(6)
「やったー」
陽明が嬉しそうに叫ぶ。その横で葉月は脱力していた。
いや、これは謝礼に惹かれたわけでも、彼の笑顔に流されたわけでもない。正直、彼らが本当に困っているのがわかってしまったのだ。
そして、悲しいことに、話を聞いてしまったら断れない性らしい。もしかしたら、銀ちゃんを使ったら、彼らを助けてあげられるかもしれないと、一瞬思ってしまった。
……頷いちゃったら、やるしかないよね。
敗北感に打ちひしがれながら、そう覚悟と決めていると、横からふあぁぁぁという大きな声が聞こえてきた。
どうやら子草が起きたらしい。驚いたように眉を持ち上げて、こちら見ている。
「おっ、葉月、久しぶりだな。やっぱり祈雨祭のことで、課長に呼ばれたのか」
「はい。そうみたいです」
そして、今引き受けちゃったところです。
ペコリと会釈すると、子草が訝しげな顔で近づいてきた。上から下までじろじろと、まるで何かを探るように眺めてくる。
「な、何ですか?」
「お前、ちょっと変わったか?」
「変わった? どこがですか?」
まさかやさぐれ感に拍車がかかったのだろうか。
「髪型、変えたか?」
「えっ、髪型は変えてませんけど。あっ、もしかして、最近は鏡を見ながら髪を結っているから、それでかな」
「ああ、それだな。それに顔も変わったか?」
さすがに顔は変えていない。でも、もしかして――。
「眉毛……かな。ちょっと整えたんです」
春分祭の後、葉月は眉毛を整えた。毎日鏡を見ているうちに、これはひどいと思ったのだ。
じっと見られると、なんだか恥ずかしい。
意味もなく指でゴシゴシと眉を擦る葉月をしばらく見つめてから、子草が「わかった」と手を打った。
「お前、太っただろ」
……って、そっちかーい!!
相変わらず、デリカシーはゼロだ。
グーで殴ろうと拳を突き出したら、寝起きとは思えない俊敏さでかわされた。
「お前、今殴ろうとしたな」
「女性に対して太ったとかおっしゃるので、つい手が滑ってしまって。おほほほほー」
「そういう意味じゃねえって。前はガリガリだったから、少し肉がついてよかったなって言ってんだよ。ちゃんと飯食ってんだな」
慌てて訂正されて、自らの体を見下ろす。
たしかに瑚珀宅で食事を取っているせいか、葉月の体は三ヵ月前より少し肉がついた。頬のあたりもふっくらした気がする。元に戻ったわけではないけれど。
「たしかに、葉月、前より女性らしくなったね」
横から挟んだ陽明の言葉に耳を疑う。
「女性らしく……なりました?」
疑い半分で尋ねたら、子草が真顔でブンブンと首を横に振った。
「お前、課長の言葉を真に受けるな。前よりはってことだ。ちなみに、俺の好みは出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだ美女だけどな」
誰も子草の好みは聞いていない。そして、陽明の言葉を真に受けてはいけないのもわかっている。でも、前よりは女性らしくなったの……かな。
「えっと、子草さん。さっきは殴ろうとして、すみませんでした」
急にしおらしくなった葉月に、子草は驚いたように眉を持ち上げた。それからなぜか得意げな顔で肩をポンポンと叩く。
「まあ、俺は心が広いからな。別にそんなことは気にしない。泰京大街の饅頭で許してやろう」
……思いっきり気にしてるし。というか、それのどこが心が広いんじゃ。
*
その後、三人で物見台のある礼部脇の空き地に行った。
苦情殺到中の表口とは違い、物見台の周りはひと気がなく静かだった。
芝生は観測するにも最適で、葉月はここで水銀気圧計、通称“銀ちゃん”の使い方を二人に見せることにした。
「このガラス管に水銀を入れて……」
説明しながら実演していると、すぐに子草が反応した。
「水銀っ!? それって毒物じゃねえかよ」
「ええ。だから、こうして手袋をはめて、細心の注意を払って作業しているんです」
「他の物で代用できねえのか。例えば水とか」
「水は軽いから、あの物見台くらいのガラス管が必要になっちゃうんです。観測測器としては、ちょっと現実的じゃありません」
おそらく水で代用する場合は十メートル、三階建ての建物くらいの高さが必要になる。
「たしかに、そりゃあ現実的じゃねえな。そんなガラス管、作るほうが大変だ」
「水銀だと量が少なくてすむから、いいんですよ」
説明しながら水銀で満たしたガラス管を杯子の中に突き立てる。指を離すと、ガラス管の中の水銀はゆっくりと高度を下げていった。
ピタリと止まったところに顔を寄せて、メモリを読み取る。
高さは二尺半。昨日とほとんど変わらない。
気圧に変化はなし。明日も晴れが続くということだ。
「やり方はわかったけど、これでどうやって空を読むのかがわからない。説明してくれる?」
「えーっと。簡単にいうと、これは空気の圧力、つまり空気の重さを測っているんです。このガラス管の中の水銀は下から二尺半で止まっていますよね。これが空気の重さ。つまり――」
具体的に説明しようとした矢先、陽明が「ああ、そういうことか」と呟いた。
「杯子の中の水銀が空気によって押されて、ガラス管の中の水銀の重さと釣り合うのが、下から二尺半ってことか」
……正解。さすがエリート官吏。知識の豊富さも理解力の速さも伊達じゃない。正直、宝の持ち腐れな気がするけど、そこはつっこまないことにしよう。
ひとり感心していると、隣からだみ声が割り込んできた。
「はあぁ? お前、空気の重さってなんだよ。初めて聞いたぞ」
……う、そ、で、しょ。
ゆっくりと視線を横に向ける。ボサボサ頭から覗く黒目がちの瞳は、驚きに大きく見開かれていた。ちなみに後ろに立つ陽明からも、いつもの爽やかな笑顔は消えている。
どうやらこの国では、『空気に重さがある』という概念はない……らしい。