二部 加害者 第0期~第七期
加害者 第一期~第七期
鷺沼十蔵
鷺沼十蔵が、ラ・アークタワーを購入したのは、居住者が転居してきた日から半年経った二0一0年九月。
最後に売れ残っている二十四階の住居が、モデルルームになっていた。
モデルルームに使われていたテーブル、カーテン、ソファなどは、様々な好みの検討者に対応できるように、部屋毎にアンバランスに置かれていた。エアコンも付いている。
一緒に来た女性がトイレに立ったとき、「ここに置いてある物で好みの物は、全て付けます」と、提案があった。
ただの冷やかし、いや、一番の目的は、予約して、二人で見学すると、五千円の商品券がもらえることだった。同伴したスナックのママとのデート代を浮かせられる。加えて、ママに、こんなマンションを検討しているとアピールしたかった。
担当者は、更に、「今決断いただけるなら、価格面でもかなり調整いたします」と囁かれた。担当者のメモには、二千万円程安い値段が書いてあった。
売れ残ったマンションが価格を下げて売ることは、よく問題になり、ニュースの話題になっていた。
賛否両論分かれるが、最近では、先に買った者は悔しいだろうが、やむなしといった風潮だ。
担当者も、経済が崩壊して、郊外の高額マンションを買える人が減ってきていることを、ここ数ヶ月の営業で十分過ぎる程感じているようだ。早く切り上げて次の売れる物件に移りたいのだろう。
鷺沼はママが戻って来るタイミングで購入の意思を伝えた。部屋に付いているものは、全て、付けてもらった。デザインやそのバランスなど、全く興味がなかった。
三階の同じ広さの部屋と比べても一千万円以上安い。
それを知らないママの前で購入のサイン。我ながら、かっこいい。
理事
鷺沼は、二期の理事に立候補した。
立候補を促す文書には、
・専門知識がマンション運営に役立てます
・よりマンションを良くしたいという気持ちが役立ちます
・マンションのことをより詳しく知ることができます
と、書いてあった。
立候補したきっかけは、目立てる気がしたからだ。
初めて参加する理事会では、理事と管理会社が揉めていた。
揉めていたというより、管理会社が、理事にやり込まれていた。
「管理会社からは、何の提案もないのか?」
「確認を指示してから、なんでこんなに時間がかかるのか?ノウハウはないのか?」
中には、耳に入れたくないような発言もあった。
理事会が終わった後、鷺沼は、管理会社をやり込める理事の発言に、歪んだ顔をしていた理事の一人、沖田に話しかけた。
「いつもあんな感じなんですか?」
「ええ。やり過ぎですよね」
その後、理事会で怪訝な顔をしていた数名の理事にも声をかけた。
「前回、理事会に出席しましたが、あの言い方は酷いと思いました。次回、意見しようと思いますが、協力してもらえませんか?」
鷺沼は、次の理事会までに、半数以上の理事に根回しを行い味方に付けた。
理事排除
二回目の理事会も、理事の管理会社を責める発言から始まった。
鷺沼は、穏やかに、発言を制し、お互いの着地点となるに相応しい案を出した。
管理会社を攻め立てていた三人の理事は、不満そうな顔をしていたが、鷺沼が「他の理事の方はどう思いますか?」と聞くと、多くの理事から鷺沼を指示する声が出た。
このようなことが何度も繰り返され、当初、主導権を持っていた理事の一人が、逆に、理事会の中で、責められることとなり、途中で、理事を辞任した。
管理会社は、今までにない丁寧な扱いに、気持ちが安らぎ、鷺沼に感謝した。
コンサルティング会社
四回目の理事会で、コンサルティング会社を導入する案が出た。
これは、一期理事会で検討していたが、競合させる会社の選定に時間がかかっていたためだ。
一期では、最初に選定した会社を採用することでほぼ決まっていたが、癒着の疑いをかけられたくないことから、他の会社からのプレゼンも受けることになった。
