(9)
セーブしたつもりが、けっこう飲んでしまったらしい。厠へ立った葉月は、ふらつく自分の体を自覚していた。
「あー、体が揺れる。なんか、すんごい飲んじゃったかも」
火照る頬を少しでも冷まそうと、中庭に出て夜風に当たる。
紅い提灯が風で揺れ、廊下の向こうから男女の笑い声と楽の音が風に乗って流れてきた。
異国風の音色も人の笑い声も、これまでは少し苦手だった。その中に入れない自分をいやでも自覚してしまって――。でも、今日はそんな風には感じない。
「たのしいなぁー」
この世界に来てから、そんな風に思ったのは今日が初めてだ。
鼻歌交じりで中庭から建物内に戻り、廊下をスキップする。しかしニコニコ顔で歩いていた葉月の足は、数歩進んでピタリと止まった。
薄暗い廊下の先で、艶やかな装いの妓女が男の首に手をかけていたのだ。
「陽明、今夜こそは泊っていって」
麗しい瞳を潤ませて男を見上げているのは、先の妓女牡丹。そして視線の先の男は、もちろん爽やか笑顔の陽明だった。
「んー、まだ仕事が残ってるんだよね」
「なあに、つれないのね。でも、春分祭までひと月ないものね」
「うーん、それもあるんだけど……、色々忙しくてさ」
「まあ、あなた、いつも忙しい忙しいで、いつになったら暇になるの?」
……あれ? 課長って忙しかったっけ?
そう思ったけれど、すぐに納得する。
……ああ、これは牡丹さんなりの皮肉なのかも。課長が忙しいとするなら、私生活のほうだ。
「とにかく、今日は無理なんだー」
困ったように笑う陽明を、牡丹は詰るよう見上げている。しかしその笑顔が変わらないことを察すると、白くふくよかな手で男の頬を挟んだ。
「しかたがないわね。じゃあ、今夜はこれで我慢してあげるわ」
ニッコリ笑うと、牡丹は紅が取れるのもかまわず男に口づけした。
その一部始終を見てしまった葉月は、数メートル手前で完全に固まっていた。
……ちょ、ちょっと、こんなところでキス!? どこの世も美男美女はやることが違う。正直、見ているほうが恥ずかしくなる。
おーい、美男美女さーん、とりあえず場所を考えてくださーい。
そんな葉月の心の声が届いたかのように、陽明の視線がこちらに移った。牡丹の頭髪越しに覗いた瞳がキラリと光る。
……うそっ、目が合った!?
えっと、これはのぞき見じゃないですからね。たまたま偶然ですからね。そして、即行立ち去りますから。見たことすら忘れますからね!
心の中で思いっきり弁解しながら体を反転させる。そして、フラフラの体を叱咤して、勢いよくその場を後にした。
「いやー、恥ずかしい。恥ずかしかった……」
回廊を曲がった先で、葉月は赤らむ頬を両手で挟んだ。
別にこちらが恥ずかしくなることはまったくないのだが、あんな濃厚キスシーンを近くで見せられて素面でいるほど、葉月の経験値は高くなかった。
ちなみに、何事もないようにその場を通り過ぎるという上級テクは持ち合わせてはいない。
しかも急に走ったからか、一気に酔いが回った気がする。覚束ない足取りで歩きながら、さっき見た陽明の視線を思い出す。
「というか、普通、あんな廊下のど真ん中でキスなんてする?」
「あんなど真ん中でキスしてごめんね」
えっ……と思って振り返る。
そこには濃厚キスシーンの片割れが欄干に肘を預けて立っていた。
藍色の衣の胸元が少しはだけ、無駄な色気を放っている。相変わらず顔には百点満点の笑みが浮かんでいたが、そこにいつもの爽やかさはなかった。
「まさか、葉月に見られるなんてね」
「えーっと、何も見ていませんし、忘れました」
「忘れたって、それ見たってことだよね」
……思いっきり、墓穴を掘ってしまった。
「いや、あの、全然見るつもりはなかったんです。たまたま通りかかっちゃって……」
自分の失言に気まずくなりながら相手の顔を見ると、その口元には真っ赤な紅がついていた。おそらく牡丹とのキスでついたのだろうが、恋愛偏差値ゼロの葉月には刺激が強すぎた。
……そんな所に口紅なんて、つけておかないでください。反応に困ります!
思いっきり視線をさまよわせて明後日の方向を見る。その様子に何を感じたのか、陽明がクスリと笑いながら近づいてきた。
「葉月って面白いなぁ」
「いっ、いえ、全然面白くありませんので」
間髪入れずに否定して、半歩後ろに下がる。しかし、それを逃さないとでもいうようにさらに近づかれた。
すれ違いざまに、耳元で囁かれる。
「そんな無防備な反応していると、悪い男に引っかかっちゃうよ」
…………えっ?
一瞬何を言われたのか、わからなかった。瞠目したまま固まっていると、そんな葉月にカラカラ笑って、陽明は楽しそうに去っていった。
後に残されたのは葉月ひとり。しばらく呆然としてから、ふと我に返る。
「なに、今の……」
……からかわれたっぽいのはわかる。問題はその内容だ。悪い男に引っかかっちゃうよーとか言われた気がするけど、すっかりキャパオーバーして、返事のひとつも返せなかった。
しかも、グイグイ近づかれたけど、あれはイケメンの普通なのか? チャラ男の常識なのか!?
とにかく、言いたいことはただ一つ。
「あんなところでキスするほうが、どうかしてるからーーー!!」
どうせ誰もいないだろうと思って、葉月は思いっきり叫んだ。
――と思ったら、いた。しかも予想だにしない男が。