(18)
部屋に入ると、瑚珀は机に向って書き物をしていた。いつもの黒色の官吏服ではなく、紫紺色の長衣を纏っている。沐浴を済ませたのか、下ろした髪はわずかに濡れていた。
筆を硯に置いた瑚珀がゆっくりと顔を上げる。と同時に、整った眉が盛大に歪んだ。
「なぜ男物の短装を着ているんですか?」
「……もう出仕することもないので」
葉月の答えに納得したのかしていないのか、瑚珀は指先をこめかみに当てて、ぐりぐりと押した。
何気ない仕草まで怖いなんて、さすが極悪死神長官。
内心そう毒づく葉月に、瑚珀は淡々とした声で「体調はどうですか?」と尋ねた。
「おかげさまで、すっかり元気になって、泰京大街で白飯たらふく食べてきました」
男の長いまつげが揺れ、薄い唇の端がゆっくりと持ちあがる。きっと本物の死神が笑ったらこんな顔になるんじゃないか。そう思ってしまうくらいの冷たい微笑みに、葉月の全身が総毛立った。
正直、全然楽しそうに見えないんだけど。
笑顔が怖いなんて礼部長官以来。でも、向こうが悪徳紳士だとするならば、こちらは魑魅魍魎、異類異形の類だ。
葉月は身震いしながら、それよりも――と思った。
言わなくてはいけないことがある。それを言うために、ここに来たのだから。
仕切り直しのように息を吸って姿勢を正し、ペコリと勢いよくお辞儀をする。
「春分祭の時は、助けていただいて、ありがとうございました。ついでに一年前、処刑台から落ちた時も……ありがとうございました」
――そう、あの時。祭壇から落ちた葉月を助けてくれたのは、この男だった。偶然とはいえ、自分は二度も彼に助けられたことになる。
頭を下げたままでいると、耳に思いがけない声が届いた。
「どういたしまして」
返事を返されたことよりも、声の温かさに驚いた。けれど視線を上げた先にあったのは、いつもと変わらない冷たい顔。
……さっき声が温かく感じたのは、気のせいだった?
男の顔をじっと見つめたが、表情が和らぐことはない。しかたなく葉月は手にした銭袋を見つめた。
そうだ、こっちが本題だ。
「えっと、それで、実は今回の仕事の報酬をいただきまして、これを瑚珀長官にお渡ししたいと思いまして……」
俯きながら銭袋をそっと差し出す。
「何ですか、これは?」
「こちらでお世話になった生活費兼、釈放費みたいなものです」
「釈放費?」
さっき感じた温もりが嘘のような冷えた声音に、ブルッと身震いする。葉月は俯いた顔をさらに下げた。
「あの……この国を征服するつもりはさらさらないんで、これで許して――」
――もらえませんか。という言葉は、いつの間にか目の前に近づいていた紫紺色の衣に遮られた。
「他に行く当てでもできたんですか?」
「それはないですけど……」
「では、出て行く理由はないですね」
すらりと長い指が、葉月の顎を持ち上げる。見上げるくらい高いところにあるのは漆黒の瞳。目が合ってビクッと肩を跳ね上がらせたけれど、相手の表情は能面のようにピクリとも動かなかった。
「あなたが何と言おうと、監視は続けさせてもらいます」
長い指がすっと離れる。そして何を言っていいのか皆目見当もつかない葉月をその場に残して、瑚珀は自らの席に戻っていった。
突然の男の行動と言われた言葉に、葉月は呆然とその場に立ち尽くした。しばらくしてポツリと呟く。
「……監視は、続ける?」
言葉にした瞬間、ふつふつと胸の奥から怒りが沸き上がった。
なんで? どうして? この男にはこっちの言葉が通じないの? この国を征服するつもりはないって、初めから何度も何度も言っているのに。それなのに、どうしていつもこっちの言葉をバッサリ斬ってくるの!?
