(7)
「えーっと、つまりですね……」
慌てて言葉を探す葉月の前で、陽明がふうと息を吐いた。
「葉月、別に驚かないよ。どうやら君は異民族っぽいし、しかも空読みの知識はかなり豊富。おそらく、君の国では、空気に重さがあるというのは常識なんだね」
「……はい」
陽明が降り注ぐ太陽を、まぶしそうに見上げた。
「俺らがここに立っている。これも空気に重さがあるから。つまり、俺らは空気という海の底に住んでいるってわけか」
どうやら言いながら理解しているらしい。それにしても、海に例えるところなんてわかりやすすぎて、自分のほうが「へえ」と感心してしまった。
「そしてその空気の重さ、葉月いわく空気の圧力で、晴れになるか雨になるかがわかるんだね」
結論まで自分で出しちゃったし。
補足するなら、これも気圧を発見したトリチェリという人が実際にやった気圧の測定法だ。動画で見たことがあって、それを思い出してやってみたのだ。
それよりもこの男、普段はイケメンチャラ男のくせに実は頭がいいとか、完全に王道少女漫画のヒーローだ。そりゃあ、女官さんたちがキャーキャー言うはずだ。自分には限りなく縁遠い存在だけど。
そんなことを考えながら銀ちゃんを片づけていた葉月の肩は、いつの間にか近づいていた陽明の手に掴まれ、ぐるりと強制的に向き合わされた。そして――、
「葉月、最高だ。君みたいな女性は見たことがない。もう、ずっとここにいなよ」
嬉々とした声とともに、葉月の体は陽明の腕の中にすっぽり収まっていた。
「ちょっ……!」
どっ、どうして、抱きしめられた!?
とっさに体を離そうとしたが、その腕はびくともしない。
イケメンに抱き寄せられるなんて、世の乙女が一度は夢見るシチュエーションだけど、実際にされるとは思わなかった。
でも、わかっている。この抱擁には間違っても恋愛感情はない。いわばイケメンの普通だ。イケメンの常識だ。彼がこういうことに慣れているだけだ。
「課長、離してください」
淡々と言いながら体に回った腕を引き離す。しかし、その腕が緩まることはなく、なぜかさらに抱き込まれた。
「うぐっ……」
……さすがイケメン。スキンシップ過剰にもほどがある。
というか、離してくれぇぇぇ!
*
翌日から、葉月は礼部に通うことになった。
主な仕事は天気観測と気圧測定をすること。朝一回、昼一回、そして帰る前にもう一回。できるだけ詳細なデータがほしいので、一日三回気圧を測定する。……ことにしたのだが。
……正直、邪魔なんだよなぁ。
チラリと横を見ると、ニコニコ顔の陽明と目が合った。
なぜかわからないが、観測の時間になると陽明がついてくるようになったのだ。どうやら彼の知的好奇心を刺激してしまったらしい。
「課長、観測はひとりでできるので、仕事に戻って大丈夫ですよ。苦情処理の仕事、勝手に抜けてきちゃダメなんですよね」
「まあまあ、そんなこと言わずに」
何を言ってもこの調子で、仕事に戻る気配はまったくない。しかたがないので、できるだけ気にしないことにして、葉月は観測を続けた。
正確な値を見ようとしてガラス管に顔を近づける。すると、同じようにメモリを読み取ろうとした陽明の顔がピタリと寄った。あまりの近さに思いっきり仰け反る。
「課長、そんなに近づかないでください!」
「んっ……、どうして?」
「実はここだけの話ですが、私、過敏症がありまして。男性に近寄られると体中にぶつぶつが……」
「そんなの出てないよ」
軽妙な突込みとともに日に焼けた手が伸び、葉月のうなじにかかった後れ毛を後ろに払った。
「うわっ、やめてください。ほら、ぶつぶつ出た!」
「それ、鳥肌。もしかして、俺、嫌われてる?」
……相変わらず、勘は悪くない。
正確に言うと、嫌いなわけじゃない。ただ、美人に囲まれていそうなモテ男なんて生きている世界が違いすぎて、接し方がわからないのだ。
それに、なんたってこちらは女子力ゼロ。恋愛偏差値もゼロだ。彼にとってはなんでもないスキンシップもされたことがなくて、どう反応したらいいかわからない。
……と言ってみたところで、モテ人生を歩んできた彼にはわかってもらえないだろう。
「そんなことないですよ。ただ、異性に触られるのに慣れていないんです」
「じゃあ、慣れて?」
「無理です」
即答して立ち上がり、水銀を片づけ始める。ふいに視線を感じて隣を見れば、同じように立ち上がった陽明に見下ろされた。
甘い瞳がキラリと光る。その瞳に獰猛な一面を感じたのは気のせいだろうか。
「じゃあさ……」
陽明は口の端を持ち上げて、ニッコリと笑った。
「俺が慣らしてあげようか」
「…………はっ? はいぃぃぃ?」
いったいこの男は突然何を言い出すんだ。表情にこそ出さなかったけど、内心パニックだ。
「葉月って、なんだかほっとけないなぁ」
「遠慮なくほっといてください」
淡々と言いながら、猛ダッシュで水銀を片づける。ただでさえ言われたセリフがすでにキャパオーバー。サラリと返すテクニックなんてあるわけない。
できるだけ陽明のほうを見ないようにして、水銀を入れた瓶のふたを閉め、ガラス管を布袋にしまう。そして、勢いよく立ち上がると、葉月は逃げるようにその場を立ち去った。
呪術祠祭課に戻った葉月は、銀ちゃんセットを机に置いて頭を抱えた。
「ちょっと、なんなのぉぉぉ。普通、俺が慣らしてあげようかなんて言う?」
そして、そんなことを言われて、素面で返せる女性なんているんだろうか。とりあえず自分には無理。完全に許容範囲外。
水銀とガラス管を入れた袋をチラリと見る。
自分がここでやることは空読みだけ。しっかり仕事をこなして、しっかり謝礼をもらう。そして、素早く立ち去る。
これからは自分の精神衛生上、不意打ちフェロモン攻撃を仕掛けてくる男とは、距離をとることにしよう。
「半径四尺以内、侵入禁止!」
黒縁眼鏡を押し上げて、葉月は固く誓った。