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短編

梅雨時の首

作者: 留龍隆

          1


「人死にでも出そうだな」


 薄暗い室内の隅、空気の流れが淀んでいそうな所に座る人影が、そうぼやいた。人影の横には縦長の窓があり、今は絶えず雨垂れがそこを叩いている。季節は梅雨時だが、窓の外には枯れた紫陽花あじさいしか植わっていないため、冬のような光景にも見える。なにより、室内全体が寒かった。

 人影は黒いハイネックのスウェット、その上に白いベストを着ている。細い脚には灰色のボトム。まもなく夏を迎えるような今日この頃の恰好かっこうでは、ない。しかし本人は暑そうな表情でもなく、細く開けられた瞳で自分の吐き出している紫煙の行方を見つめていた。と、その視線の先に、メガネをかけた小柄な人影が現れる。


「縁起でもないこと言わないでくださいよ、かなでさん」


 随分と高い、澄んだ声だった。すると奏、と呼ばれた人物は腰掛けていた古めかしい木の椅子から立ち上がり、居座っていたカウンターの中から出てくる。歩くたび、一つ束にして結んでいる後ろ髪が揺れた。

 と、奏が電灯のスイッチを入れる。暗く湿気た室内にあったのは、よく手入れのされた骨董品だった。どうやらそれらは売り物であるらしく、カウンターの端にはレジがある。そして所狭しに並べられている売り物の間にある、わずかなスペースに二人は立った。奏の方がほんの少しだけ背が高く、メガネの人物をわずか、見下ろす形になる。


「そういう雰囲気の漂う天候だ、と思ったんだから仕方が無いだろう。大体、どうやって入ってきた。いきなり話しかけられたら驚く」


 少しも驚いた様子のない低い声で、奏は切り返す。口調が素っ気無いことと、身長差により見下している態勢であることとで、かなり高圧的な態度に思われる。が、メガネの人物は全く気にした風でもない。慣れた感じで返す。


「裏からですよ。表から入ったら、まるでボクがお客さんみたいじゃないですか。それに一応店の人間だから、ってことで奏さんも裏口の鍵をくれたんでしょう? 使わなかったら意味がないじゃないですか」


 返されて、口ごもる奏。その表情には、裏口の鍵を渡したこと自体を忘れていた様子がありありとうかがえる。しかしそんな様子にも慣れた感じの、メガネの人物。嬉しそうに胸を張りながら、白いシャツの襟に通した紐ネクタイを締めなおしている。下に穿いているのはダークブルーのスラックス。メガネの下にある顔は幼く、左眼に白い眼帯をしていた。色の薄い髪は肩に届くくらいの長さに切り揃えており、大きめの黒い瞳は勝ち誇った喜色を表す一番大きな要素。そんな表情を見て、奏は眉をひそめる。


「……一樹かずき。別段私は、特別な意味合いで合鍵を渡したわけではなかったのだからな、そこの所を勘違いしないでほしい」

「じゃあボクは奏さんにとって何なんですか……と訊いてみたら、固まっちゃいましたね。冗談ですよ、冗談」


 あはは、と笑いながら頭を下げる一樹に毒気を抜かれたのか、それ以上は何も言わずに黙り込む。顔をらして窓の外を見やると、外は相変わらずの曇天。街全体が湿気た灰色に染まったような気さえする。


「ちょっと、歩いてくる」


 だが、奏はわざわざそんな天候の中を歩くことにした。紺色の、男物と思しき傘を手に取り、カウンターのすぐ脇にある表口から雨の下に出て行く。が、肩に傘の柄を引っ掛けられてすぐに前に進めなくなった。しぶしぶ後ろを振り向くと、一樹がじっとこちらを見上げていた。面倒臭い、と呟きながらも体をそちらに反転させる。


「なんだ」

「いえ。いってらっしゃいと言おうと思っただけですよ」


 真剣にそれだけのために止めたらしく、すぐにきびすを返して中に戻っていく。呆れを通り越してしゃくに触ったらしく、戻ろうとする一樹の肩に、今度は奏が傘の柄を引っ掛ける。


「店番は、いい。今日は着いて来い」



 二階建ての、壁面をツタカズラに支配された洋館。風が吹くと緑の葉が一斉に揺れて、緑の水面に波紋が出来たようになる。ここが奏の骨董品店だった。市街地の中央通から一本どころか四本逸れた裏路地にある店は、怪しげな外観と取り扱う物の胡散臭さから一般人には敬遠され、ほとんど客はない。マンションとビルの乱立する中で、そこだけが孤独に孤立していた。