葉月は胸に沸き上がった憤りのまま、男の背中に向かって言った。
「長官、私の言葉、聞こえてますか。この国を征服するつもりはないって言ったんですけど」
男がゆっくりと振り返る。その表情は動揺なんてまるで感じさせない鉄壁の無表情だ。
「聞こえていますよ」
「だったら、どうして」
「私が言いたいのは、あなたの帰る場所はここだということです」
「……えっ?」
鼓動が一瞬止まる。そして、再び動き出した時には、自分では処理しきれない感情が胸の中で渦巻いた。
「帰る場所はここって、なに、それ……」
誰に言うでもなく呟く。
「……どうして、あなたがその言葉を言うんですか? 異世界からやってきて、この国の言葉もわからなくて不安で、そんな状態だった私を街に投げ出したのはあなたじゃないですか。この一年、私がどんな思いをしたかわかりますか? 残飯を漁りながら家の灯りを見つめた。そんな私の気持ちがわかりますか!?」
この一年の辛い思いがよみがえって、涙が喉をせり上がる。それを唾とともにゴクリと飲み込んでやり過ごせば、そんな葉月をじっと見つめてから、瑚珀は静かに歩き出した。
机に戻り、再び筆を取る。まるでこちらの言葉なんて聞こえていないかのような行動に思いっきり眉を寄せたが、すぐに低く静かな声が耳に届いた。
「こちらはこちらの仕事をしただけです。でも、あなたが私を恨みたいなら存分に恨めばいいとは思っています」
「恨めばいい?」
意味がわからず首を傾げれば、瑚珀は長いまつげを持ち上げて、まっすぐ葉月を見た。
「ええ。恨みながらこの家に帰ってきなさい」
……はぁぁぁ?
恨みながら帰ってこいだってぇぇぇ!?
呆気に取られすぎた葉月は、恥ずかしさも忘れてポカンと口を開けた。
恨みながら帰ってこいとは、いったいどういうことだ。呪いの藁人形でも持ちながら帰ってくればいいのか? その藁人形に五寸釘でも打ち付ければいいのか?
相変わらずこの男の言うことはさっぱりわからない。こちらの言葉は通じないし、答えは明後日の方向からやってくる。しかも、自分から恨めと言ってきた。
あまりに意味不明な言葉に、葉月はその場で地団駄を踏みたい気持ちになった。
……もう、意味わかんない。意味わかんない。ぜんっぜん、意味がわかんないんだけど!
それでも、向こうが恨めというなら――。
「わかりました。ぞんっぶんに、恨ませていただきます!」
黒縁眼鏡を押し上げながら鼻息荒く言う。そんな彼女の様子に、瑚珀は筆を走らせながらフッと頬を緩めた。
「どうぞご自由に」
……わ、笑った。しかも、どうぞ自由にって。
葉月の口がヒクリと引きつる。それでも、こちらをチラリとも見ない男に諦めて踵を返した。もうこれ以上話しても無駄だ。
「お邪魔しました!!」
そうして、葉月は振り返ることなく部屋を出た。
右手に持った銭袋を振り回しながら中庭を横切る。自分の部屋の前まで来ても憤りは収まらないどころか、冷静になろうとすればするほど、男の言葉に疑問が沸き上がった。
「ああ、わけわかんない。恨みながら帰ってこいって、どういうこと? 笑いながらどうぞご自由にって、なんなの?」
大きすぎるひとり言を言いながら部屋に入り、寝台の下から竹で編んだ行李を取り出す。
ゴソゴソと数枚の衣をめくって銭袋をしまい、そして行李のふたを閉めようとしたところで、ふと男の言葉が脳裏をよぎった。
――あなたの帰る場所はここだということです――
「……でも、この世界に来てから、あんなことを言われたのは初めてだったな」
今まで自分には帰る場所なんてなかった。ずっとひとりだった。だから、言われた時、一瞬どう反応していいかわからなかった。
「帰る場所か……」
ポツリと呟いてから、ハッとする。
「いやいや、ちょっと待って。監視つきだから。あいつの中で、私は侵略者だから!!」
必要以上にしかめっ面をして立ち上がると、寝台に頭からダイブした。フワフワの布団に、勢いよく体が埋もれる。
「ああ、ホントわけわかんないよぉぉぉ」
バフバフと布団を叩きながら叫ぶと、電池が切れたようにパタリとすべての動きを止める。
そして葉月は、そのまま眠りに落ちた。
≪春分 了≫