(5)
呪術祠祭課の中は、この前来た時のままだった。
机が三つあるだけの殺風景な物置部屋。日の光が当たった床には、白いホコリがうっすら積もっている。
三ヵ月前に自分が掃除したっきり、誰も掃除していないんじゃないだろうか。その床に死んだように突っ伏して寝ているのは、ボサボサ頭の子草だった。
「子草さん、相変わらず床で寝ているんですね」
「まあ、そのうち起きるだろうからさ。大変だったでしょ。ひとまず、座って座って」
座面に降り積もったホコリを手で払って、陽明が椅子を差し出す。
でもそこに座ってしまえば、なし崩し的に帰るタイミングを逃しそうで、葉月は机の上に銀ちゃんセットを置くだけにした。
「あのー、それで、どうして私が呼ばれたんですか?」
外の喧騒からなんとなく気づいていたけれど、素知らぬふりをして尋ねる。
ここは用件だけ聞いて、絶対に無理だと言って帰るんだ。それしかない。
コクリと頷きながら決心した横で、陽明が銀ちゃんセットを興味深そうに指で突いた。
「これで空読みをするの?」
「あっ、そうですけど。……って、その前に用件を教えてください」
「ああ、ごめん、ごめん。久しぶりに葉月に会ったから、舞い上がっちゃったよ」
……相変わらず、女子を手玉に取っていそうな軽い口調は大健在だ。
横目でじとーっと見据える葉月に気がつくことなく、いや気がついているのかもしれないけれど、そんな気配は微塵も感じさせず陽明は扉を指さした。
「外、すごかったでしょ」
「……ええ」
「もうひと月も雨が降っていない。それで、国民の不満が大爆発しちゃってさ。これは文治帝が祈雨祭を行わないからだって、礼部に苦情殺到中。いつもは暇な俺らも、休みなしで対応しているってわけ」
「自然現象だから、しょうがないんじゃないですか」
「文治帝もそう言って相手にしていなかったんだけど、天を治められないのは、帝に天子の器がないからだっていう輩が出てきちゃって」
この国で皇帝は天子とも呼ばれ、天を司る者という思想が一般的だ。
つまり少雨による旱魃や大雨による川の氾濫などは、皇帝が天を支配できていないが故。皇帝の力不足とみなされる。
「それで、ついに鳳月長官が切れちゃって、文治帝に祈雨祭をやれって鬼の形相で直談判したってわけ」
おばさま卒倒の微笑みが怒りに変わる様子を思い浮かべて、葉月は一度しか見たことがないこの国の皇帝に同情した。
「国民と鳳月長官の怒りを収めるための雨乞いかぁ。たしかに必要ですね」
「必要も必要。俺らの健やかな生活のためにも、是が非でもやらなくちゃいけないと思わない?」
「ええ、そうですね、そう思います。……じゃっ、頑張ってください!」
自分は部外者ですから。というニュアンスを残して、笑顔で銀ちゃんセットを持ち上げる。しかし、立ち去ろうとした葉月の手は、横から伸びた手に掴まれた。
振り返った先にあったのは、爽やか笑顔を一ミリも崩さない陽明の顔。
「力、貸してくれるよね」
……いや、無理です。って、なんだかこの展開は嫌な予感しかしないんですけど。
葉月は重ねられた手をそっと引き抜いて、目をそらした。
*
結局、なんだかんだ引き留められて、詳しい状況を聞くことになった。
陽明の話によると、祈雨祭をした後に雨が降ってくれないと、皇帝の面子は丸つぶれになる。だから逆転の発想で、雨が降る一日か二日前に祈雨祭をしたいということだった。
「事前に雨が降る予想はできそう?」
「無理ですね」
「無理?」
「はい。ひと月も雨が降っていないんですよね。これはすでに異常です。普通の天気傾向が当てはまらないから、異常っていうんです。春分祭の時のように、二週間前にその時期の空を読んで、日取りを決めるなんて無理です。そんなの占いの世界です。占い師でも呼んできたほうが百倍マシです」
異常気象の状況でこの先の天気を予報するなんて、コンピュータの技術発展が目覚ましい現代日本でだって難しい。この世界でできるわけがない。
「なるほどね。今後の予測ができないから異常か。理路整然、単純明快。頭でっかちの大官どもに聞かせてやりたいよ」
クツクツと笑いだした陽明の顔は、いつもよりも心なしダークに感じる。語尾につけられた辛辣な一言のせいかもしれない。
こんな時、彼の本当の顔はどれなんだろうと思ってしまう。キラキラ爽やかスマイルのどこまでが本当で、どこからが作り物なんだろうとか。実はすべて偽物で、本当はすっごい腹黒い人なんじゃないかとか。……いけない、いけない。深入り禁物だった。
「お褒めいただき、ありがとうございます。じゃあ、私は帰らせて……」
「いや、帰さないよ。実は、祈雨祭はあらかじめ日時を決める必要がないんだ。だから、直前に雨が降るってわかればいいわけ」
普段の爽やかスマイルに戻った陽明は「ほらっ」と言って、机に置かれた銀ちゃんセットを指さした。
「銀ちゃんだっけ? これを使えば、明日明後日の空は読めるんでしょ」
「えっ、そんなこと言いましたっけ」
「あれ? 覚えてない? 昨日言ってたよー」
そういえば昨日天壇前で、相手が彼だとは知らず、銀ちゃんについて話してしまった。口は災いの元。ああ、昨日の発言を消し去りたい。
「葉月、返事は?」
「もし嫌だと言ったら?」
「これだけ、もらっちゃおうかな?」
質を取られて形勢逆転。これを、もう一度作るお金はない。
「春分祭の時のように、外してしまうかもしれませんよ。空読みに絶対はありませんから」
「それは大丈夫。外れたら、またなんとかすればいいから」
……いや、なんとかならなかった時が怖いのだ。
葉月の不安を感じ取ったのか、陽明が諭すように目を細めた。
「君のせいにはしないよ」
「本当ですか」
「うん。安心して。それに、謝礼も変わりなくあげるよ。たっぷりとね」
ニッコリと微笑まれて、葉月は自らの敗北を感じた。
「……わかりました」