 軽自動車が一台通れるか否か、というような狭さの道路を端に寄って歩く奏、その三歩後ろに付いて歩く一樹。雨は一定のリズムを刻みながら傘を叩き、風が時折、そのリズムを乱す。


「どこに行くんですか? ひょっとして、さっき人死にでも出そうと言っていたのと関係でも?」


 深読みし過ぎだ、アレは特に意味は無かった、とだけ返し、黙って歩く奏。会話する空気でもないな、と感じ、一樹も黙り込む。雨の中を歩く人は少なく、街そのものもまた、黙り込んでいた。他に何もせずただ歩くだけ、となると一樹の視線は下がり、付いていく人の脚だけを見るようになる……沈黙は緊張や焦りを生む要素にも成り得るが、この二人の間では特にそういった様子は見受けられないまま。ただただ、雨中の行進が続く。

 しばらく歩いて、服が周囲の空気と同じくらいの湿気をまとった頃。奏は立ち止まり、一樹の動きを制する。突然止まった奏を見て何かあったのかと思い、脇から顔をひょこりと覗かせる一樹は、表情を一変させる。

 おびただしい量の血液が、雨と混じって道幅いっぱいに広がっていた。白い雨合羽を着て、茶色いスーツに包まれた脚をその端から伸ばした男が、その中心で永久とこしえの眠りについている。曇天を眺めるように大の字に倒れた男は無精ひげを生やした中年、胸にナイフが刺さっていなければ、どこにでも居そうな人物だった。


「あ」


 降りしきる雨の中、一樹が呟いたのはその一言のみ。後は特に何も言わず、そそくさと奏の影に隠れる。


「死体を見た割には大した反応もしないんだな?」


 携帯電話で警察に連絡しながら、何も感じない、動じない様子で奏が尋ね、それに対して少し悩んで、一樹はぼそぼそと答えた。


「だって、なんだか人間のように思えなくて。血の気もないし、人形とかにしか見えないんです」

 

 死体の男を指差して恐る恐る心情を述べる。奏はそれを全く聞いていないように、警察に場所などを説明している。やがて、ぱたりと二つ折りにして携帯電話をポケットに仕舞い、振り返って一樹と話の続きを始める。


「れっきとした人間だろうさ。私やおまえのように、生きていた人間。まあだからと言ってどうと云うことも無いがね、人形だろうと人間の死体だろうと。違うことと言えば、呼ぶのが警察でなくゴミ回収車になるだけのことだ。燃えるゴミか燃えないゴミかはわからんが」


 極めて冷静に言ってのけ、真剣に死体は可燃ごみか不燃ごみかを悩み始める。そんな奏を見て、一樹はくすりと苦笑した。そしてそのまましばらく待つ。数分と待たずにやってきた警察はドラマの中のそれと似たようなことをして、奏たちにも事情聴取をした。



 連れて来られた警察署でしばらく拘束され、同じことを何度も訊かれた、と奏たちが感じ始めた頃、ようやく解放される。外は雨が小降りになってきており、背筋を伸ばしてから二人は再び雨の中に入って行った。


「どうせまた呼ばれるのだろうな。面倒臭い。くそ、通り魔め」


 最近ここらで噂になっている、通り魔。その犯行だと奏は決めつけ、犯人に対して毒づいた。


「それがあの人たちのお仕事なんでしょうから。そうだ、奏さんが『人死にが出そう』なんて不謹慎なことを言ったから、罰でも受けたんじゃないですか?」


 くすりと笑みをこぼしながら、横から奏を追い越す。奏は不服そうな顔をして、傘を持った手で一樹を指差した。


「おまえもこうして呼ばれる立場になってるだろうが。罰というならなぜ二人一緒に受ける、それはおかしい」

「大した手間でもないですし。ボクは構いませんから、つまり罰というほどでもありません」


 気楽な思考だな、と皮肉るように奏が言う。そういう性分でなければあなたのところで働けません、と返し、一樹は先を歩いていく。奏は溜め息をつきながらその後を追いかけようとして、雨が止んだことに気づいた。


          2


 二階の自室で目覚めた奏は、まず部屋に篭った湿気を払うために窓を開けた。ギシギシと蝶番ちょうつがいが音を立て、一応冷えて乾いた風が入ってくる。だが正面には灰色のマンションがあり、周囲も雑居ビルという状況にある立地条件が生む空気のよどみは、如何いかんともしがたいものがあった。よって、入ってくる空気には爽やかさは無い。

