(10)
廊下の先から一人の男が現れる。
闇に溶けるような黒色の衣に、作り物のような秀麗な顔。
「……シニガミ」
ポツリと呟けば、声に反応して瑚珀が眉を持ち上げた。黒衣の裾を揺らして、ゆっくりと近づいてくる。
どうしてこの男がここにいるんだろう。と冷静に考えるよりも早く、男は葉月の前でピタリと足を止めた。
スラリと伸びた指が葉月の耳元に伸びる。
「色仕掛け中でしたか?」
混乱と動揺でフワフワしていた葉月の心が、一瞬で現実に戻される。
「えっ、色仕掛け?」
……それって、まさか自分が色仕掛けをしていたってこと?
「そんなの、してません!」
慌ててそう言って、指から逃れるように一歩後ろに下がる。
……どうやらさっき課長が耳元で囁いていったのを見てたっぽいけど、あれのどこが色仕掛けに見えたんだ? ただからかわれただけだし、こっちは何もしていない。第一、色仕掛けをしたところで、あのチャラ男課長に通じるとは思えない。
もしかしたら、自分のことを不審者だと疑うあまり、この男の脳内に不審者フィルターがかかっているのかもしれない。
「まさか、あなたの色仕掛けが通用するとは思いませんでした」
「だから、色仕掛けなんてしてません。さっきのはからかわれただけです。向こうが勝手に近づいてきて、私は何も……」
「向こうが勝手にですか、詐欺師の常套句ですね」
「はっ?……詐欺師?」
……詐欺師って、まさか人を騙してお金を盗んだりするあれのこと?
いやいや、ちょっと待って。それはない。それはないと思うよ。というか、さっきから、違うって言ってるのに、どうしてこの男には話が通じないんだよー!!
もし、そこに机があったらバンバンと叩きたい気持ちになった。けれど、そこに机はない。冷たく笑う死神男がいるだけだ。
色仕掛けの次は詐欺師ときた。この男の凝り固まった頭には何を言っても通じないらしい。一生懸命訴えても、伝わるどころか明後日の方向から言葉が返ってくるのだから。
酔いも手伝って、葉月はぶっきらぼうに言った。
「もう、この際、詐欺師でもなんでもいいですよ」
「詐欺師とは認めるんですか」
「認めていませんけど、とにかく、もうどうでもいいです。それよりも、どうして長官がここにいるんですか? まさかこれも監視ですか?」
「そうです。と言いたいところですが、こちらも私用がありましてね」
「じゃあ、戻らないといけないですよね」
プイッと顔をそむけて、黒衣の脇をすり抜ける。さっきまでの楽しい気分はゼロ。さっさと飲みの席に戻ろうと思ったのだ。
けれど、すっかり酔っ払っていて足取りが覚束ない。相手を避けて通りすぎたつもりが、すれ違う瞬間、肩同士がぶつかってしまった。
「うわっ……」
平衡感覚を失った体がグラリと揺れる。思いっきりつんのめって転びそうになった体は、寸でのところで伸びた腕に支えられた。
目の前にあるのは黒衣の袖。
不覚にも、助けられてしまった。
「あなた、酔っているんですか」
「……ダメ、ですか」
啖呵を切ったすぐ後に助けられるなんて、気まずすぎる……。
そろりと視線だけで見上げたら、見下ろす男の眉がピクリと持ち上がった。
「行きますよ」
「……えっ、行くってどこにですか?」
「私たちの家にです」
……私たちの、家?
「あのー、いつから私は長官の家の人になったんですか」
「昨日からです」
……いや、それは家の人じゃなくて、監視という非人道的な行為です。
と、思わずツッコミを入れそうになったけれど、腕を引かれて葉月の体はぐらりと揺らいだ。
「フラフラですよ。どれだけ飲んだんですか」
「ちょっとだけですよ」
「少しでこんなになるなら、酒を飲むのはやめることですね」
そうはいっても、異世界に来てからお酒を飲んだのはこれが初めてなのだ。少しくらい羽目を外してもいいだろう。
そう思ったけれど、何も言えないまま。フラフラの体は、伸びた腕に再び支えられてしまった。
……えっと、これはまさか一緒に帰るのか? それは、丁重にお断りしたいんだけど。
「あの、今、呪術祠祭課の人たちと飲んでいたんです。戻らないと」
「私の部下に言いに行かせますから、問題ありません」
「そういえば、長官は用事があるんじゃ」
「もう終わりました」
「それから厠へ行こうと」
「途中で寄りますよ」
「……」
さすが刑部長官。こちらの逃げ場を、間髪入れずにすべてバッサリと断ってきた。
チラリと見上げたけれど、男の視線は廊下の先に向かったまま。こちらを窺う様子はまったくない。
どうやら一緒に帰る以外の選択肢はないらしいことに、葉月は諦めて歩き出した。
……朝はこの男の情婦に間違われたから、一緒に帰るのは遠慮したかったんだけどなぁ。……まあ、酔っているからしかたがないか。
心の中でそう言い訳して、葉月は男と共に妓楼を出た。
ちなみに、初めのうちは肩を支えられていただけだったが、屋敷に着くころにはフラフラすぎてほとんど抱えられていた。抱えられるというか、正確には横抱き状態だった。
その状態のまま出迎えた侍女にお辞儀をすると、彼女は無表情から一転、天地がひっくり返ったかというような顔で固まった。
どうやら、いつも無表情を崩さない侍女が驚きを露にするほど、横抱きはイレギュラーな事態だったらしい。恐ろしすぎて男の顔は見られなかった。
これもすべて、酔っ払っているからしかたがなかった。……ということにしておこう。