(3)
どうやら落ちたところを上手くキャッチしてもらったらしい。
「あ……ありがとう、ございます……」
両脇を支えて、ゆっくりと地面に下ろされる。けれど、腰から下はすっかり力が抜け落ちていて、目の前の体に自ら抱きつく形になってしまった。
刹那、男の視線がまるで殺傷力の高い刃物のように飛んできた。
「あー、いやー、これはそういう意味ではなく……」
助けてもらったには違いないけど、男の顔は険しく、立ち昇るオーラは氷のように冷たい。
正直、怖い。それでも、お礼だけは言っておこうと思って頭をひねる。たしか、ありがとうは――。
「シエシエ」
ついでに引きつる頬の筋肉を無理やり動かして、笑顔らしきものも作った。
……この際、恐怖政治の絶対君主みたいな極悪顔を和らげるためなら、なんだってやってやる。スマイル0円、万歳!
そんな葉月を見て男はわずかに瞠目し、そして何を思ったのか、幼子をあやすように背中をポンポンと叩き出した。
……えーと、えーと、えーと。
ちょっとこの展開は予想していなかった。正直、状況が理解できない。
少しでも冷静になろうと頭をフル回転させたけれど、何も浮かばない。今はこの「大丈夫だよ」とでも言うように、優しく叩かれた手のぬくもりしか感じられない。
そして気がつけば、葉月の涙腺は派手に決壊していた。
「た、助かったぁぁぁ。よかったよーーー、死神さーん」
目の前の皺ひとつない衣に頭を預けながら、子供のようにわんわん泣く。
本当に死ぬかと思った。言葉が通じなくて不安だった。ここがどこかも、これからどうすればいいかもわからないけど、とりあえず助かってよかった。
葉月はぐしゃぐしゃの顔を隠しもせず笑った。
「助けてくれて、ありがとうございました。死神さん」
そんな葉月の様子を、後ろにいた若い男がこの世の終わりだと言わんばかりの蒼白な顔で見ていた。……のだが、泣きじゃくる彼女が気づくことはなかった。
そして、ここが正真正銘『処刑場』だと気づくのは涙が枯れた後で、落ちた場所が中国でもなんでもない『天藍国』という中国語が通じる異世界だと知ったのは、さらにずっと後のことだった。
*
「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。これから明日の天気を予報してみせましょう」
天壇の門前で、男物の襤褸を着た葉月は声を張り上げた。
後ろでひとつに結っただけの髪はぼさぼさ、手入れされていない眉毛はボーボーだ。化粧なんてするはずもなく、もともと低かった女子力は地の底に落ちた。
性格もずいぶんやさぐれ、神経は丸太のように太くなった。これも苦労の賜物……ということにしている。
異世界に来て、一年が過ぎた。
あの時、葉月は天藍国という国の首都、泰京の処刑場に落ちたらしい。
そこからは散々な目に遭った。
牢屋に入れられて三日三晩飲まず食わずで放置されたうえに、言葉もわからない状態で街にポイッと投げ出された。
食うにも困って残飯をあさったこともあったし、野良犬に追いかけ回されたこともあった。とても人間の生活とは思えなかったし、本当にきつかった。
正直、こうして五体満足で生きているのが不思議なくらいだ。
ちなみに、なんとか生き延びようと必死で勉強したこの国の言葉は、今では会話に困らないくらい話すことができる。それでも悲しいことに、仕事には一切ありつけなかった。
その理由は、まずこの容姿。
この国の女性はみんな長い髪を綺麗に結い上げている。おかっぱ頭に黒縁眼鏡という葉月の容姿は、まったく受け入れられなかった。
次いで女子力。
もともとリア充とはほど遠い、オタク気質の理系女子。料理も裁縫もできなければ、女子の切り札、愛想さえも振りまけない。
女子力も家事能力も最底辺爆走中。
そんな葉月がこの世界でできたことは、天気予報くらいだった。
「そんなこと言って、昨日は外れただろう。お前の予報とやらは占いより当たらん」
どこからか野次が飛ぶ。
「そんなことはございません。昨日言った通り、今日はこの春一番の暖かさになりました」
「でも、雨は降らなかった」
野次の声に、しめたとばかりに黒縁眼鏡を押し上げる。
「では、ずばり当てましょう。後二刻もすると天が闇夜のように暗くなり、稲妻とともに雨が滝のごとく降るでしょう。その後には身を刺すような冷たい風とともに冬が戻ります」
最後は秘密事を告白するような神妙な声で言う。
一瞬の沈黙の後、人垣からどっと笑いが起こった。
「お日様が出ているっていうのに、後二刻で雨だと? しかも、こんなにあったかいのに冬が戻る? いかさま言うな!」
「では、天の神に祈ってみましょうか」
葉月は瞳を閉じて、左手をすっと空に掲げた。祈るようにゆっくりとその手を下ろし、胸の前で十字を切る。すると野次がピタリと止んだ。
「信じる者のみ救われます。救われたい方は、どうぞこの傘をお買い求めください」
深々とお辞儀をしながら足元に並べた傘を指させば、ようやく意味がわかったらしい男たちが一斉に笑い声を上げた。
「なんだ、そういうオチか。天気を予報するとか言って、本当は傘を買ってほしかっただけだろう」
「人をだまして、商売なんかするな」
「そんなことばっかりやってると、天の神様とやらに大目玉くらっちまうぞ」
捨てゼリフを残して、野次馬達は笑いながら散っていった。
後に残ったのは、つぎはぎだらけの襤褸を着た葉月と、足元に並べられた傘ばかり。
ポリポリポリ……。
頭を掻きながら傘を見つめる。次の瞬間、葉月はガックリと地面にうずくまった。
「ダメだ。今日もぜんっぜん傘が売れない。……お願い誰か買ってって。傘が売れないと、ご飯が食べられないよぉぉぉ」
切実な声が、人のいなくなった広場に響き渡った。
*
葉月はこの世界で傘売りをしていた。
――天気予報付きの傘売り――
思いついた時は最高にいい案だと思った。
でも、この世界にはコンピュータのようなハイテク機械はない。雲の形や空気の湿り気からもそれなりに天気は予報できるけれど、限界がある。
雨が降ると言っても、それが三時間後なのか六時間後なのか正確に予報するのは難しい。さっきのような野次を飛ばされるのは、もはや日課になりつつあった。
「今夜の晩御飯、どうしよう……」
ホッカホカの白米が食べたい。この際おかずなんていらないから、白飯を思う存分食べたい。今なら軽くご飯茶碗三杯、いや五杯はいける。
「……って、そのためにも、傘を売らなきゃいけないんだった」
その時、頭上から落ち着いた声が聞こえてきた。
「では、私が一本買いましょう。いくらですか?」
勢いよく顔を上げると、目の前に官吏服を纏った男が立っていた。
※この国では、一刻=15分くらいです