 店である一階の奥にある狭いキッチンで、片手で卵を割りスクランブルドエッグを作る。背後のトースターが音を立て、冷蔵庫からは野菜を少々。油、塩、酢、胡椒と唐辛子で作る簡易ドレッシングをかけ、一応彩りの面では悪くない朝食が出来る。最後に、丁寧に挽いて淹れたコーヒーを添え、カウンターまで持っていって食べ始めた。

 食べ終えてコーヒーの二杯目をすすっていると、トントン、と窓を叩く音がしたので、横に目をやる。縦長の窓の向こうには、眼鏡の下に眼帯をした人物。一樹が居た。取っ手に手をかけて窓を上に引き上げ、奏はダルそうに用件を訊く。


「今日は大学の講義があるので、午前は来れなくなりました。申し訳ありません」

「構わん。どうせ、居てもらっても仕事の少ない店だしな」


 即答され、一樹も顔を引きつらせる。いくら仕事が少なかろうと、居なくても構わないと言われるのは辛いものがある。と、そんな一樹の表情をどう解釈したのか。奏は全く見当違いなことを言い始めた。


「心配するな、この仕事は一度売れれば大きく収入が入る。元手はほとんどタダ同然だからな。だから、給金のことは大丈夫だ」

「そういうことじゃないですよ。居なくていい、と言われるのが嫌なんです」


 言われても、奏は怪訝けげんな顔をするだけ。細い瞳で一樹を睨む。


「そんなことを言った覚えは無い。おまえには居てもらわないと、困るぞ」


 どうやら本気で奏はそう思っているらしい。そう感じた一樹は説明が面倒になり、ああそうですか、と一応理解したことを伝えて、窓際から離れていった。奏は困ったような顔をしながら窓を閉め、コーヒーをもう一杯、淹れに行った。片手には新聞を掴んでいる。


「通り魔事件、被害者五人目……昨日の死体か」


 蒸気を吐き出すやかんを横目で見ながら、一面の記事に目を通す。

 通り魔、切り裂き魔。この地域で最近話題の事件だ。犯行の手口である切り裂き行為、その傷がどれも首に集中していることからネットでは「ネックホルダー」などと微妙なネーミングをされている殺人鬼。昨日見た死体もやはりそれか、と呟き奏は細かい新聞の字を追う。

 しかし被害者の身元などに関連性も見受けられず、犯行現場などの規則性も見当たらない。唯一変わった事といえば、四人目だけは胸部を突かれて刺殺されているということくらいだ。興味を失った奏は新聞をゴミ箱に放り込んだ。何と言うことは無い、クロスワードパズルをやるような、単なる暇つぶしだった。


 一樹の通う大学のキャンパスまでの通学時間は、自宅のアパートから徒歩で駅まで十分、そこから電車で三十分。最初の十分の途中にある奏の店までの道は、入り組んでいて辿りつくのに時間がかかる。となればそこから出て表通りまで行くにも時間がかかるわけで、一樹は走らないと遅れてしまいそうな今の状況を理解した。ジーンズを穿いた足に力を込め、肩掛けカバンの重みを感じながら走り出す。

 駅に辿りつく頃には汗をかいて、もう暑い季節なのにカーディガンなどを着てきてしまった自分を恨んだ。とはいえ、梅雨時の室温というのは結構上下するもの。それ故に、室内は冷房が効きすぎて寒いところも多いのだ。よって、カーディガンなどの防寒具が要される状況も無いわけではない。

 しかしとりあえず今は汗をかいたので、紺色のカーディガンを脱いで白いトレーナー一枚になる。電車は走り始め、のんびりと目的地まで一樹を運んでいく。上を見上げると、広告に通り魔事件の見出しが載っていた。

五人目の被害者で唯一の生還者だった男性が、実はエリート商社の課長だったらしい、という記事だった。しかし、せっかく生還したというのに、昨日殺されてしまったらしい。自分の見た死体だ、と一樹は思い当たったが、次の駅で大量の人が乗り込んできて広告から視線が外れた。

