(2)
夏が近づくこの季節、泰京の日没は一年で最も遅くなる。夕方になってもまだ明るく、街は賑やかだ。
男たちは木の下で象棋を楽しみ、子供たちはその周りをはしゃぎながら駆け回る。
長詩を朗々と吟じる老婆を横目に、泰京中を網の目のように張り巡らされた胡同と呼ばれる路地の一つを曲がれば、その先に豪華な朱色の大門が姿を現した。
葉月の監視つき居候先、刑部長官 瑚珀宅だ。
門前まで行って、中央を飾る門環を叩く。しばらくして、中から屋敷の侍女 可喜が現れた。
「おかえりなさいませ」
折り目正しい礼をした可喜が、いつも通りの完璧な無表情で葉月を迎える。でも、最近はそれだけじゃないことに気がついた。
「ただいまです」
挨拶を返して小さく笑うと、可喜も恥ずかしそうに微笑んだ。
最近、翌日の天気を予報して教えるようになったら、かすかに笑みのようなものを見せてくれるようになったのだ。
先日なんて、「いつも空読みをしてくれるお礼です」と言って、出かける時に蒸したての点心を持たせてくれた。
変わらない日常の中で、そんな些細な変化はちょっと嬉しい。
いつもなら、そんな小さな変化にニマニマするのだが、さすがに今日はそんな気分にはなれない。明日、呪術祠祭課に行くことになったからだ。
陽明や子草に会うのは、別に嫌ではない。むしろ「お久しぶりでーす」と元気に会いに行きたいくらいだ。
でも、無理難題を頼まれないか……と考えると、気が重くなる。
料理を作っていた可喜とはすぐに別れ、葉月は中庭を横切り自分の部屋に入った。
扉の横に傘の入った竹籠を置くと、代わりに高さ一メートルほどの細長いガラス管の入った布袋を手に取る。
「まあ、明日のことは明日考えよう。まずは銀ちゃん、今日もよろしくお願いします」
南無南無と祈るように布袋に額をこすりつけ、その足で中庭に戻る。
そして、布袋から持ってきた物を出して地面に並べると、皮手袋をはめてから、葉月は「よし」と気合を入れた。
「じゃあ、始めますか」
用意するものは、細長いガラス管、底の平らな杯子、鉛色の液体。この三つ。
まずは、ガラス管に鉛色の液体をギリギリまで入れて、残りの液体は底の平らな杯子に流し込む。
次に、ガラス管の口を指で押さえて逆さにして、指ごと杯子の中に突き立てる。そして――。
「丁か半か……じゃなかった、晴れか雨か!」
博打の壺振り姐さんのように、威勢のいい声を上げて指を離す。
すると、それまでガラス管いっぱいに入っていた鉛が、杯子に浮かぶ鉛に溶けるようにゆっくりと流れだした。
鉛色の液体はガラス管の下から二尺半――約七十六センチ――のところで、ピタリと止まった。
「高さは二尺半。昨日とほぼ変わりなし。明日の天気も晴れかぁ……」
この不思議な道具こそ、葉月が“銀ちゃん”と呼んでいる物だ。
鉛色の液体の正体は水銀。ガラス管の水銀の高さで、空気の圧力を測っている。
つまりこれは簡易の水銀気圧計、晴雨計とも呼ばれるものだ。
原理は簡単。水銀柱の高さが高くなれば、気圧が高い=高気圧で明日は晴れ。水銀柱の高さが低くなれば、気圧が低い=低気圧で明日は雨となる。銀貨をすべて使い果たした原因がこれだった。
夕日を浴びてキラキラと輝く水銀を見つめながら、葉月はこの屋敷の主の顔を思い出した。
実はこの水銀、瑚珀に頼んで用意してもらったのだが、お願いした時の凍るような視線を思い出すと今でも震えが来る。
「まさか水銀があんな使い方をされるなんて、知らなかったんだもんなぁ」
葉月はむうっと口を尖らせた。
*
一ヵ月半前の食事中、葉月は屋敷の主人である瑚珀に尋ねた。
「水銀が欲しいんですけど、どうやったら手に入るか知っていますか?」
「なんですって?」
「えっと、だから、水銀がほしいって……」
切れ長の瞳を縁取る長いまつげがゆっくりと持ち上がる。露わになった瞳から放たれるのは、真冬の冷気のような冷たい視線。
「えっ!?」
……まさかのお怒り? もしかして、なんかまずいこと言っちゃった?
この一ヵ月、相変わらず会話は少ないながらも、比較的穏やかに過ごしてきた。そろそろ監視つき居候も終わるんじゃないかと淡い期待を抱いたりもした。
それなのに、これだ。
……めちゃくちゃ恐ろしいんだけど。
極悪人もバッサリ斬り殺しそうな視線に体中に震えが走って、自分の体を抱きしめる。いっそのこと目も耳も全部塞いでしまいたい。
そんな得体のしれない恐怖に駆られた葉月は、次に男が放った言葉に瞬時には反応できなかった。
「誰かに飲ませて、殺そうという考えですか?」
「……へっ?」
……たしかに水銀には毒性があるけど。えっ、もしかして、水銀を使って暗殺を企てているって思われた!?
「ちっ、違います! 誰かを殺そうなんて、まったく考えていません」
ただでさえ監視つき居候をしているだけでヒヤヒヤしているのに、暗殺者扱いされて処刑台行きなんてことになったら、たまったもんじゃない。
「ちなみに、この国を侵略しようとかも考えていませんからね」
……念押しも忘れない。
必死の弁明を黙って聞いていた瑚珀は、長いまつげを伏せ無言で食事を再開した。瞳だけで射殺しそうな視線が陰ったことに、葉月はホッと胸を撫でおろした。
改めて見ると、同じ人間とは思えないくらい美しく整った顔だ。思わず見惚れてしまうのは、自分だけじゃないだろう。
でも、中身は顔色ひとつ変えずに人を斬る極悪死神刑部長官だというのだから、天は二物を与えたのか否か。
「まさか、自殺でもするつもりですか?」
「そんなこと、考えていません」
「では――」
瑚珀が長いまつげを再び持ち上げた。
「不老不死の薬を作るんですか?」
……。
…………。
「………………はいぃっ?」
ゆうに十秒は沈黙してから、葉月は素っ頓狂な声を上げた。