(16)
夜になると、天を切り裂くような雷鳴とともに大粒の雨が降り出した。官吏たちが一旦撤収する中、葉月はひとり祭壇を見つめていた。
どうして天気は変わったんだろう。いや、天気とは時にこのような気まぐれを起こす。それは十二分にわかっていたことだ。でも、どうして一昨日まで順調に来ていたのに今になって……。
せっかく順調に来ていたのだから、そのままでいてほしかった。なにもこんな時に変わらなくてもいいのに……。
「みんなの期待に応えたかったんだけどなぁ」
天から容赦なく落ちてくる雨は、葉月の心の涙のようだった。
それでも、きっと風がやむタイミングはある。そのタイミングさえ読み違えなければ、まだ可能性はある。
ふいに昨夜言われた言葉が脳裏をよぎった。
――結果は、最後までわかりません――
そうだ。結果はまだわからない。最後まで、やれることをやろう。
その時、バサリと肩に何かが掛けられた。よく見ると、男物の外套だった。
「風邪引いちゃうよ。中に入ったら?」
「陽明課長、大丈夫です。明日から寝込んでも、誰にも迷惑はかけませんから」
「葉月の気持ちはわかるけど、祭祀までまだ時間がある。今のうちに、しっかり休んだほうがいい」
たしかに彼の言うことも、もっともだ。自分の仕事はまだ終わっていない。最後までやれることをやろうと思ってはいるけれど、ここで倒れたら周りにもっと迷惑をかけてしまう。
ここは意地を張るところじゃない。
「じゃあ、一旦休ませてもらいます」
葉月は素直に頷いた。それから、スッと顔を上げる。
「陽明課長、勝負は雨が止んだ直後です。北風が吹き出すまで、およそ二刻。無風の時間ができるはずです」
――そう。風を避けるには、このタイミングしかない。
しっかり瞳を合わせれば、陽明がニコリと笑った。
「了解」
*
日付が変わり、卯の刻を半分過ぎたところで、雨はピタリと止んだ。
「おい、葉月。雨が止んだぞ」
外の様子を見てきた子草が声を荒げる。葉月は濡れた外套を投げ捨てて、薄着のまま外に出た。ブルッと寒気がしたけど、気にしている場合じゃない。
見上げると、それまでの暴風と強雨が嘘のように空は穏やかだった。
「なんだか、この調子だと風は吹かなそうだな」
陽気な声で子草に言われたけれど、何も答えられなかった。
これは一時的に凪いでいるだけだ。二刻後には、風は必ず北に変わる。変わったと同時に、冷たい風が吹きすさぶにちがいない。
天藍国の旗、皇家の旗。一段高い所に設置された祭壇には、どんどん旗が立てられる。作業は急ピッチで進んだ。誰もが時間に間に合うように、声をかけ合い協力して作業をした。
そんな彼らの仕事の賜物だろう。東の空が明るくなる前、予定時間通りに春分祭の開始を告げる銅鑼が鳴り響いた。
日壇の中央には見上げるほどの高さの祭壇が設えられ、壇の後方には高級官吏、高級女官達の席が並ぶ。
黒色や藍色の衣を身にまとった高官たちが続々と現れる。
彼らが着席し終えると、最後に玉珠のついた黒の冠に、龍の絵が施された黒の袞衣を纏った、天藍国皇帝、文治帝が現れた。
葉月は初めて皇帝というものを、この目で見た。自分より何歳か上だという皇帝陛下は、見た目よりもずっと年上に見えた。
顔がというわけではない。身体から放たれる気とでもいうのだろうか。自分のような小市民には、間違っても近づけないような雰囲気があった。
……さすが皇帝陛下。オーラがすごい。
祭壇上に控えながらそんなことを思っていると、いつの間にか隣に来ていた子草に肩を叩かれた。
「どうやら、大丈夫そうだな」
周りを見れば、無事に春分祭が始まったことに、どの官吏もホッとしているようだった。
