(5)
漆黒の髪も冷たさを含む切れ長の瞳も、超然的な美貌も一年前のままで……。
葉月の口から思わず呟きが漏れていた。
「シニガミ……」
「シニガミ?」
顔を上げた男が美しいカーブを描く眉を寄せた。そこで、ようやく日本語をしゃべっていたことに気がつく。
まずい。これは非常にまずい。せっかく言語もマスターしてこの国に馴染んだっていうのに、また牢屋に入れられるなんて絶対に嫌だ!
それよりも――。
……刑部長官って、あんただったんかーい!!
内心つっこみつつ、慌てて両膝を床につける。そして、深く深く……それこそ一生起き上がれなくなるんじゃないかというくらい深く、頭を垂れた。
「失礼いたしました。礼部、呪術祠祭課の者です。書類を届けに参りました」
「こちらの机に置いてください」
無機質ながら低く通る声は、たしかに一年前に聞いたあの声だった。当時はこの国の言葉がわからなかったから、初めてこの男の言葉を聞いたことになる。
綺麗な天藍語。丁寧なしゃべり方をする人なんだ。
俺様口調を想像していた葉月はそんなことに驚きつつ、そそくさと目の前の机に書類を置いて、何事もなかったかのように体を反転させた。
目が合ったのは一瞬だったから、一年前の自分だとは気がついていないかもしれない。処刑台から助けてくれた恩人なのは違いないけど、その後、牢屋に入れたのだってこの男だ。
正直、何を考えているかわからない。わからないなら、近づかないのが一番だ。
「では、失礼します!」
勢いよく頭を下げて、歩き出す。けれど、葉月の腕は机の向こうから伸びた手に勢いよく引っ張られた。
「――いだっ!」
黒光りする机に、勢いよく腰をぶつける。脳天まで突き抜ける痛みに背中を大きく反らせると、真上にこの世のものとは思えない秀麗な顔が現れた。
……Oh、神々しい美しさデスね。
というよりも、真顔がかなり怖い。もしかして、これは男色長官に迫られる新人官吏というやつだろうか。
「あの、私はこんなんですけど女です。そっち系は無理ですから」
そっち系って、どっち系だよ。
と、ひとりツッコミを入れながら答える。すると、神の化身のような顔がどす黒い笑顔に変わった。
「そんなことは知っています。あなた礼部にいるんですか。よくそんな所に紛れ込みましたね。外からが無理なら、中からこの国を乗っ取ろうと思ったんですか?」
「……え?」
「色仕掛けもできそうにないし、賄賂も払えそうにないですが、どんな裏技を使って礼部に入り込んだんですか?」
色仕掛け? 賄賂? 裏技?
そこでようやく、自分がこの国に害をなす侵略者扱いをされているのだと理解した。きっと牢屋に入れられた時も、そういう扱いだったんだろう。
なるほど……って納得している場合じゃない。とりあえず、二度目の牢屋行きは避けたい。
背筋は凍り、心臓はキューッと縮み上がる。それでも、葉月は全身を襲う恐怖を必死に隠して、なんでもないことのように言った。
「賄賂も色仕掛けもしておりません。ただ、次の春分祭の天気を予報してほしいと礼部長官直々に依頼されただけです」
「天気……予報」
「あっ、空読みのことです。元々そういう仕事をしていたんです。ちなみにこの国を乗っ取ろうとか、全然思っていませんから。それ以前に、この国を乗っ取ろうとしている人間が食べるのにも困って、この一年でこんなに痩せると思いますか?」
恐怖心が顔を覗かせて、途中から早口になってしまった。
捲し立てたせいでゼーゼーと肩で息をする葉月を、男は探るように見下ろした。
「あなた、どこから来たんですか?」
ここで異世界から来たなんて言ったら自分の身が危ない。とっさにそう判断して、別の答えを考える。
「えーっと、こことは違う国から来ました」
「違う国? 西蔵ですか? 蒙古ですか? 容貌から察すると泰国ですか?」
「えーーーっと、……そうです。泰国です」
「一年前に聞いたあなたの言葉は、泰語ではありませんでしたが。こんな簡単な誘導に引っかかるなんて、間者としては三流ですね」
「えっ……、誘導?」
どうやら、まんまと誘導尋問に引っかかってしまったらしい。しかも、間者としては三流というお墨付きまでいただいた。
……いや、間者じゃないから、お墨付きをもらっても困るんだけど。
それよりも、どう考えても尋問なんてお手の物の刑部長官相手に、敵う気がしない。しかも降り注ぐ視線は、嘘のひとつも許さないとばかりに冷たく突き刺さってくる。
正直、どうやってこの状況を抜け出したらいいのか、さっぱりわからない。
とりあえず口元に笑みのようなものを浮かべてみる。対する男の顔は少しも和らぐ気配がないどころか、瞳はさらに鋭さを増した。
「どこから来たんですか」
……なに、これ。噂より、めちゃくちゃ怖いんだけど!
一切温度を感じさせない声に、体がブルリと震える。顔から血の気が引き、背筋に冷たい汗が流れ落ちる。そして、恐怖で半ばパニックになった葉月は、もうどうにでもなれと口を開いた。
「すみません。実はこの世界とは違う世界から来ました。でも、どうして来たのかは私にもわかりません。気がついたら、あの処刑台に引っかかっていたんです。本当です。信じてください!」
恐怖で震える体を叱咤して、まっすぐ見上げる。指の先まで震えが来たけれど、手のひらをギュッと握りしめて耐えた。
互いの視線がぶつかり合う。しばらく無言で視線を合わせてから、男は静かに頷いた。
「とりあえず、信じることにします」
「……へっ?」
「これでも嘘を見分けるのには慣れています。今のあなたは、嘘を言っているようには見えませんでした。泰国から来たと言った時は、完全に嘘をついている顔でしたが」
どうやらすべてお見通しだったらしい。さすが刑部長官。嘘なんて絶対に許さない。逆らったりした日には、即刻断罪されそうだ。
「ところで、天藍語がずいぶん上達したようですね」
「生きるために必死に勉強しました。とにかく、全然怪しい人間じゃありませんので。一年前は多大なるご迷惑をおかけして、誠に申し訳ございませんでした。現在はこのように慎ましく、真面目に生きております。礼部長官からは重要な仕事も任されていますので、もう牢屋には入れないでください」
限りなく低姿勢で言うと、掴まれていた手は離された。
「わかりました。牢には入れません」
葉月の体から一気に力が抜ける。へなへなと腰が砕け落ち、放心状態で「助かった……」と呟く。
しかし、間を置かずに「ただ――」と付け加えられた言葉に、葉月は頭上に雷を落とされたような衝撃を受けた。
「これからは、私の家で監視させてもらいます」
……。
…………。
監視って、なんですかぁぁーーー!?