理事の中から、二社候補が挙がったので、改めて、理事会で審議することとなった。
理事達は、三社のホームページを印刷したものを見ていた。
会社概要、実績、方針などが掲載されている。
次の土曜日の午前に一社、午後に二社からプレゼンを受けることになった。
午前にプレゼンに来た会社は、ほぼ内定していた会社。
コストは高いが、実績も申し分なく、様々な質問に対して明確に応えてくる。
午後の二社は、修繕についての知識は見劣りしないが、総合的なコンサルティングができるかどうか不安があった。
その分、コストも安い。
五回目の理事会で、検討結果を話し合った。
ラ・アークタワーに相応しいコンサルティング会社
は、コスト高でも、総合的なコンサルティングに応じられる会社が相応しいだろう。多くの理事は、そう思っていた。
ところが、鷺沼から「我々で検討がつかないのは、修繕関係の費用の相場。ここだけアドバイスしてもらえればいいので、よりコストの安い会社を選択した方がいいのではないでしょうか?」との意見が出た。
決を取ると、二人の理事を除いて、鷺沼を支持し、MSC社を採用することとなった。
前期から継続して準備してきた理事からは、問題点の指摘もあったが、決定が覆されることはなかった。
この後、採用するはずだったMSC社と調整を続けていた理事二人が期の途中で辞任した。
理事長
二期の理事長は、ただのお飾りで、実際には、辞任した三人の理事が、理事会を運営していた。
鷺沼は、三期の理事に立候補した。
理事就任の日に、理事長を決めるが、立候補者はおらず、沖田から、「今までの審議のことが分かる人の方がいいので、継続製の観点から、鷺沼さんを推薦します」との発言があった。
鷺沼は、にやりとする顔を抑え、「他にする人がいないのであれば、了解します」と言った。
二人のシナリオ通りだったのだろう。
鷺沼は、理事長に就任すると、顔写真入りの挨拶文を、マンション居住者全員に配布した。
社会での成功体験はないのか?
星崎は、挨拶文を見て思った。が、関わっている程暇ではないので、直ぐに、丸めてゴミ箱に捨てた。
翌日の会議資料の作成に目処がついた頃、コーヒーを飲みながら、全居住者が、挨拶文を丸めてゴミ箱に入れている姿と想像すると、今までの人生が哀れだったのか?と、かわいそうには思えたが、同情する気にはなれなかった。
ただ、文中にあった「開かれた理事会を目指します」という文言が気になった。
宣言する意図があるのか?
しかし、それも、コーヒーを飲み終える頃には、忘れていた。
騒音
管理組合には、騒音をなくして欲しいという意見書が、複数の居住者から届いていた。
鷺沼は、最初は、これを改善してやろうと、意気込んでいたが、騒音の注意喚起文を出しても、全く効果がなかった。相変わらず、騒音に関する意見書が来る。
こんな効果も出ないことには、時間を使いたくない。
鷺沼は、騒音は、居住者間の問題で、管理組合が関わることではないと、結論付けた。
以後、騒音に関する意見書には、一切、対応しないことにした。他の理事も同意した。
騒音に悩んでいる者は、なんとか対応してもらおうと、意見書の内容が切実になってくる。語調も強くなってくる。
鷺沼は、意見書の言葉遣いが徐々に過激になってくる居住者をクレーマーと位置付けた。他の理事の脳裏にも、特定の居住者をクレーマーと植え付けた。
何の対応もなく、苦痛に耐えていた居住者は、堪り兼ねて、上下フロアの居住者に、騒音で悩まされている内容の文書を配った。
鷺沼は、慌てて、「居住者から、騒音に関する文書が配られたが、管理組合の許可なく勝手にしたことで、管理組合は、全く関知していない」旨の文書が、全居住者に配った。
読む人が読めば、配った居住者は、管理組合を通さず勝手にしたと、精神的にいかれてるようにも取れる。
そもそも、管理組合が無能だから個人で文書を出したのではないか?
また、何事も管理組合を通さなければ異常者だと印象付けるのはいかがなものか?
