(17)
世界が一番静かな夜明け。
葉月は薄明の空をじっと見つめていた。
いつだって空を眺めるのは好きだけど、太陽が昇るこの瞬間を見るのが一番好きだ。闇色の空が群青から橙そして白へ。空が一番ドラマチックに変化するから。
その時、背後から名前を呼ばれた。
「小田、もう放送時間まで一時間、切ってるぞ」
……えっ、小田?
信じられない言葉に耳を疑う。小田なんて苗字で呼ばれたのはいつ以来だろう。しかも放送時間とはいったいどういうことだ。
振り返ると、空きが目立つデスクの先から、シルバーフレームの眼鏡をかけた上司が顔を覗かせていた。
「なにぼーっとしているんだ。原稿まだ作ってないんだろ」
上司が指さした先にあるのは壁掛けの時計。針は五時半を指していた。
そうだ。放送までは残り一時間。こうしている場合じゃない。
「今、戻ります!」
わけがわからないながらも染みついた条件反射で席に戻り、とりあえずとばかりにパソコンのマウスをクリックする。
☁☁☁☁☂☂☂
画面に天気マークがずらりと並ぶ。
「午後から雨か……」
「大気の状態はかなり不安定。雷の可能性も十分あり」
横からアドバイスのように投げかけられた上司の言葉に、背後に掲示された天気図を見る。たしかに彼の言う通りだ。
「じゃあ、急な雨、落雷、突風に注意という一文を入れます」
天気図から視線を外し、葉月は勢いよくキーボードを打ちはじめた。
早朝の葉月の仕事は、朝のニュース番組に出るキャスター用の天気原稿を作ること。番組の時間に合わせて、最新の気象状況をチェックしながらの原稿作り。時間との戦いで、ゆっくり空を眺めている暇なんてない。
……どうして今日に限って、あんなにゆったりとした気分で空を眺めたんだろう。
その時、なぜだか泣きたくなるような苦しさが胸を通りすぎた。そして思い出す。
そうだ。異世界にいたんだった。
春分祭の途中で、暴風が吹いて。燃え盛る松明を掴んだと同時に、祭壇から投げ出されて。……誰かに助けられた。
「お礼を言わなくちゃ……」
「お礼? 何を言っているんだ?」
訝しげにこちらを見る上司に、言葉にできない違和感が沸き上がる。
それは、今自分が会うべき相手は彼じゃない。自分がいるべき場所はここじゃない。という確信に似た感情。
両手がフッとキーボードから離れる。
「すみません。私、ちょっと行くところがあって……」
「行くって、どこに行くんだ?」
言われた時には、ドアに向かって駆けだしていた。
だって、今の自分がやるべきことはこれじゃない。春分祭だってどうなったかわからないし、任せられた仕事をきちんとやれたのかもわからない。それに、お礼だって言っていないのだ。
――だから、戻らなくちゃ。
葉月は蹴破るように、気象センターの無機質なドアを開けた。
*
柔らかな日差しを感じて、パチパチと目を瞬かせる。
「あれ……ここは?」
ぼんやりした視界のままあたりを見回せば、袖机に黒縁眼鏡が置いてあった。手を伸ばして取ろうとしたところで扉が開く。
「葉月、起きた? どっか痛いところある?」
慌てて眼鏡をかけると、扉の前には爽やかスマイルを浮かべる陽明が立っていた。
どうやらさっきは夢を見ていたらしい。なぜかホッとして、葉月は自らの体をペタペタと触った。
「とりあえず、大丈夫みたいです」
「じゃあ、これ薬湯だから飲んで」
茶碗を受け取ってごくりと飲み込む。喉を苦みが通り抜けて、思わず顔をしかめた。
「ところで、ここは?」
「内城の太医院。やっぱり風邪だったね。熱で丸一日寝込んでいたんだよ」
「そうですか。ありがとうございます。それで春分祭は?」
「無事終わったから安心して」
それを聞いて、少しだけホッとする。
「ご迷惑をおかけしました」
「謝る必要はないよ。葉月のおかげで、最悪の惨事は免れたんだから。文治帝も葉月の勇敢な行動を称賛していたよ。特別に試験免除で官吏にしてもいいとか言っていたけど、どうする?」