 さほど有名でもないが、就職率は良いと噂の大学。ちなみに隣にある附属高校も、就職率が良いらしい。卒業生が作ったオブジェである銀色のアーチをくぐって正門を過ぎ、テニスコートの隣にあるC棟に急ぐ。講義が始まるまであと二分しかないことに気づいたので、さらに急ぎ足になる。そのせいで途中、階段で手に持っていたカーディガンを踏んづけて転んだが、なんとか間に合わせた。鼻の頭を打って赤かったことで友人に笑われたが、気にしない。人の良いことに、一樹は全ての原因となった(つまり遅刻の原因)奏に対して恨むようなこともなく。いつも通りに、真面目な受講態度を見せた。


 昼食の時間になり、一樹は高校生の頃からの友人である早苗さなえと共に弁当を広げた。日に照らされて既に乾いた中庭で、草の上に直に座って包みを解く。中から出てきたのは醤油がかかった海苔をのせた白米、冷凍の魚フライ、プチトマト数個。適当に作った感じが否めない。

 それに対して早苗の弁当は、内容的に言って早苗ではない誰かの作った弁当だった。茶色く染めたセミロングヘア、少々濃い化粧、派手な色合いの服という人間の食事にしては、少々不思議なもの。いもの煮っ転がしに鮭の切り身、こんにゃくとレンコンを和えたきんぴらゴボウ。白米ではなく玄米を食べているのも特徴的だ。


「この後はどうすんの? あたしはサークルに顔出してくるけど」


 アイラインのはっきりした、茶色い瞳で一樹を見据える早苗。化粧は濃いが、元の顔が良いからかさほど気にならないのが不思議だ、と一樹はいつも思う。ちなみに早苗のサークルとは映画研究部であり、一応彼女は部のメインアクトレスということになっている。


「ボクはバイト。前話したでしょ、骨董品屋の荷物整理とか」

「あー言ってた言ってた。妙なバイトするわねー、あんた。ところで、ねえ、店の人ってどんな? ルックス的に言ってアリか否か」


 一応訊いておこう、という程度の軽い気持ちで早苗は問うたのだが、一樹は意外にも神妙に考え込んだ。やがて、合点のいった顔で早苗を向き直り、一言。


「ボクの基準と早苗の基準は根本的に違うでしょ。まあ、秘密ということで」


 何よそれー、と言いながら、早苗は髪を掻き上げた。一樹は内心、男に飽きては捨てるを繰り返す早苗に、本当に長く付き合える男はこの世に居まい、と考えていた。


「今は誰かと付き合ってるの?」

「いんや、先週別れた。あんたこそ何かないの? こういうの」


 別れを何とも思っていない様子で、早苗は小指を立てて尋ね返してくる。


「居るわけないよ」

「可哀想な奴。ようし、あたしが付き合ってあげようか」

「そんなことするくらいならバイト先の店長と付き合う」

「何それ。実は結構行動中ってこと?」

「まあ、秘密ということで」


 同じ受け答えをすると早苗は笑い出した。しかし、バイトのことを考えていると、ふと昨日の死体のことが頭を過ぎる。電車に揺られながら、吊られた広告に目を通している時に最近のニュースも知り、大体一樹は自分の状況が掴めていた。もぐもぐとから揚げを頬張りつつ話す。


「そうそう、昨日、死体を見たんだよ。さっき言ったバイト先の店長と」

「へええ? 最近の通り魔の?」


 顔色を変えて、早苗は話の筋を言い当てる。一樹は頷いた。

 最近、この近辺で通り魔殺人が起こっているのは周知の事実。既に一昨日までで四人が死亡、一人が軽傷を負っている。犯行は全て雨の日に行われ、突然道ばたで遭遇して首を切られる、という手口であるらしい。

 軽傷を負いながらも生還した被害者が言うには、曲がり角で突然に合羽かっぱ姿の男に襲われたとのことだった。首を切りつけられ、慌てて傘で応戦したものの腹部を軽く刺されてしまったらしい。凶器となっていたのは百円で買える包丁で、その手口から巷では切り裂き魔、などと揶揄やゆされている。そして、昨日また。殺されていたのはなんとか生還出来た五人目の被害者だった。

 被害の出ている日時もここ二週間の間でばらついており、一人目が起きてから二人目までに六日後、三人目は七日後、四人目は少しとんで十日後で、それまでと違い胸部を刺された。同じ日に五人目、軽傷を負った生還者も出る。そして昨日、最初の事件から二週間経った頃。軽傷を負った生還者が、止めを刺された。


「じゃあきーちゃんが見たのもその被害者の一人だね」


 名前の最後一文字を取って付けたあだ名で呼ばれて、一樹は頷く。いずれにせよ凄惨な現場というほどでもなく、切り裂き魔というより突き刺し魔だな、という程度の感想しか一樹は感じていなかった。