結局、その居住者は、多大なお金をかけて、防音の工事をした。
工事完了の文書が、二四一一号室の居住者から流れた。
鷺沼は、その文書を見て、これで、もう、あの居住者からの意見書は来ないと、ほくそ笑んだ。
鷺沼は、工事に多大な費用をかけた居住者がいることなど全く関心がなかった。
効果があって、居住者にアピールできることはやりたい。が、効果が出ず、全くアピールできないものはやりたくない。
居住者が困っていることなど、どうでもいい。例外は、それを解決することで、自己アピールができる場合だけだ。
ヘデラ
MSC社の大野は、一ヶ月間の報告書を会社でまとめていた。
そこへ、社長の山田が通った。
「何か変わったことはないか?」
「特にありませんが、エントランス手前に植えてあるブルーパシフィックの育ちが悪く、ほとんど枯れています」
「それなら、育ちの良いヘデラにでも植え替えたらどうだ?」
「あそこだけヘデラにしますと、かなり、バランスが悪いですよ」
「鷺沼は、そこまで気にしないだろ。試してみたいこともあるから、鷺沼に提案してみろ」
大野は、理事会の後、鷺沼に、ガーデンの一部が枯れているので、少し強い植物にしてみては?と提案した。
大野は、ヘデラを推した。
「この植物は、長い間、この地でランドマークだった隣のマンションでも使われています」
鷺沼は、理事会で提案して、植栽を変更した。
「やはり、乗ってきたか」山田は、言った。
「あいつには、核がない。今年の数字は、あいつで稼ぐぞ。鷺沼理事会様を懇親会に誘え」
後日、居住者から、当初のデザインを維持するようにと意見書が出された。
畑中は、山田に報告すると、山田は、「鷺沼が、適当に回答するだろう」と、何も心配していなかった。
山田の言った通り、「育ちやすい植物に変えた」だけ書かれた回答書を出していた。
懇親会
畑中は、「社長が、理事長と懇親会を開催したいと申しております」と、鷺沼に懇親会の誘をした。
鷺沼は、上司がよく懇親会に出ているのを見ていたが、誘われるのは初めてだった。
二つ返事で「いいですよ」と応えた。
理事長とは、悪くないものだ。
「それでは、詳しくことが決まりましたらご連絡いたしますのでよろしくお願いします」
日程を調整した後、畑中が懇親会の案内を持ってきた。
鷺沼は、厳かに作られた懇親会の案内に目を通した。
先日、ご内意いただきました懇親会について…。
場所は代官山のレストランか。
タクシーチケットも付いている。
ここからタクシーに乗っていいのか?
店に着くと、ゴージャスな扉があり、開けると、鏡とライトで空想的な空間を演出していた。
接客担当者が、鷺沼を個室に案内した。
MSC社の社長が、鷺沼に挨拶をした。
「山田です。鷺沼理事長、遠くまでお越しいただき恐縮です」
スパークリングワインで乾杯し、手の込んだ料理が、ゆったりとした時間の中で運ばれていた。
赤、白のワインも手伝って、鷺沼は、すっかりいい気分になっていた。
デザートの後のコーヒーが出ると、山田から「これからもよろしくお願いします」と挨拶があった。
続けて「この後銀座にいい店がありますから、ご紹介したいのですがいかがですか?」と尋ねた。
鷺沼は時計を見たが、まだ九時。帰りは、タクシーだ。
「いいですよ」
畑中は、タクシーを拾い、山田、鷺沼と、銀座に向かった。
銀座の店につくと、鷺沼は豹変してた。
普段は、穏やかな話し方をするが、店の中では雄弁になっていた。
今まであまり遊んでいないのだろう。
山田でなくとも、畑中でも、それは分かった。
畑中は、気分上々の鷺沼とホステスが頬寄せる写真、腕を組む写真をいくつか撮った。
クラブは、一時間で切り上げた。
こんなとこで、大きなお金を使う必要はない。雰囲気だけ感じさせたら、あとは、安い店でいい。
山田は、「もう一軒行きましょう」と、鷺沼を誘った。
鷺沼は時計を見て、「これからでは遅くなりませんか?」と言うが、山田は、「ご自宅の近くのスナックですから」と伝えて、三人でタクシーに乗った。
自宅から一駅離れたところのスナック。
山田は、鷺沼の隣に、ママと、もう一人女性が付くと、「こちらは、ラ・アークタワーの理事長だよ」と、鷺沼を紹介した。
二人の女性は、鷺沼に名刺を渡して、「隣駅のランドマークですよね?あそこに住む人と初めて会いました。どんな人が住んでるんだろう?って、みんな羨ましがってますよ」と言った。
