(8)
その後も葉月は日課のように礼部に通った。物見台で天気を観測してから、銀ちゃんを使って気圧をチェックする。ちなみに気圧は高いままで、いまだ天気が崩れる予兆はない。
礼部は相変わらず苦情を言う人で、ごった返していた。苦情対応に追われる陽明や子草に代わって、雑務を処理したりもした。
合間を縫うように陽明のスキンシップは続いた。けれど、きっと彼も連日の苦情処理で疲れているんだと自分自身を納得させながら淡々とかわした。
最近は「ああ、またか」となんでもないことのように対応できるようになった。
……慣れとはすばらしい。
そして、時を同じくして、葉月の周りでは不可解なことが起こるようになった。
机の上に置かれていた箱の中から大量の毛虫が出てきたり、差し入れと書いた饅頭から縫い針が出てきたり。今日は雲一つない天空からバケツをひっくり返したような大量の水が、葉月の頭上にだけ降ってきた。
そして、大量の水とともに『陽明様にちょっかいを出すな』という脅迫めいた紙が降ってきたところで気がついた。
「もしかして、これって、いわゆる嫌がらせってやつ?」
考えられることはひとつ。
「課長の過剰なスキンシップを見たファンによる制裁……ってとこかな」
別に彼との間に何かがあったわけじゃないけど、さすがにこっちに被害が来ると黙ってはいられない。
「一度、はっきり言っておくか……」
びしょ濡れの衣の裾を雑巾のように絞りながら、苦情を言う人の間をかいくぐる。そして呪術祠祭課の前まで来ると、葉月は扉を勢いよく開けた。
「課長、今日という今日ははっきり言わせてもらいます! 今後、半径四尺以内に近づいたら、内城に来るのをやめさせてもらいます。空読みの仕事もいっさい引き受けません。わかりましたか? わかったら、はいと言いやがれ」
語尾が荒々しくなってしまったのは、このずぶぬれ姿に免じて許してほしい。
「伊達にイケメン歴長くないんだから、ファンクラブの女子くらいちゃんと管理してください!」
ついでとばかりに心の内を叫びまくって部屋の中をぐるりと見回したが、八畳ほどの部屋には誰もいなかった。
「あれ?」
陽明どころか子草の姿もない。さすがに不思議に思って首を傾げながら中に入ると、机の上に一枚のメモが置いてあった。
――欽天監に行ってきます。今日は戻らないから、適当に帰っていいよ~♡――
緊張感のないその文を読んで、葉月は思いっきり脱力した。
欽天監って、天文台のことか。こんな時間になんの用事だろう。この際だから、はっきり言っておこうと思ったのに……。
出鼻をくじかれてガックリしたけれど、すぐにそれもまあいいかと思い直す。
どうせ髪も服もびしょ濡れで、仕事をする気にはならない。適当に帰っていいというなら、帰らせてもらおう。
葉月は近くにあった毛巾で濡れた頭を拭きながら、そそくさと部屋を後にした。
*
監視という名の居候をしている瑚珀宅は、泰京大街を西に曲がり、天藍国各州の公館が立ち並ぶ比較的にぎやかな一角にあった。
しかし葉月はふと思い立って、屋敷には戻らず内城を東から西に横切り、西官衙街にある小高い丘に向かった。
行った先は、葉月がこの世界に来て初めて降り立った場所。処刑台のある丘だった。
濡れた衣の裾を摘まみながら丘を登り、てっぺんに立つ。目の前にそびえる巨大な十字架は、強い日の光を浴びて黒々と輝き、異様な威圧感を放っていた。
この場所に来るのは、この十字架に引っかかった時以来。
「一年と……三ヵ月ぶりかな?」
不思議な気持ちだった。
何度も夢に出てうなされた十字架。もう二度と見たくないと思ったし、二度と来るものかと思った。でも、実際に目にすると、わずかな懐かしさを感じた。
どんなに最悪な思い出だったとしても、この十字架こそ、自分がこの世界に来て初めて降り立った場所なのだ。
一歩二歩と近づくにつれて、十字架はその存在感を増した。
「よく、あんな所に引っかかっていたよなぁ……」
もし今、五メートルはある十字架の横棒部分に人が引っかかっていたら、死ぬほど驚くにちがいない。思いあまって処刑台によじ登った自殺志願者かと思うだろう。しかも、見たこともない服を着て、聞いたこともない言葉をしゃべっていたら……。
「完全に不審者だ……」
冷静に考えてみると、あの時自分は殺されなかっただけ運がよかった。
目の前に迫った柱をよくよく見れば、十字の柱の中心から下部分がペンキで塗ったようにべっとりと黒光りしていた。それは、ここに人が張りつけられていたことを容易に想像させるもので――。
「もしかしてこの黒いのって血!?」
そう思った瞬間、胸の奥から強烈な嘔吐感がこみ上げた。懐かしさは感じても、馴染みはまったく感じない。
やっぱり来るんじゃなかったよ……。
喉をせり上がった吐き気を飲み込みながら踵を返し、歩き出す。けれど、数歩進んだところで、葉月の足はピタリと止まった。
視界に黒色の衣が映る。
「……シニガミ」
慣れたふうに丘を上がってきた男が、すっと視線を上げた。
「あなたがここに来るなんて、珍しいこともあるんですね」
「来たらダメでしたか?」
「まさか。いつでも歓迎しますよ」
……それは、いつでも処刑しますと同義語じゃないですよね。
どこか黒い笑みに、葉月の背筋を得体のしれない寒さが駆け上がる。それをごくりと唾を飲み込んでごまかしていると、瑚珀は物思いにふけるような静かなまなざしで処刑台を見上げた。
「あなたにとっては、故郷も同然でしょうから」
……そっか、故郷かぁ。って、いやいやいやいや。さすがに処刑台を故郷とは思わないから!!
たしかに、さっきは少しだけ懐かしいなとは思った。でも郷愁に駆られるとか、そういう類のものではない。第一、処刑台なんてこれまでの人生で一度も見る機会はなかった。非日常的インパクトのほうが強くて、故郷だなんて思うわけがない。
これがジョークならブラックすぎるし、本気だったら怖すぎる。
……さすが死神。こっちの常識を軽く三段飛ばしで超えてくる。
葉月は口を引くつかせたまま、その場で固まった。正直、何と答えていいかわからなかったし、答えるべきかもわからなかったのだ。しかし、ふいに爽やかな風が丘を吹き抜けたところで、我に返る。
ちょっと寒くなってきたかも。
「とりあえず、用事も終わったので、先に帰ります」
ぺこりと頭を下げて、男の横を通り過ぎる。けれど、すれ違うというところで横から伸びた手に髪を掴まれた。
「びしょ濡れじゃないですか。どうしたんですか」
「あーっと、これは別に……」
「言いたくないならかまいません。でも、まずはその濡れた服を着替えてください。いくら暖かい季節だとはいえ、風邪を引きます」
大丈夫です。と言いかけた言葉は、「否定の言葉は聞きませんよ」という一言に遮られた。
相変わらず長官様は、こちらの意見をバッサリと容赦なく斬ってきやがる。
むうっと口を尖らせたら、フッと鼻で笑われた。と同時に、背中を押される。
「行きますよ」
びしょ濡れだったからか、触れられた手は思いのほか温かかった。その温もりになぜか抵抗することができなくて、葉月は促されるまま丘を降りた。