松明が灯された祭壇に文治帝がゆっくりと登る。壇上までたどり着くと、冴えた瞳で空を仰ぎ、祈りの言葉を唱えはじめた。
……ここまで来れば大丈夫だ。
ホッと安堵の息を吐きながらいまだ暗い西の空を眺める。深い群青色をした宵闇の先に明星が輝いていた。今日はきっと晴れるだろう。
その時だった。
ふと明星がその存在を主張するかのように、大きくきらめいた。
――風が来る。
考えている暇はなかった。葉月は勢いよく立ち上がると、文治帝のもとに駆けた。
「陛下、風がまいります。伏せてください」
振り返った文治帝が眉を大きくしかめた。
それはそうだ。どう見ても今の自分は暗殺者か不審者だ。処刑台行きは、ほぼ確定か……。
「申し訳ございません。緊急事態です」
勢いよく文治帝に覆いかぶさる。
「葉月、何してんだよ!」
「子草さん、風が来ます。早く旗を降ろして、火を消してください」
慌てて駆け寄った子草は、葉月の真剣な瞳に表情を引き締めた。
「わかった」
硬い声で短く返すと、すぐに官吏達に旗を降ろすように指示を出す。しかし、勢いよく燃える松明は消すのに時間がかかる。
ひとつ、またひとつ。ゆっくりと消えてゆく炎を、葉月はもどかしい気持ちで見つめた。そして、ようやくすべての火が消えたところで――。
ゴオオオォォォ―――
地鳴りのような音が鳴り響き、次の瞬間、祭壇を揺らすほどの大風が吹き抜けた。
風はまるで巨大な飛龍のような勢いで天に上った。土ぼこりを巻き上げ、大地を揺らす。
しばらく祭壇の周りを旋回した大風は、耐えられなくなった葉月が身をかがめたところで、その場の空気を巻き込みながら一気に去っていった。
「間に合った……」
葉月はホッとして顔を上げた。しかし次の瞬間、目を見張る。
さっきの暴風が嘘のような静寂の中、ひとつの松明から赤々とした炎が燃え上がっていたのだ。それは消え残った火が風に煽られて、再び勢いを増した姿だった。
あの火が万が一倒れてきたら――。
言葉よりも先に体が動いていた。一目散に松明のもとに駆け寄る。
――また、風が来る。
薄闇に浮かぶ明るい炎の先を捕まえたと同時に、次の突風が葉月を包み込んだ。
祭壇が左右に大きく揺れ、葉月の体は息もできないくらいの突風によって、祭壇の向こう側へ勢いよく投げ出された。
――落ちる!
とっさに伸ばした手は、運よく祭壇の柵に引っかかった。
「葉月!」
子草の焦った声がした。慌てて右手でしっかりと柵を抱えたけれど、足は完全に宙に投げ出され、燃える松明を持つ左手も宙に浮いていた。
考えるよりも先に体が動いてしまったけど、これからどうしたらいいのか、まったくわからない。
「葉月、松明を離せ」
頭上から子草の声が聞こえた。声を信じて手を離す。ドサリと松明が落ちる音と、消火に取り掛かる人の声がした。
「左手を上げろ。持ち上げるぞ」
指示を出す子草の声が遠くから聞こえたけれど、頭は朦朧として、体は鉛のように重く動かなかった。
ごめんなさい。ちょっと体を持ち上げるのは無理っぽい。左手も上がらない。もう、諦めていいかな。かろうじて柵を掴むこの手を離したら、すべて終わるのかな。異世界に来て一年。振り返ってみると、本当に大変だった。でも、最後はそれなりに楽しかった。
……子草さん、陽明課長、鳳月長官、それから、死神さんも。
「ごめんなさい、ありがとうございました」
小さく呟いて意識を手放そうとしたところで、葉月の耳に心底呆れかえった特大級の嘆息が届いた。
「まったく何をしているんですか。手を放しなさい。――ハヅキ」
低音の心地いい声に、なんだか泣きたい気分になった。
葉月の瞳から一粒の涙が零れ落ち、同時に柵を握りしめていた右手が離れた。