山田と打ち合わせした通りだ。
鷺沼は、相変わらず雄弁に、ラ・アークタワーを自慢し、経済を学ぶことの重要性を語った。もちろん、タイミングよく安く買ったことは、言わない。
二人の女性は、なんの話か全く分からなかったが、「すごーい」と大げさに、笑顔で聞いていた。
イルミネーション
懇親会の翌日、鷺沼からお礼の連絡が入るかと思ったが、全くない。
やはり、慣れていないようだ。
山田は、畑中から鷺沼に電話をさせた。
畑中は、山田の指示通り「昨日は遅くまで引き止めてしまい申し訳ございませんてました」と伝え、土曜日に、ラ・アークタワー近くて行くので、寄らせて欲しいと打診してみた。
鷺沼は、午後一なら大丈夫と返事をした。
土曜日、畑中は、鷺沼を訪ねると、エントランスのソファで、目の前にあるガーデンを指して、「このガーデンが、イルミネーションで飾られたら綺麗なんでしょうね」と呟いた。
鷺沼も、その光景を想像した。
「やってみるか?」
「それなら、ガーデンが公開空地になってますので、市から予算をもらえるかもしれません。私に、申請の原案を作らせてもらえませんか?」
「それであれば、理事会に通しやすい。やってもらえますか?」
畑中は、イルミネーションのための見積書と市への補助金申請書の原案を作成し、鷺沼に渡した。
「どうか、配電盤の工事など、イルミネーションの工事一式は、弊社にいただけませんでしょうか?」
「もちろん、市への申請という形でなければ、この予算でできないわけですから、御社にお願いするつもりです」
鷺沼は、理事会に、イルミネーション設置の議案を出した。その中で、市への申請という形がなければ実現できない価格で設置できること、その案は、MSC社が出したことを強調した」
もともと、そんな話をしなくとも、鷺沼の議案には、逆らえる者はいなかった。
鷺沼の「よろしいですか?」という確認に、誰も意見を述べず、採決も取らず、議案は通った。
総会で、議案を通すことは、もっと簡単であった。
委任状だけ集めればいい。
山田は、畑中を呼んで、今回の利益を確認していた。
「元々大きな金額の発注ではありませんので、大した利益ではありません。ただ、中古部品を使っても、気付く者はいませんので、そこで、利益をかさ上げできると思います」
「まあいい。最初から稼ぐとバレやすい。お前も見たとおり、鷺沼は、バカなくせに、プライドが高い。おだてて、いい思いをさせておけば、いくらでも、金は出す。今回のお礼も兼ねて、もう一度、席を設けろ。それから、理事会での弁当、お茶の提供、いや、理事会後の飲み会費用を管理費から出す提案の方がいい。理事会ではお茶だけでいい。提案してみろ。必ず食い付くはずだ。」
畑中は、鷺沼とアポを取り、今回のお礼を伝えると共に、懇親会に誘った。
お茶と懇親会と称する飲み会費用を管理費から出す案は、やはり、食い付いた。
「うちの社長は、従業員にこんな配慮しませんよ。私は、無報酬で働いている人たちを、労いますよ」
鷺沼は、勤めている会社の社長と自分を比較していた。そして、あたかも自費で各理事を労っているかのように、自己満足していた。
理事懇親会
鷺沼は、理事会終了間際、理事は無報酬で働いていることを理由に、理事会中のお茶と、終わった後の懇親会費用を、管理費から出す案を切り出した。
管理費は、全て、自分のお金に思えた。
こういう勘違いをする者が一番使いやすい。畑中は、今年の営業成績がトップになり、社長賞を取る姿が、目に浮かんだ。
鷺沼が誘ってみると、出席理事全員が、この後の懇親会に出れると言う。
管理会社のメンバーも、MSC社のメンバーも誘われた。
懇親会では、鷺沼が、理事一人ひとりを回り、労いの言葉をかけ、「マンションをより良くしていきましょう」と語りかけた。
理事も、「鷺沼さんに任せますよ」と返していた。
支払は鷺沼がした。
「領収書は、ラ・アークタワー管理組合で」
今日は、俺がおごってやった。鷺沼は、そんな気持ちだった。
理事も、鷺沼におごってもらったと錯覚している。
鷺沼は、懇親会の中で、思い付いた案、正確に言えば、MSC社から思い付かされた案を、理事に打診して、その場で、決めていった。
懇親会には常時半数程度の特定の理事が参加していた。
懇親会に出席している理事だけで十分だ。
