(7)
どれくらい眠っていただろう。ふいに柔らかい琴の音色が耳をかすめ、意識が浮上した。
……低くて、のびやかで、優しい音。なんだか癒される。
目を開けると、ぼんやりした視界の先に、琴を弾く瑚珀の姿があった。
長いまつげが頬に影を作り、漆黒の髪がふわりと揺れる。燭台の灯りに照らされたその姿は、どこか人間離れしていた。
しばらく魅入られてから体を起こす。男の弾く楽器をよく見ると、それはこの国では珍しいギターのような低音の琴だった。棹の先には馬の形の彫刻が施されている。
その楽器を、葉月は子供のころ本で見たことがあった。たしか――。
「――バトウキン?」
呟いた瞬間、優しく響くその音色がピタリと止んだ。
「この楽器を知っているんですか?」
「昔、何かの本で見たことがあります」
「あなたの世界にも、この楽器があるということですか?」
世界と言われたことに驚きながら、葉月は頷いた。
闇色の瞳にじっと見つめられる。その瞳は深い海の底のように暗く静かだった。
「あなた、名前は?」
どうして名前なんて聞いてくるんだろう……。
そう思ったが、すぐに思い出す。そういえば、出会ってから一度もこの男に名乗ってなかった。
小さな声で「葉月です」と答えると、一拍の間を置いて、低く静かな声が耳に届いた。
「――ハヅキ」
言われた瞬間、心臓が不穏な音を立てた。その呼び方にわずかに温もりようなものを感じてしまったからだ。ふと処刑台から落ちた自分を助けてくれた手の温もりを思い出す。
……あの時の温もりに、ちょっと似てるかも。
そう思った瞬間、脳が警鐘を鳴らした。
……駄目だ、この男に名前で呼ばれちゃいけない。処刑台から助けてもらったには違いないけれど、あの時と今とでは状況が全然違う。今は自分を不審者扱いして監視している男だ。気を緩めちゃいけない。隙なんて見せちゃいけない。
「今まで通り、あなたでいいですよ」
必要以上に口をツンと尖らせて答える。そんな葉月をしばらくの間じっと見つめてから、瑚珀は静かに立ち上がった。
「わかりました。明日は内城までの道を教えます」
男が手元の灯りをフッと消す。暗転した部屋の中、窓から差し込む月の光が男の姿を浮かび上がらせた。
どこか人間離れした後ろ姿に魅入られていると、扉に手をかけた瑚珀が一度だけ振り返った。
「逃げるなんて考えないでくださいよ」
それだけ言うと、瑚珀は静かに部屋を出て行った。
男の気配が消えた後、葉月は立てた膝に顔を埋めながら呟いた。
「逃げるなんて考えるわけないじゃん」
相手は血も涙もないという刑部長官だ。たとえ逃げたとしても、すぐに見つけ出すだろう。そして、拷問やら尋問やら恐ろしいことをしてくるにちがいない。
監視されているだけでも寿命が縮んでいるというのに、そんな自爆行為するわけがない。
でも、そんな恐ろしい男に名前を呼ばれてドキッとしてしまった……。
「ああぁぁ。あの声に騙されちゃいけないんだって。相手は極悪死神刑部長官なんだから」
意味不明の叫び声を上げて頭を掻きむしり、それからパタリと布団に倒れ込む。
「とにかく寝よう。寝るしかない」
変なことを考えるのは、きっと疲れているからだ。
もう一回寝たら、忘れるはず……。
そんなことを考えながら、葉月は二度目の眠りについた。
*
翌朝、葉月はすっきりと目覚めた。
昨夜はモヤモヤした気持ちで眠りについたのにまさかの快眠だ。
やっぱり昨日は疲れていたらしい。フワフワの布団でぐっすり寝たら、モヤモヤした気持ちもきれいさっぱり消えていたのだ。
「うーん。よく寝たー」
大きく伸びをして、布団から出る。靴を履いて立ち上がると同時に、円卓の上に布地を畳んだような物が載っていることに気がついた。
近づくと、それは女物の衣だった。
臙脂色の衣を手に取って、目の前に掲げる。
「これに着替えろってこと?」
自らの衣を見下ろす。元の色がわからないくらい煤けて変色した衣は、短装と呼ばれる下層労働者が着る服だった。
しかも「スカートなんて動きにくいもの、穿けるか」と選んだのは、男物のズボン。これが男に間違われた一因なのはわかっているけれど、動きやすいのだからしかたがない。
でもぼろぼろのその衣は、内城で働く国家官吏の中では浮いていた。
「とりあえず、着替えるか。……って、女物の衣の着方なんてわかんないし……」
上を先に着るのか、下を先に穿くのかもわからない。着ては脱ぎ、着ては脱ぎを繰り返したけれどさっぱりだ。しまいには衣を脱ぎ捨て元の短装に着替えようとしたところで、部屋の扉が開いた。
振り返ると、この屋敷の主、瑚珀が立っていた。
……えっ。無言で入室?
一瞬固まってから、慌てて持っていた衣で下着姿の体を隠す。
普通の女子ならキャーという声でも上げるところだが、いかんせん今の葉月は女を捨てすぎていた。悲しことに、口から出たのは下層労働者がお貴族様に向ける陳謝の言葉。
「すみません。お目を汚してしまって……」
「出発の時間ですが、何をしているんですか」
「衣の着方がわからなくて……」
「まさか襦裙を着たことがないんですか」
襦裙っていうんだ……なんて言ったら、視線だけで射殺されそうだ。
「こんな綺麗な衣、着る機会がなかったんです」
ポツリと呟いた答えに、瑚珀は呆れて物が言えないとばかりに盛大に嘆息すると、こめかみをグリグリと揉みながら部屋を出て行った。
代わりに入ってきたのは無表情の侍女だった。無言のまま葉月の前に立ち、機械のように無駄のない動きで襦裙を着せた。
「あの、この衣、どうしたんですか?」
「私が用意しました。出仕するのに短装だと礼に反すると、旦那様がおっしゃっていましたので」
「そうだったんですか」
スーツみたいなものかと納得する。そういえば、官吏の人達、身分に応じた官吏服を着ていた。ボロボロの短装で出仕なんて、本当はいけなかったらしい。
去り際に「ありがとうございました」と言うと、侍女は小さく礼だけして去っていった。悪い人ではなさそうだけれど、フレンドリーなタイプでもないらしい。
犬は飼い主に似るというけど、使用人も主人に似るの……かな。