、あなた達ですか?」
「銀ちゃん?」
「ええ、水銀の瓶です」
「これのことかしら」
子分のように背後に侍っていた女官が、水銀入りのガラス瓶を掲げた。
「銀ちゃん!」
恐怖も忘れて女官に飛びつく。しかし、水銀まであと一歩というところで、体を押さえられた。
「何するんですか。銀ちゃんを返してください」
「返してほしいの?」
「当たり前です。それがないと、空読みができません」
「おあいにくさま。私たちはあなたに空読みしてほしくないの。意味わかる?」
……な、なに、この人。課長に近づくなとけん制しに来ただけならまだしも、仕事さえも邪魔するなんて、さすがに冗談じゃすませられない。
すました顔で「意味わかる?」なんて言われたって、わかるわけがない。女の中の最底辺を突っ走っている自分だって一応プライドがある。
「空読みとあなた達と、何の関係があるんですか?」
相手に負けないように凄んだ声に、先頭に立つ女官が一瞬気圧されたような表情をした。しかしすぐに立ち直って、背後の女官から水銀の入ったガラス瓶を受け取る。
「本当に鈍いのね。あなたが空読みを続けて、これ以上陽明様の関心を引くのが迷惑だと言っているのよ」
見せつけるように目の前にガラス瓶を掲げ、女が艶やかに笑う。そして、ひときわニコリと微笑むと、その手をゆっくりと離した。
ガラス瓶がスローモーションのように落下する。
――パリン――
地面にぶつかると同時に、ガラスが音を立てて砕ける。中から銀色の液体が、玉のようにはじけ飛んだ。