(12)
そんなことを考えながら女官たちの後姿を見送っていると、いつの間にか隣に陽明が立っていた。
「ねえ、葉月。どうやって明後日雨が降るってわかったの?」
「あっ、それは雲を見たんです」
「雲?」
――はい、と頷いて、眼鏡を押し上げながら空を見る。
「今日の雲は刷毛で掃いたような雲です。これは雨雲が近づいた時、一番はじめに現れる雲なんです。この雲が現れたら、一日半後くらいに雨雲本体が近づいて、雨が降ることが多いんですよ」
空を見ながら説明を聞いていた陽明の視線が、ゆっくり葉月に移る。
「なるほど。さすがだね、葉月」
この世界に来てから、けなされることは山のようにあったけど、褒められることはほとんどなかった。だから褒められるのは、なんだか恥ずかしい。
しかも、褒められるのが久しぶりすぎて、こんな時にどう反応したらいいのか忘れた。昨夜耳元で囁かれたことも思い出して、そっと距離を取る。
「いえ、これは簡単な観天望気です。それから、あんまり葉月葉月って呼ぶの、やめてください」
「どうして?」
どうしてって、ファンの方々に変な誤解を与えたら……。そう言おうとして、自らの容姿を思い返す。
黒縁眼鏡に手入れしていない髪。眉毛はボーボーで、しかもすっぴん。変な誤解なんて生まれるわけがない。
「えっと、言われ慣れていないので……」
「じゃあ、これから慣れればいい。子草だって、よく呼んでいるし」
……そうだっけ。
いつも「おい」とか「お前」とかしか、呼ばれていない気がする。
コクリと首を傾げたところで、背後から肩を掴まれた。横目で見れば、ニヤニヤと笑う子草が顔を覗かせている。
「葉月ちゃーーーん」
「子草さん、急にどうしたんですか?」
「言われ慣れないみたいだから、呼んでやったんだよ。は・づ・き・ちゃん」
しゃがれた猫なで声で言われて、ブルッと身震いする。
「子草さん、呼び方がなんか怖いんですけど。……というか、離れてください。ちょっと近いです」
「お前、俺と課長で態度が違わないか?」
「えっ……、同じですけど」
「いや、違う。全然違う」
首を振った子草の頭から、フワリと何かが舞った。思わず吸い込んでしまい、激しくむせる。たぶんこれ、ホコリとかフケとかといった類だ……。
「ちょっと、子草さん、最近いつ頭を洗いましたか」
「えっと、昨日、一昨日、その前と……」
指折り数えだした子草から距離を取る。これで一週間とか二週間とか言われたら最悪だ。
「ああ、二週間だ」
「……滅びろ」
「えっ?」
「いえ、とにかく課長と違うとすれば清潔感です。とりあえずお風呂に入って、頭洗ってください。ついでに、その無精ひげも剃ってください!」
「なんだ。このひげがワイルドでいいんじゃないか。大人の男って感じでセクシーだろ」
……ワイルド? セクシー?
いやいや、何かを思いっきり勘違いしている。でも、とりあえず今は頭だ。襤褸衣を着ていた自分に言われたくないかもしれないけど、それでも頭と体だけは洗うようにしていた。最低限の清潔は大事だと思う。
顎ひげを撫でながら「しかもだな……」と語り出した子草に、葉月はわざとらしくふむふむと頷いた。
「うん。わかりました。後は、お風呂に入ってから聞きましょう」
「お前、聞く気ないだろ!」
「いえ、聞きますよ、もちろん。でも、とりあえず、今は失礼します」
ペコリとお辞儀して、歩き去る。後ろで子草が何かをまくし立てていたけれど、振り返らなかった。
とにかく、今はうがいだ、うがい。
いったい何を吸い込んでしまったのか考えると、ちょっと……いや、かなり怖い。
*
その後、皇后様御一行は雨に当たらず、無事、玉淵潭に着いたらしい。
帰ってきた女官たちに「着いたと同時に雨が降り出して、空読みの通りでした」と興奮気味に言われて、葉月はホッと胸を撫でおろした。
「それで、これ……あの……手紙なんですけど」
女官の一人から手紙を渡される。裏返すと、そこにはしっかり『陽明様へ』と書かれていた。どうやらラブレターの類らしい。
いったい、あの男、何枚もらえば気がすむんだ。
「じゃあ、陽明課長に渡しておきますね。それにしても、どうしてあんな掃き溜め課の課長がいいのかな……」
思わず口から出てしまった葉月のつぶやきに、女官の一人が「掃き溜め課?」と首を傾げた。
「あっ、ごめんなさい。ほら、呪術祠祭課って、いつ左遷されてもおかしくないくらい仕事がない課でしょう。そんなところにいる官吏なんて将来性ゼロ。才色兼備な女官さん達が相手にするわけ――」
そう言った葉月の言葉は、猛然と首を横に振る女官たちに阻まれた。
「それ、完全な誤解です!」
「陽明さまは、翰林院の出でいらっしゃいます」
「将来の職を約束されたも同然です」
……翰林院? 将来の職を約束された?
「えっと、ごめんなさい。内城について詳しくなくて。翰林院って何?」
「えーーー!? 翰林院をご存じないんですか?」
苦笑いで肯定した葉月に、女官の一人が翰林院について説明してくれた。
翰林院とは、書物の編纂、詔書の起草などを行う、いわば皇帝直属の秘書室のことだ。
国家官吏試験の上位合格者などの有益な才能は間違いなくここに配属され、勉強や実習の見習いをしてから、必要があるときに中央官庁や要職に任命される。
つまり、天藍国の学問や政治の最高人材がそろっている場所らしい。
つい数年前まで、陽明もここで見習いをしていたとのことだ。
「つまり、陽明課長って選良?」
「選良なんてもんじゃありません。選良中の選良です」
「もしかして、将来を嘱望されていたのに陛下の不興を買うとか、なんかいけないことをしちゃったの?」
「いえいえ。その才を認められて、鳳月長官に引き抜かれたという話です」
「その割には、毎日暇そうだよ」
「それはきっと、鳳月長官に何かお考えがあるのではないでしょうか」
「……鳳月長官に考え?」
礼部長官室で小躍りする二人の姿を思い出す。
あれは考えがあるというよりも、事なかれ主義男が使いやすいだけに見えたけどなぁ。
というか、チャラくて事なかれ主義なのに、実はエリート中のエリートだなんて全然結びつかないんだけど。
その後の会話は、ほとんど頭に入らなかった。
最後に「手紙はしっかり渡す」と約束して、彼女たちとは別れた。