(15)
春分祭という言葉に、ドキッとする。
……ああ、そうだった。一瞬忘れていたけど、天気を読み違えてしまったんだ。
鉛を沈めたような感情がよみがえる。一気に気分が沈み込んで、はあ……と深いため息を吐く。
それでも、珍しく気遣うような言葉をかけられたからか、葉月は素直に答えていた。
「実は、空読みを違えてしまったんです。春分祭は晴れる予想だったんですけど、天気の流れが変わって、雨が降りそうなんです」
「空読みなんて、そんなものでしょう」
さらりと流されたのが、なんだか悔しかった。
『空読みなんて外れるもの。お前の予報とやらは当たらない』
傘売りをしている時に、何度も言われてきた。いつもは右から左へ流していたし、スルー能力だって身についたはずだ。それなのに、なぜかこの時はそれができなかった。
「瑚珀長官にとってはそんなものかもしれませんけど、私にとってはすごく重要なことだったんです……」
ああ、ダメだ。これ以上は言わないほうがいい。そう思ったけれど、一度あふれ出した気持ちはもう止まらなかった。
「ようやくこの世界で仕事を任せてもらって、初めて認められて嬉しくて……。それなのに肝心な時に、こんなことになるなんて。みんなの期待に応えたかったのに、期待に応えられないのが申し訳ない。なんとかしようとしたけど、ひとりじゃ上手くできなくて、そんな自分が情けない」
俯く葉月の視界がぼやける。気持ちを吐き出すと同時に、涙もこみ上げてしまったのだ。
どうして、こんなことまで言っちゃったんだろう。監視している男にこんな姿見られたくないのに、今だって侵略者扱いされたばかりなのに。それなのに、どうして……。
猛烈に後悔しながら唇を噛みしめていると、ふいに低く静かな声が鼓膜を揺らした。
「誰だって、そうですよ」
「……えっ?」
「仕事が自分の思い通りにいくなんて、そのほうが珍しいくらいです」
そっと視線を上げたが、男はこちらを見ることなく、淡々と菜を口に運んでいた。
……もしかして、慰められた?
いや、この男に限って、そんなことはありえない。
でも、いつの間にか、沸き上がる涙は止まっていた。
「あの……長官も、仕事で上手くいかないこととかあるんですか?」
ふいに尋ねた問いに、瑚珀がピクリと眉を持ち上げる。
「上手くいくかいかないかじゃなく、上手くいかせるんですよ」
……なるほど。力技で持っていくってことか。
さすが、みんなが恐れる極悪死神刑部長官。
男の一言で部屋の空気がガラリと変わる。急に走った緊張にごくりと喉を鳴らせば、気づいた瑚珀が尋ねた。
「私が怖いですか?」
「いっ、いえ、怖いなんて……」
「あなたは嘘を吐くのが下手ですね」
どうやらバレバレだったらしい。
「別に怖いと言われるのには慣れています。今更気にはしません。この手で何人もの罪人を墓場へ送ってきましたから」
蒸した鶏肉を食べながら淡々と言った男に、背中がスーッと寒くなった。
でもそれは一瞬のことで、男の瞳に浮かんだ孤独の色に胸が締め付けられた。
その瞳の色を、葉月は知っていた。
葉月自身、この世界に来てからずっと一人で傘売りをしてきた。必要とされたこともなければ、認めてくれる人もいなかった。ずっと孤独だった。
この一年、自分自身が何度も浮かべてきた顔に男の表情が重なる。だから思わず言ってしまっていた。
「仕事だから、しかたないんじゃないですか。誰かがやらなきゃいけないことです」
後から、なんであんなことを言ってしまったんだろうと思った。もしかすると、自分が彼の言葉で慰められたから、相手にも返したくなったのかもしれない。
その後、会話が続くことはなかった。無言のまま食事を終え、席を立つ。
この屋敷に来て、すでに十日くらい経った。時間が合えば一緒に食事をして、多少会話をしたりもする。
それでも、この男が何を考えているのかさっぱりわからない。
侵略者扱いしてきたり、詐欺師扱いしてきたり。何度違うと否定しても、こちらの意見を聞く様子はない。それなのに、急に慰めるような言葉を掛けてきたりして……。まったくもって意味不明だ。
葉月は厨房を覗いて「ごちそうさまでした」と声を掛けた。
料理を作ってくれた侍女が、少し慌てた顔で椅子から立ち上がって礼をする。こちらもペコリと返して部屋を出ようとしたところで、呼び止められた。
「結果は最後までわかりませんよ」
やっぱりこの男が何を考えているのかわからない。
でも彼に言われた言葉は、葉月の心に深く残った。
*
泰京の空には鉛のような厚い雲が立ち込めていた。生ぬるい南風が不穏な空気を運ぶ。春分祭が行われる日壇は、皇城から東に進んだ所にあった。
日壇またの名を朝日壇ともいう。太陽神を祀った場所だ。
敷地の西側から神道が伸び、中央の祭壇へと続く。神道から現れた皇帝が祭壇に登って、祭祀を行うというわけだ。
今は礼部の官吏たちが、祭壇や神道に添えられた篝火の最終補強をしていた。
「なんだか降りそうですね」
突然の声にドキリとして振り返る。視線の先には、礼部長官鳳月が初めて会った時と変わらない柔和な微笑みで立っていた。
笑顔の裏で相当お怒りだろう。目を見るのはさすがに怖くて、葉月は深々と頭を下げた。
「すみません。おそらく夜には降り出すと思います」
悄然とうつむく肩に、そっと手を置かれる。
「空読みに絶対はない。初めて会った時に、あなたが言った言葉です」
「そうですけど……」
「気にしないことです。可能性を踏まえて、私と陽明で決めたことです」
今朝も陽明は相変わらず飄々としていた。その姿から事の重大さは感じなかった。でも、初日に「春分祭を失敗したら、首が飛ぶ」と言った彼の言葉は嘘ではないだろう。
それに輪をかけるように、いつもは辛らつな言葉を浴びせる鳳月までもが優しい言葉をかけるなんて。
――それだけ、状況は深刻ということだ。
「本当にすみません。最後まで、できる限りのことはしますので」
「大丈夫です。私のあなたに対する評価は、まったく変わりませんよ」
ニコリと微笑むと、鳳月は黒色の衣の裾を揺らして去っていった。
……なんだかなぁ。あんな目をされるなんて、まいったな。
今見た鳳月の瞳を思い出す。それは口は笑っていても目だけは笑わない男が初めて見せた、穏やかな瞳だった。その意味するところは――。
「長官には、すでにこの責任を取る覚悟があるんだ」
葉月はため息とともに鈍色の空を眺めた。