祈雨(1)
――黄梅雨――
それは梅の実が黄色く熟すころに降る雨。
しかし、今年に限っては――。
短装の袖をまくり上げて、葉月は天壇の門前にある梅の木から、黄色く色づいた梅を一つもいだ。見上げる先に広がるのは、雲ひとつない青空。
泰京はすでにひと月、雀の涙ほどの雨すら降らない状態が続いていた。
綺麗に色づいた梅を手に、その場にしゃがみ込む。
「はあ、こんなに晴れ続きだと、傘が全然売れない……」
売り物の傘を手に取って、その場で大きく開く。
「この際、日傘ってことで売っちゃう?」
八大胡同の妓女あたりが、買ってくれないだろうか。
傘をクルクル回しながら、八大胡同で傘売りをする自分を想像してみる。
傘は飛ぶように売れて、照りつける太陽からその身を守るように、艶やかな妓女の頭上にクルクルと傘が舞う。五色の牡丹に、十色の蝶、鳳凰のような豪華な柄だって売れるかもしれない。
「これって、けっこう名案じゃない?」
にんまり顔で空想を駆け巡らせていた葉月は、そこで、はたと気がついた。
妓女たちがこんな真昼間に活動するはずがない。
「はあ……」
急に現実に戻った葉月の頭上で、カラカラと傘がむなしい音を立てた。
春分祭から、三ヵ月が過ぎた。
葉月は相も変わらず天壇前で傘売りをしている。そして、相も変わらず売れない日々を過ごし、相も変わらず死神刑部長官宅で監視つき居候をしていた。
ちなみに、もらった銀貨はすべて使ってしまって今は無一文。朝晩は刑部長官宅で食べているけれど、昼飯にはありつけない日が続いていた。
「今日も昼ご飯は抜きかぁ……」
空気に馴染ませるように、はあ……と嘆息する。
朝晩の食事のおかげか、葉月の体は以前に比べるとだいぶ健康的になった。心なしか肉もついた気がする。とはいえ、腹が減るのは変わらない。
ぐうぅぅぅ。
……あぁ、お腹すいた。
空腹に耐えて身をかがめたところで、葉月の視界に男物の靴が映った。
どうせ毎日来る野次馬客の一人だろう。いつも暇つぶしに冷やかすだけ冷やかして、いなくなるのだ。
葉月は顔も上げずに「いらっしゃいませー」と気のない返事をした。
「昼ごはん抜きって、この前の銀貨はどうしちゃったの?」
……あれ、どうして、この人、銀貨について知ってるんだろう。
疑問に思ったけれど、すぐに銀貨をジャラジャラさせて、ここに座っていたことを思い出す。きっとその姿をどこかから見ていたのだろう。
「ああ、あれは銀ちゃんを作るのに、全部使っちゃいました」
「銀ちゃん?」
「ええ。晴れになるか雨になるかを予測する道具です」
「へぇ、どこにあるの?」
「家に置いてます」
「ふーん。それで、明日は晴れ、それとも雨?」
「晴れです」
葉月は顔も見ずに言った。
最近来るのはこうした野次馬客だけ。しかも、晴れの予報しかしないから「お前のせいで雨が降らねえ」とか「インチキ占い師」とか、散々なことを言われる始末。
……正直、雨が降らないのを、こちらのせいにされても困るんだよねぇ。本当に雨を降らせられたらどれだけいいか。そんな能力あったら、ほしいくらいだ。
「それよりも、傘買わないんだったら、帰ってくださーい。営業妨害で訴えますよー」
空腹のせいか口調に棘が混じってしまったけど、いつもはもっとひどい野次を飛ばされているのだ。気にはしない。
葉月は顔も上げずに傘を並べ直した。けれど、目の前の客は一向に立ち去る気配がない。
もう一度はっきり言おうと息を吸い込んだところで、さっきの声とは違う上品な天藍語が耳に届いた。
「訴えてもいいですよ。負けるのはもちろん君ですがね」
……えっと、軽いデジャブ気分なんですけど。
黒縁眼鏡の上からそっと視線を上げる。そこにいたのは――。
「久しぶりですね」
「元気だった?」
黒色の衣を身に着けた礼部長官 鳳月と、藍色の衣をサラリと着流す陽明だった。
「お……お久しぶりです。というか、二人とも、どうしてここにいるんですか?」
「えー、葉月に会いたくなっちゃって。元気かなと思ってさ」
……いや、嘘だ。絶対に嘘だ。
会いたくなったのは本当かもしれないけど、それだけで、この二人がここに現れるとは思えない。
「おかげさまで、とっても元気です」
葉月はそそくさと傘をまとめ出した。
春分祭の時は、普段褒められないのに褒められて、ナチュラルハイになっていた。「呪術祠祭課に来ない?」と誘われて、素直に頷きそうにもなった。
でもよく考えてみると、空読みを外して、大大大惨事一歩手前だったのだ。
あんな胃が縮み上がるような思いなんて、もうしたくない。自分は日々心穏やかに過ごせればそれでいい。……でも、この展開は嫌な予感しかしない。
「傘の売れ行きはいかがですか?」
竹籠に傘を詰める葉月に、鳳月が声を掛ける。
「正直、あんまり売れませんけど」
「では、もっと割のいい仕事をしませんか?」
「いっ、いえ、それは……」
そこまで言って口を噤む。
……ダメだ。ここで余計なことを言ったら、前と同じ展開になる。
「私は傘売りが好きなので、けっこうです。では、ごきげんよう」
低姿勢でにこやかに、でも目は絶対に合わせないで立ち上がる。けれど、一歩踏み出したところで、葉月の肩は後ろから伸びた手に大きく引っ張られた。
「私には君の仕事を根こそぎ奪うことだって、簡単にできるんですよ」
……うそ。これって前と同じ展開じゃ。
恐る恐る振り返る。そこには言葉とは対照的な柔和な微笑みがあった。
ああ、日々穏やかに暮らしたいというささやかな願いを、神様はまたしても聞き入れてくれないようです。