襦裙を着ていたのに、男だと勘違いされたのだろうか。
「魅力的な話ですけど、物理的に無理です」
「驚かないんだね」
「おかげさまで、この二週間でこの手の勘違いにも慣れました」
薬湯の入った椀を寝台脇に置く。どうせ笑われるんだろうと思ったけれど、意外にも陽明からいつもの笑顔は消えていた。
「じゃあさ、空読み師として、特例で呪術祠祭課に来てほしいって言ったら?」
……えっ、特例で呪術祠祭課に? そんなことも可能なんだ。
少しの間考える。
それから、静かに首を横に振った。
「すみません。私は傘売りですから」
陽明からの誘いは正直嬉しかった。でも、春分祭のような迷惑は二度とかけてはいけない。大惨事は免れたとはいえ、天気を読み違えたことには変わりない。
それに、自分は異世界人だ。この世界に来た時も突然だったように、何が原因でいつまた元の世界に戻ってしまうかわからない。
だから、あまり人と深く関わりすぎてはいけないんじゃないか。そう思ったのだ。
「結構いい話だと思うんだけど。どうしてもダメ?」
「私は傘売りが好きですから」
「そっか……」
陽明がため息とともに肩をすくめた。
「ああ、フラれちゃったか。これで鳳月長官にどやされるなぁ」
それまでのしんみりした雰囲気が嘘のようなあっけらかんとした声に、葉月は思わず笑ってしまった。
この男、本当に事なかれ主義だ。でも、それも今は少しだけ名残惜しく感じる。
「まあ、そこは頑張って乗り切ってください」
「葉月、ひどい……。まあ、いいや。とりあえず、はい謝礼」
目の前に白い包みが置かれる。
「いいんですか?」
「もちろん。春分祭は無事終わったからね」
言い終わると同時に、肩をポンと叩かれた。
「――ありがとう、葉月。君のおかげで助かったよ」
ぬくもりが離れたと同時に、藍色の衣が視界から消えた。パタリと扉が閉まり、部屋には葉月ひとりが残された。
「あんなに引き留めた割には、あっさりいなくなるし……」
胸に湧いた寂寥感を笑いで誤魔化して、葉月は目の前の白い包みをそっと開いた。隙間から零れるように、銀貨がボロボロと落ちる。
「うそ、こんなに?」
感傷的になっていたことなんて一瞬で忘れて、葉月の瞳はキラキラと輝いた。
「白飯たらふく魚付き、いやいや、これは肉もいけちゃうって」
銀貨を両手で持ち上げて、ジャラジャラと鳴らす。
「くうぅぅぅ。この音、たまんない。大判小判がザックザク。花咲か爺さんの気分だよ」
天を仰いでそう言いながら、葉月はしばらくの間、銀貨の音を堪能した。
*
その後、葉月は銭袋をジャラジャラさせながら街をぶらついた。
一仕事終えた安堵感もあったし、謝礼をもらった嬉しさもあった。でも、それよりも「ありがとう」と言われたことが、葉月の心を温かくした。
考えてみれば、この世界に来てから誰かに感謝されたのは初めてだった。それは思った以上に、葉月自身を幸せな気持ちにさせた。
笑いを堪えようとしても、顔がにやけてしまう。
「ありがとうかぁ……」
しばらくニヤニヤしていたが、ふと思い出す。
「そうだ。感謝といえば、お礼を言わなくちゃいけないんだった……。でも、とりあえずはご飯。白飯に魚に肉も食べてやる!!」
重さで破れそうな銭袋を両手で握りしめて、葉月は泰京一の繁華街に繰り出した。
肉に魚と欲望のままに食べまくる。ついでにもう出仕することもないだろうと、男物の短装を買ってその場で着替えた。
そうして辺りがすっかり暗くなるころ、ようやく帰路についた。
「葉月様、お帰りなさいませ。旦那様が部屋でお待ちです」
屋敷に着くなり、無表情の侍女に乱れのない礼で迎えられた。
「ただいまー……って、ここ私の家じゃないし。しかも、お待ちされなくていいんだけど」
ぶつぶつ言いながら、案内された部屋の前で名前を告げる。すぐに「どうぞ」と、低いながらもよく通る声が聞こえた。
基本怖いけど、この声は案外耳に心地いい。そんなことを考えながら、葉月は扉を開けた。