理事会で、鷺沼を支持する理事数名が追認すれば、反対する理事は出て来ない。
こちらから指示しなくても勝手に動く。
大野は、理事会会場の部屋の隅で、下を向いてニヤけていた。
手すり
畑中は、山田に呼ばれていた。
「次は、エントランス外部の手すりだ。高齢化は、今の話題の一つだ。マンション自体、段差のない住居になってきている。手すりを付けたいとき、付けられるよう壁の中に、木が通してある。エントランスの外部へ手すりを付けて、時代を先取りする管理組合運営、それを居住者にアピールさせれば、鷺沼の虚栄心を満たせるだろう。ただし、今回は、受注するな。それから、車イスも一台購入する案も入れとけ。車イスは取りに行く」
「でも、手すりはなんで取りにいかないんですか?」
「向こうには、管理会社がおり、工事部隊を持っている。たまには、奴らを潤してやらないと、嫌な顔をされる。からくりに気付かれても困る。こちらの原案で、管理会社が儲かる、そんな図柄を作ってやれ」
「分かりました」
畑中は、手すり設置の原案を作り、鷺沼に渡した。
鷺沼は、理事会で、早速、所定の手続きを取った。もちろん反対する者はいない。
畑中は、理事会後、大野に近づき、「手すりは、どれだけ役立つか分かりませんので、材料コストをかなり下げるようにと、鷺沼理事長から話はありましたか?」と、聞いた。
大野は聞いていなかったので、「いえ」と答えた。
「それならいいんです」
畑中は、すぐに大野の前を立ち去った。
見積は、三社から取った。
管理会社の関連会社からの見積りが一番安かった。
鷺沼は、畑中に「今回は、思いの外、他社が安い金額の見積を出してきたので、発注できず申し訳ない」と詫びていた。
「いえ、弊社の努力不足ですから、詫びないで下さい」
理事会が終わった後、管理会社の大野が、畑中に近づいてきた。
「畑中さん、今回はありがとうございました。畑中さんの案で、工事を一つ受注できました」
「本当は、こちらで落札するつもりだったのですが、業者が、そこまで突っ込むと赤になると、断られたんです。お互いに、マンションに役立つ提案を、今度共、していきましょう」
鷺沼は、手すりを設置したことを、今後の高齢化を先取りしたマンションとして、会報で、居住者に、アピールした。
「どうだ、鷺沼は?満足しているか?」
「それはもう有頂天ですよ。理事長としての優秀ぶりを大いにアピールしています」
「分かりやすくていいな。一体、手すりなんて誰が使うんだ?誰も使わなくても、あれだけアピールしてくれたら、文句を言う者はいないだろう」
車イス
手すりと併せて、車イスの購入も審議され可決していた。
いち早くアピールしたい鷺沼は、購入前に、会報に、購入を予定していることを載せた。
すると、一人の居住者から、寄付をしたい旨、管理組合に連絡があった。
鷺沼は、畑中に、寄付の申し出があったことを伝えた。
畑中は、それを山田に伝えると、山田は怪訝な顔をした。
大した金額ではないので、ああそうか、で終わると思った畑中は困惑した。
「車イスはこないだ飲んだ社長から買うと約束してしまった。どうせ寄付は使い古したものだろうから、安全性を考えてという理由で断らせよ」
鷺沼は、安全性を理由に、丁重に寄付を断った。
どうせ要らなくなった車イスを処分代を浮かすために、寄付を申し出たんだろうと、懇親会の中で、その居住者の悪意を、他の理事に植え付けた。
LED
管理会社から、マンション内のライトを全て、LEDにする案が出た。
畑中は、慌てて、山田に報告した。
約二千万円の仕事になる。
「畑中、今回は取りに行け」
「分かりました。でも、工事費を削っても、大きな差にはなりません。LEDライトの価格が、見積額の大半を占めますから」
「そんなことは、お前に言われなくても分かる。頭を使えよ。LEDライトは、世間じゃ、永遠に保つものと思われてる。実際には、ライトではなく、周辺の部品が痛むんだろうが、そんなことを言う奴はいない。中古を使うんだよ。新品の価格が落ちてきていることから、中古はかなり暴落している。見積書には、部品番号は書くが、新品かどうかなんて気にする奴はいない」
「確かにそうですね」
畑中は、かなり突っ込んだ価格の見積書を作った。
部品が全て新品なら、赤字だ。それでも、中古品を使うことで数百万円の利益が出た。
無事落札。
大野は、畑中に「よくあそこまで突っ込みましたね?完敗です」