「今日も夕方からはまた雨らしいから、早苗も気をつけてね」

「それは遠まわしなラブコールと受け取っていいかな?」


 愛してるよっ、などと言いながら抱きついてくる早苗を顔をしかめてかわす。立ち上がって弁当を片付け、サークル棟の方に駆けていく早苗に後ろ手を振り、バイト先の骨董品屋へと一樹は歩き始めた。


          3


 切り裂き魔の考察とはなんだろう。

 骨董品の掃除をしながら、ふと一樹はそんなことを考えた。すぐに頭に浮かぶのは、ストレス発散。社会生活で溜め込んだ鬱憤を、一番やってはいけない行動によって発散しようとしているのだ、と。逆に言うと、それ以外には特に思い当たらない。

 ティータイムになって紅茶をすすっている奏にそんな考えを話すと、それはどうかな、と意味深な言葉を返された。


「紅茶にミルクを垂らすのは、見た目をよくするためだと思うか?」

「味をまろやかにするためでしょう」


 角砂糖を二、三個放り込みながら一樹が答える。ミルクも相当な量を入れ、それを見た奏は何か一言言いたそうな顔をした。が、過ぎたことを言っても仕方が無いので黙っておくことにしたらしい。


「人によっては、見た目を変えるためでもあるかもしれない。殺人を犯すまでにある思考は、それこそこの世で一番多量の分岐を有すると私は思うがね。一番のタブーであるが故に、想像してみることは誰でも一度はあるだろう。それを実行に移す人が少ないだけで、理由は星の数だ」

「じゃあ奏さんなら、どういう理由で殺人をしようと思いますか?」


 クッキーをつまみながら一樹は問いかける。奏はたっぷり十秒、紅茶を口にし、飲み込むまでの動作に時間をかけた。


「……殺したい、と切望したことがないからわからんよ。正直な話、骨董品を愛でる以外には私はしたいことがあまり無い。ただ、何か大事な物を奪われれば私も殺人を犯すだろう。陳腐な理由かもしれんがね、だがこれが一番、人間らしいとも言える。

 睡眠を妨げられても人はそう殺人をしない。同じことは、食欲と性欲にも言える。三大欲求ですら殺しに至る要素には、そう簡単には成り得ない。よほど、命に関わるほどに妨害されない限りは、な。だが、人は自分の持っていた物を奪われると異常と言えるまでに激怒し、これを行った者を殺害することもある。つまりだ、ある種の蒐集欲しゅうしゅうよくこそが、最も人間の大事なものかもしれん、ということだ」


 静かに拝聴していた一樹は、窓からまたも天候が悪くなってきた空を仰ぐ。特に代わり映えのしない日常も、天気一つで惨殺の舞台に代わることを思いながら。そして奏に視線を戻し、クッキーを飲み込んでから話の続きを始める。


「じゃあ奏さんは、今回の事件も蒐集欲が原因だと考えるんですか?」

「いや、思わないな」


 拍子抜けするような答えを返され、なんだか曖昧な表情を浮かべる一樹。冷めた紅茶を飲み干してもう一杯注ぐ。


「要するにだ、今回の事件は怨恨が原因ではない。単に、人を殺す感触を覚えた人間の犯行だよ」

「殺人嗜好。ですか」


 空になったカップを差し出し、一杯注ぐように目で命じる。しぶしぶポットを持ち上げる一樹に、頷く奏。


「誰だって、人を殺してみたいと少しは思うものだ。それが、あの通り魔殺人鬼はスイッチが入っていたんだよ。いやはや、食うわけでもなく、単に好奇心やイライラで同種を殺せるのだから、人間というのはどこまでも堕ちた生き物だ。ついでに言うと年中発情期で節操が無い」


 店の中にある柱時計が、四時を差して店内に鳴り響いた。四つある柱時計はどれも少しずつタイミングがズレており、重なって嫌な音となり湿気た空気を震わせ、やがて虚空に消えていった。


