ep04
布巾越しに額へ乗せられた氷嚢が、寝返りにつられてチャプチャプ揺れた。
「お目覚めになられましたか、お嬢さま。お加減はいかがです? 何か甘い物でもお持ちしましょうか」
今年から側仕えになったリタが、静かに枕元へと近寄って、優しく抑えた声音で話しかけてくる。
どちらかというと普段は威勢のよい彼女がしおらしく接してくれるのは、こちらの不調に合わせてくれているのだろう。
「おみずがいい」
「かしこまりました」
差し出されたグラスの冷たさが気持ちいい。
ソニアは珍しく体調を崩して寝台に臥せっていた。発熱の理由はわかっている――心因性、とどのつまりストレスだ。
心機一転、現実を知るべく向き合ったところで、直後、想定外の事実にぶち当たった。
悪役令嬢に敷かれた破滅ルートを免れるには、状況悪化の回避が定石と考えた。
そのためにまず、仮想ストーリーを時系列で把握することから始めようと思ったのだ。
だが、定番の舞台が世界に存在していなかった。
何歳で上京し入学するか知りたかっただけなのに、上京先に学び舎がないとはどういうことか。
ふう、と息を吐いて枕に背を投げる。また熱の上がる思いがした。
「お嬢さま。もしお体が許すようでしたら、一度お着換えになりませんか」
大分、汗をかいていらっしゃるでしょう?
リタの声掛けを耳にした途端、全身がベトベトしたように感じて不快になる。
「うん……着替えるでござる」
ぽつりと呟いただけの返事に、リタがホッとして顔をほころばせる。
「どうかしたでござるか?」
「いえ、いつもの口調に戻られたので安心しました」
「何か違ってたでござるか……あまり意識していなかったでござる」
キョトンとしている小さな主人に、まだ日の浅い侍女は優しい目を向けている。
「先だって奥さまは、お嬢さまにお言葉遣いを整えるよう仰っていましたが……いえ、勿論、お外では是非そうなさって欲しいのですが……でもこんな時は、いつものお嬢さまらしさがとても嬉しいです」
内緒にしてくださいね、とリタが指を口元に立てて笑うので、ソニアも同じように人差し指を口に当てて頷いた。
「さあ、そろそろおやすみください」
「うん。おやすみ、リタ」
ああ、破滅はいやでござる。
家族も、雇用人も、この優しい人たちを絶対に不幸にしたくない。
微睡む中でそう念じながら、ソニアはもう一度目を閉じた。
熱を出したのはそれっきりで、二日も経てば、ソニアは普段通りに過ごすことを許された。
が、一つだけ、今後の生活に変化が加えられた。
行儀作法の勉強のために、家庭教師を付けられることが決まったのだ。
具体的な社交の準備にソニアは慄きつつも、仕方のないことだと開き直る。これがこの世界の常識なのだから、意思に関係なく身につけておかねばらない。
覚悟を決めたところで、来客の報せが届く。
エントランスに母と並んで玄関ドアが開くのを待つ。ギイ、という重い音が鳴って、一面に眩さが立ち込めた。
「いらっしゃいませ、ようこそおいでくださいました」
大きく開いた戸口から差す逆光をくぐって、羽根帽子の女性が凛とした姿を露わにする。
「お久しぶりですね、テオドラ。そしてソニアも」
「お祖母さま!」
現れたのは父方の祖母、カエルラ前辺境伯夫人だった。ということは、行儀作法の家庭教師というのは……
「その様子だと、わたくしが抜擢されたことまではご存知なかったのかしら」
コロコロと鈴が鳴るように祖母は笑う。その、年齢を感じさせない愛らしい空気に品を感じて、ソニアは見惚れた。
「ご無沙汰しております、サビーナさま。この度は娘のためにお時間を頂戴し、誠にありがとう存じます」
「いいえ、いいえ。可愛い孫のお役に立てるなら、いくらでも使って頂きたいわ。それより、侯爵夫妻を差し置いてわたくしにお鉢が回ってくるなんて、役得に申し訳ないくらい」
一同はサンルームへ移動し、まずは再会を祝してティータイムにすることとした。
だが、文字通りにお茶を楽しむためだけの場ではない。
これが実践的な茶会のデモンストレーションであることを、部屋へ入った直後、母からその場で留まるよう言われて、初めてソニアは理解した。
確かに、離れることで、茶卓を含む室内全体が見やすくなった。
流れを見ろということか。
ふと気になって祖母へと目をやれば、カエルラ前辺境伯夫人はニコニコ笑っている。――だが、きっと笑っているだけではないのだろう。
突然、社交の本質に気付いてソニアはぞっとする。
一歩踏み出した瞬間、その場にいる全員の眼に、計られて、謀られる。
たかが茶会。だが茶会。
女の園、なんと恐ろしい世界だろう。
ソニアの喉がゴクリと鳴ったところで、祖母が、耐えきれないとでもいうように両手で口を覆って吹き出した。
「ウフフフ、もう駄目。お祖母さまの負けね。ソニアの真っ青な顔、愛おしくて仕方ないわ」
「ま、真っ青でござ……いましたか。拙……わ、わたくし」
ソニアがたどたどしく声を返すのを見て、母が頷く。肯定というよりは言葉遣いの判定だ。
母の本気がヒシヒシと伝わって、ソニアの身がまたすくむ。
「……本当にソニアは、この歳で、何ひとつ伝える前に見抜いてしまうのね。末恐ろしいわ」
そう零す祖母の顔は、もう笑っていなかった。
「きっと、貴女にとって社交の場は、愚かで醜い者たちの集いに見えることでしょう。だからこそ、絶対に見下してはなりません。これだけはどんな時も覚えていて頂戴」
ソニアは祖母の話にハッとする。
今、非常に大切なことを刻み込まれたのではないか。それこそが、悪役にならないための極意なのではないだろうか。
「はい、お祖母さま。いかなる時もお祖母さまの教えを守ります」
ソニアが顔を上げると、祖母と母が優しく微笑んでいた。
「さあ、改めてお茶の準備に致しましょう。これから毎週、細かい所作まできっちり覚えてもらいますからね」
祖母は張り切って茶器のワゴンを引き寄せる。
客ではなく講師として、手ずから紅茶を淹れるようだ。
「細かい所作、とは……?」
「椅子の座り方から配膳ルール、カップの持ち方に飲む姿勢まで。指一本でも気を抜いてはなりません」
母の目が光っている。
――お茶会、怖い。そして、辛い。
カップを指だけでつまんで持つことが、こんなにも難しいとは。
ソニアの指と肘がプルプル震えている。親指の付け根も限界だ。
「子供だからと取っ手を握ることは、もう金輪際、認めませんよ。身につけるとは体に覚えこませるという意味です」
「はっ、はい、お祖母さま」
「姿勢を伸ばして、背もたれから離す。両足を揃えて膝から少し傾けて」
「は、はい、お祖母さま……」
思いの外、祖母のスパルタな教育に、ソニアは足の先から指の先まで至るところの筋肉痛を覚悟する。
案の定、その晩はとてもよく眠れた。