2. 目覚めるとそこは天国、ではなかった
目を覚ますと、そこは天国だった。
なんてふかふかなベッドなんだろう、まるで雲のようだ。
真っ白なベッドのやわらかさを堪能していると、声が上から降ってきた。
「殿下、目を覚ましたようです」
「おお、そうか。どうだ、体に問題はないか?」
寝ぼけた頭で神様の声かなと思ったが、覚醒するにつれて聞こえてきたのは殿下の声だと理解すると、夢心地だった気分は一気に冷めて跳ね起きた。
ベッドの上で体を起こし、目に映ってきたのは王族特有の金髪碧眼の細身の男子生徒と、もうひとりは無造作に短く刈った鋼色の髪を生やしがっしりした体型の男子生徒であった。
だれか、まだ夢のなかだといってほしい。わたしの目の前にいるのは王太子殿下と、その護衛である侯爵家のルートディヒ・ハントリー様であった。
「わたしのようなものにお手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
わたしはすぐにベッドから降りると床の上にひざまずき、首の骨が折れてもいいと思いながら深く頭を下げた。
「ここは学校だ。つまりは君と私は学友というわけだ。そうかしこまらずともよい」
わたしはほんとに大丈夫なのかなと思いながらおずおずと頭をあげて王太子殿下のご尊顔を見た。
その顔にはいら立ちの気配はでていなくて、ホッとした。
「これからは気をつけるのだぞ」
ははーと返事をしてから、こめつきバッタのように頭をぺこぺこと下げながら部屋を後にした。
部屋を出るとそこは高位貴族専用の学生寮であることに気づいた。
足元には毛の長い絨毯がしかれ、廊下にはさりげなく絵画などの調度品が置かれていて、すべて一級の職人によって設計されたものだというのが見て取れた。
自分のいる場所を理解すると同時にまずいことがわかった。
やばい、わたし王太子殿下の部屋で寝かされてたんじゃ……。
一応女子であるわたしが王太子殿下の部屋からでてきたとなると、どんなことをいわれるかわからなかった。
わたしは左右を確認して誰にもみられていないか確認すると、足早に立ち去った。
次の日、昨日のことでなにか言われないかとびくびくしながら授業を受けて過ごしていた。
しかし、授業が終わりクラスメイトたちが帰り支度をする中、がらりと扉を開けて入ってきた女子生徒が見えた。
いやな予感がしながら横目で見ていると、その女子はまっすぐにわたしに近づいてきた。
「あなたがサラ・トーマさんですね。我が主がお呼びですので来ていただけるでしょうか」
ほーら、やっぱりきたぁっ!!
疑問系ではあったが、有無を言わさない口調でありわたしは連行される罪人のように粛々とついていった。
連れて行かれたのは、この前きたばかりの高位貴族用の学生寮だった。
わたしを連行しているのは、クレア・デュポン様で確か子爵家のご令嬢だったはず。
オレンジ色のふわふわした髪の毛を揺らしながら歩くクレア様の背中をみながら、行き着く先は見当がついていた。
クレア様が一番奥の部屋の前で止まり、コンコンと扉をノックした。
入ってくださいという声が中から聞こえて、ゆっくりと扉が開けられた。
「ベアトリクス様、こちらがサラさんです」
「ごめんなさいね、突然呼び出してしまって。私はベアトリクス・トゥールーズです。よろしくなさってくださいまし」
部屋の中はわたしにあてがわれた部屋の3倍以上の広さで、そして、窓際に置かれたソファーにゆったりと座っているのが、部屋の主である公爵家令嬢ベアトリクス様であった。
夜空のように黒く艶やかな御髪と、黒真珠のような瞳、雪のように白い肌を持ち圧倒的なまでの美しさがそこにあった。
ベアトリクス様は切れ長の怜悧な瞳をわたしに向け、わたしは蛇ににらまれたカエルのように体を硬直させていた。
「楽になさってくださいな。さあ、どうぞおかけになって」
着席を促され、わたしは油の切れたブリキ人形のようにぎくしゃくとした動きでソファに座った。