「つまらん顛末てんまつだ。だが聞けば安心は出来るだろう。通り魔は、もう起こるまい」


 さあ、と音を立てて降り始めた雨。そしてカップから立ち上る湯気が、天に水分を返却する。


「やっぱりあの死体のこと、奏さんは知ってたんですね」


 膨れ面で確認を取り、やれやれ、と肩をすくめる一樹。そんな様子にも動じることなく、奏は話し始めた。雨の日に現れて、そして雨の日に消えていった通り魔のことを。



「結局のところ、切り裂き魔、と呼べたのは最初の三人殺しまでだったのさ。そこから、あの切り裂き魔は少しずつ歪んでいった」


 語る奏はカウンターの下をごそごそと探り、一着の雨合羽を取り出す。


「切り裂き魔の特徴は、たった二つ。切り裂くこと、そして合羽を着ていたことだ。逆に言えば、この二点を満たせばその瞬間に私も切り裂き魔だろう。つまりそういうことだ、切り裂き魔は、簡単に入れ替わることが出来る。そして、実際に一度入れ替わった」


 合羽に袖を通した奏は、椅子に腰掛けてカップを抱えたままの一樹にそう説明する。だが説明されている本人はチンプンカンプンな様子で、続きを話してほしそうな顔をしている。


「最初の通り魔が居た。そいつの動機がなんだったのか、今となってはさっぱりだが……恐らくは、おまえの最初に言ったようにストレスや不満をぶつける対象としての切り裂き行為だったのだろう。雨の日に行動して、合羽で返り血を防いでいるあたりも計画的かつ消極的、内向的な性格の人間だと私は思う。そして、その殺人劇は七日の時点で殺された三人目で幕を引いた。――四人目の被害者は、最初の通り魔だったんだよ」


 え、と一樹は片方しかない眼を見開く。しかし奏はさっぱり気にした風でもなく、窓の桟に手をかけながら話を続ける。


「四人目の殺害方法が、それまでと違い胸部の刺殺だったことは覚えているか? あれはな、殺そうとして逆に殺し返されたんだ。だからそれまでの狙いのように、首を掻き切る殺害方法じゃなかった。そして、同日に出た五人目の被害者。軽傷を負った生還者。奴が、入れ替わった通り魔だよ。

 事故、過失。殺されそうになって正当防衛をした結果、生還者は人殺しになった。そこで素直に出頭すればことは収まったのだろうが……なまじ、エリートな生き方をしている人間は、自分の名に傷がつくことを極端に恐れる」


 一樹は今日の朝、電車内の広告で奏の話した情報を読んだことを思い出す。五人目の被害にあった生還者は、エリート商社の社員だと。

 それを奏に話すと、合羽をたたみながらしばらく思考し、そして一樹に向き直る。


「名声も持ち物の一つだ、奪われたり傷つけられたりすることを、許せる人間は少ないな。だからこそ、思った。ここは生還者を演じておき、可哀想な被害者と相成っておく。それでも疑われるやもしれぬから、通り魔が続いているように思わせよう、とな。肝の小さいあの人間は、『自分』じゃなくて『自分の名声もちもの』を優先したんだよ。

 そのために事件は続いた。そのように見せかけられた。リスクの大きなことをしてでも、名に傷つくことを避けたかったのだろう。

 ……すべては仮説に過ぎないが、昨日私が殺した相手の着ていた合羽を調べれば出てくるんじゃないか、四人目の被害者の指紋が。四人目の被害者でもある最初の通り魔は、雨の日なのに傘も合羽もレインコートも着ていなかったそうだからな。

 恐らく、あのエリートは血の付いた合羽から四人目が通り魔だったとバレるのを怖れたんだろう。だから脱がせ、持ち去った。しかし、血の付いた合羽なんてそうそう処理は出来ない。だからこそ、自分で再利用したのではないかと思う」」


 奏の脳裏に、昨日の殺人が蘇る。いきなり斬りかかってきた通り魔に、とっさに当身を食らわせ。それでも尚斬りかかってくるのを止めることも出来ず、反射的に手首を返して相手の突進の威力をそのまま刃に乗せ、深々と突き刺したことを。


「死んでやる義理もないので思わずやり返したがな、感想としてはあんなものストレス発散にはならん、というだけのことだ。むしろ厄介ごとを抱え込みそうでぞっとしたよ」

「じゃあ、なんでそのまま放置して、後から警察を呼んだんですか?」


 問いかけに、奏は振り返る。窓の外、降りしきる雨から目を離す。


「自分の殺した相手が、最後にどんな視界を拝んでいたのかわからせてやったのさ」



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― 新着の感想 ―
[一言]  オチが見事でした。淡々とした描写もいいですね。自分ではなく、自分のもちものを優先する……エリートだけでなく、底辺の人間も陥りがちな心境かと思います。読み終えて、私も推理作品を書いてみたくな…
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