(2)
ガーガー。ガーガーガー。
旋回中のカラスとにらみ合って、どれくらいの時間が経っただろう。
漆黒の羽にギョロリとした瞳。刃物のように尖った嘴を大きく開けたカラスは、明らかに「俺の縄張りを荒らすな」と叫んでいる。
ガーガーガー。ガーガー。
……うん。わかる。気持ちはわかる。ホントごめん。
自分だって彼の縄張りを荒らすつもりはさらさらない。寝て起きたら、ここにいただけだ。ここ……それがどこかが問題なんだけど。
足元はふわふわと安定感がないし、体を支える物体はなんだか頼りない。ここが地上じゃないのはなんとなくわかるけど、さっきから怖くて下を見られない。
……たぶん、ここ空中だよね。
そんなことを思いながら意を決して辺りを見れば、葉月は木でできた巨大な十字型のオブジェに、身体をくの字に曲げた状態で引っかかっていた。
地上までは五メートル以上ありそうで、恐怖からヒッと声が漏れる。
「ひえぇぇぇ、やっぱり見るんじゃなかったぁぁぁ」
泣きそうになりながら視線を宙に戻して、木の柱にしがみつく。
……なぜ、どうして、こんなものに引っかかってるの? しかも、どうやってここから下りればいいの???
猿のように柱を伝ってスルスル降りるのは無理そうだし、かといって飛び降りる勇気なんてない。どうやらここは丘の上みたいで、助けを呼びたくても辺りに人の気配はない。
「どうしよう……。それにしても、どうしてこんな状況になったんだっけ……」
少しでも恐怖心を和らげようと、天を仰ぎながら、葉月は直前のことを思い返した。
「たしか、飛行機に乗ってたんだよね……」
さっきまで葉月は中国行きの飛行機に乗っていた。窓側の座席に座り、離陸と同時に会社の先輩に「これだけは覚えておけ」と渡された中国語メモを読んでいたのだ。
『不要……いらない。謝謝……ありがとう』
とりあえずとばかりに呟いたけれど、元々語学は得意じゃない。案の定、すぐに眠気に襲われた。
そして目を閉じて……。
そこで葉月の記憶は途切れている。
「じゃあ、ここは中国ってこと?」
首をひねって呟いたところで、丘を登ってくるひとりの男に気がついた。
漆黒の髪に漆黒の瞳。すっと通った鼻筋に、薄く形のいい唇。恐ろしく整った顔の男だった。ちなみに服装は足首まである黒い衣。
……なんだか時代劇っぽい。というよりも、中華っぽいのかな。
そんなことを考えているうちに、男が葉月の前に辿り着いた。刃物のように鋭い視線がこちらに向かう。
……なんか、すっごい睨まれてる気がする。
それでも、とりあえず声をかけてみようと思い「すみませーん……」と言ってみる。けれど、男の表情が和らぐ気配はない。
……あっ、もしかして言葉が通じていないのかも。
「えっ、エクスキューズミィ……?」
語学力がないのがバレバレだけど緊急事態だ。下を見るのも恐ろしかったが、引きつりながら笑顔も作ってみた。
けれど、冷たい表情はピクリとも動かない。
……この国際化の時代にあって英語もダメ? いや、自分の発音がダメなのかも。とりあえず、ここは中国語でなにかを話しかけなくちゃ。
そう思ったところで、会社の先輩に教えてもらった中国語が頭に浮かんだ。たしか――。
「ブーヤオ」
声に反応して、男が眉をひそめた。こちらに向かって何かを話しかけてきたけれど、何を言っているのかさっぱりわからない。
首をかしげる葉月に、男は呆れたと言わんばかりにこめかみを揉みこみ、一緒に来た若い男と何かを話し出した。
……本当、なに言ってるか全然わかんないんだけど、どうしよう。
ここがどこかわからない不安。助けてもらえるかわからない不安。今の状況を説明できない不安。改めてここが巨大オブジェの上だということに、葉月の体は恐怖で震えた。
とにかく、一刻も早く助けてほしい!
そんな心の叫びが聞こえたのか、男が切れ長の瞳を向けた。
「ブーヤオマ?」
……今、ブーヤオって言った?
知っている言葉を投げかけられたことが嬉しくて、葉月はコクコクと頷きながら「ブーヤオ、ブーヤオ」と繰り返した。言葉が通じたことに、知らずと安堵の息が漏れる。わずかに冷静になった頭で、ブーヤオの意味を思い出す。
……そういえば、ブーヤオってなんだっけ。メモ用紙に書いてあった意味は――。
●不要----意味:いらない
……そうだ。ブーヤオはいらないだ。
「ブーヤオ、いらない。ブーヤオ、いらない」
そうして何度か呟いてから、はたと気がつく。
……ちょっと待って。この状況でいらないって、助けがいらないってこと!?
「ちっがーーーう。違う、違う、いらないんじゃなくて、いるんです。助けがいるんです。NOブーヤオ、NOブーヤオォォォ」
最後は半分絶叫していた。中国語と英語と日本語がミックスしていたけれど、気にしている余裕はまったくない。
葉月は全身全霊、身振り手振り総動員で下ろしてくれと喚きまくった。
暴れた反動で黒縁眼鏡が落ちそうになって慌てて押し上げ、バランスを崩して頭から落下しそうになって咄嗟に木の柱を抱える。そして、なんとか体勢を立て直したところで、自分に向かう冷めた視線に気がついた。
葉月の一挙一動をずっと見ていたらしい。無表情で見上げていた男は、目が合うなり冷たく笑った。
ぞわり――。
足元から頭のてっぺんに向けて、今まで感じていたものとは違う震えが駆け上がる。どう見ても、眼下にある冷酷な笑みには善意の欠片も見当たらない。
悪代官……。いや、そんな生ぬるいもんじゃない。表情が読めない笑いとでもいうか、人間らしさがないというか。
……そうだ、死神だ!
死神に十字架。って、これじゃ、本気で処刑人だ。
自らの首が死神の大鎌で切られる様子が目に浮かんで、葉月はもうどうにでもなれと渾身の力で足をばたつかせた。
……この際、落ちても怪我してもいいから、この状況から抜け出してやる!
その一心で空中を蹴り続けた葉月の上半身は、木の柱からするりと抜け落ち、そのまま地面に向かって勢いよく落下した。
途中で掛けていた眼鏡が外れたけれど、かまっている余裕なんてない。次に来る衝撃に身構えて、ギュッと目をつぶる。
――しかし、予想したような痛みはやってこなかった。
恐る恐る目を開ける。ぼんやりとした視界の先にあったのは、超絶美貌男の無表情な顔。下を見れば、葉月の体は男の腕にしっかりと抱き留められていた。