対照的に、ベアトリクス様は鷹揚とした態度で、口元には氷のような微笑を浮かべていた。
「さて、あなたも忙しいでしょうし、単刀直入にいかせていただきます」
ベアトリクス様はスッと目を細めてわたしを見つめてきた。
わたしの背中から冷や汗がだらだらと流れた。
「昨日、あなたは王太子殿下の部屋にいらっしゃったわね?」
「……は、はい。いました」
「そう、素直でよろしっくてよ」
ここは下手に誤魔化すよりも正直に答えたほうがいいだろう。すこしでも心証を良くしなくては。
「あなた、レイモンド様が私の婚約者だというのはご存知よね?」
気のせいか部屋の空気の温度が下がったような気がする。
わたしの唇が震えているのはきっと寒さのせいなのだろう。
「……は、はひ。存じています」
わたしがうなずいたところで、クレア様が紅茶の入ったカップがわたしとベアトリクス様の前に置かれた。
湯気の立つ紅茶から、上質な匂いが漂ってきた。
「どうぞ、お飲みになって。現地から直接取り寄せた茶葉を使ったものでしてよ」
そういって、ベアトリクス様はカップをそっと手にもって優雅に飲み始めた。
わたしは自分の前に置かれたカップを見つめていた。
もしかして、この中にはなにか入っているんじゃ。公爵家ともなれば、男爵家の娘程度なら簡単に消せるはず。
「い、いただきます」
しかし、すすめられたものに手をつけなければ、間違いなく気分を害してしまうだろう。
わたしはゴクリと生唾を飲み込みながら、紅茶に口をつけた。
「ぐ、ゴホッ、ゴホゴホッ」
緊張しすぎて、飲んだ紅茶でむせてしまった。
飲んだ途端、いきなり血を吐いたりせずにすんだようだ。
「あらあら、大丈夫ですの? お加減が悪いのかしら」
「も、申し訳ありません。失礼しました」
気遣いの声をかけてきたベアトリクス様に、慌てて頭を下げて謝罪した。
そんなわたしの様子を黙ってみていたベアトリクス様が、次の言葉を告げるために口を開いた。
「あの方の私室に入ったことを咎めようというわけではありませんのよ。優しい方でから、きっとなにかあったのでしょう」
ベアトリクス様は優しげな口調で殿下のことを語っていた。
別な一面を見たことで少しだけ体の緊張が抜けたが、ベアトリクス様がその怜悧な瞳を向けてきた。
「それで、あなたに頼みがありますのよ。聞いてくださいますか?」
「は、はい、喜んで!!」
ここで断ったらなにをされるかわからないので、即答した。
「あら、内容も聞かずに了承なさるなんて、無用心でしてよ」
「トゥールーズ様のためならば、たとえ火の中水の中、なんでもおっしゃってください」
「それなら、遠慮なくお願いしてしまいますわ。あなたに殿下のことを調べていただきたいの。殿下は、その立場上親しい人間を作ろうとしませんわ。でも、私室に招かれたあなたにならば、殿下も多少は心を開くかもしれませんわ」
「内偵ということですか? さすがに、それは……」
王族の秘密を探ろうとするなど、もしもばれたら一族郎党処刑されるだろう。
「誤解をさせてしまったようね。私が知りたいのは、あの方の気持ちですわ。学校を卒業後、私と殿下は結婚することになっていますが、今のうちに気持ちをしっておきたいのです」
これはあれなのか、恋する乙女的な気持ちなのだろうか。
しかし、氷のような微笑を浮かべるベアトリクス様の表情からはなにも読み取れなかった。
「それならば、お任せください。必ずいい知らせをもってきます」
「よろしくお願いしますわ」
それから、逃げるようにベアトリクス様の部屋から退出した。
しかし、ああはいったが、殿下の気持ちを知るためには、殿下と接触する必要があった。
賢者危うきに近寄らずという言葉に従って、なるべく高位貴族には近寄らないようにしていたのに、まさか王族と積極的に関わらないといけないはめになるとは……。
わたしは誰にも聞こえないように大きくため息を吐いた。