「ラ・アークタワーさんとは、長いお付き合いをしたいので、今回は赤字覚悟で臨みました」畑中は、言った。
畑中が去った後、「よくあそこまで…」大野は再びつぶやいた。
そこへ、上司の増田が、畑中の肩を叩いた。
「そんなに落ち込むな」
「あっ、べつに」
「まあ、鷺沼さんの気分がいいだけでいいじゃないか。俺たち、あの人に救ってもらったんだ。悪夢のような前の理事会には戻りたくないだろう」
会社に戻ると、山田が畑中に近づいてきた。
「畑中、重要なのはこれからだぞ。光熱費が、年間五百万は浮いてくる。四年でペイできることが分かれば、それを何かに当てていく。それを食うんだ」
山田は続けた。
「鷺沼は、衝動的にラ・アークタワーを買って、金には余裕がないはずだ。管理費を使って、購買意欲を満たしてやろうじゃないか?理事長として褒め称えられるようにな。まずは小さな物から始めて、他の理事の反応を見てみろ。どうせ輪番制の理事は、無関心に決まっている。そしたら、少し高い物を追加していけ。目立たないようにリースも使え。毎回の額が小さいから、理事達は、反対しないだろう。そうだな、フロアマットから試してみるか」
フロアマット
畑中は、鷺沼を、LED落札のお礼で、料亭に誘った。
「今回は大きな額を落札できましてありがとうございました」
料亭で待っていた山田は、鷺沼に会うと、握手を迫った。
鷺沼は躊躇なく手を差し伸べ「いえいえ、こちらも予定していた額よりもかなり低い額になって、かえって助かりました」
料理が進み、酒が回り始めて、上座に座っている鷺沼は上機嫌だった。
「実は、新しい提案をお持ちしたのですが」
「たいした提案ではないので恥ずかしいのですか、エントランス前に、フロアマットを置いてはどうでしょうか?ビル風が強いので、砂埃もエントランスに入りやすいようです。埃が入るのを防止できますし、清掃負担も軽くなります。まずは、リースで試してみて、特に、反対が無ければ、理事長がデザインしたラ・アークタワーに相応しいデザインのマットを発注されたらどうでしょうか?」
鷺沼は、自身がデザインしたフロアマットが、ラ・アークタワーのエントランスに置かれる姿をイメージした。
ラ・アークタワーの居住者全員が、毎日二回、私のデザインしたフロアマットを見て通る。悪くない。
鷺沼の気分は、更に上がっていった。
鷺沼は、理事会の議案に挙げた。
フロアマット導入の主旨を伝え、リース額が大きくないこと、実験的な取組みで長期間にならないことから、発注先は、理事長一任となった。
頭はからっぽだが、人柄だけはよく映る。言ってることを文書にして読むと、全く話のつじつまが合わないが、人柄で、なんでも実しやかに聞こえる。
こんな使いやすい奴がこのマンションにいるとは。
山田は、ほくそ笑んだ。
しばらくして、鷺沼が、畑中に相談してきた。
フロアマット撤去の意見書が出てきたらしい。
「気にすることないですよ。一人だけでしょ?マンションは規約上、多数が賛成すれば問題ありません。多数が賛成することにどうしても賛同できなければ、転居するしかないですよ」
鷺沼は、自分がデザインしたフロアマットを諦めなくてよくて安心した。
いや、元々、諦めるつもりはない。諦めない方法がないか相談しただけだ。
観葉植物
佐竹から、エントランスに観葉植物を置いてはどうか?という議案が出た。
畑中は、下を向いて、ニヤリとした。
ここにも、ノー天気な理事がいた。
三階の住民か。ここの三階は安かったからな。せいぜい、安アパートの延長で意見してるんだろう。
それで言ったら、鷺沼は、もっと安く買っている。が、それは、畑中も知らないことだ。
鷺沼がいつもの調子で「いい案ですね」と、にこやかな顔で追従し、「やりましょう」の声に意見する者はおらず、リースすることとなった。
植物の種類の発注先は、理事長が促し、理事長一任となった。
「鷺沼さんが理事長になってから、エントランスが華やぎましたな」
挨拶がてら、様子を見に来た山田は、鷺沼に挨拶をした。
事前打合せ会
山田は、畑中からの報告で、一点気になっていた。
畑中は軽く流したが、意見書が気になる。
山田は、畑中を呼んだ。
「この意見書だが、今後、我々の仕事の妨げになるぞ」
畑中は、驚いた。
「今のうちに手を打っておかないと、次の大きな仕事に影響する」
畑中は、頭の中に何も浮かばず、山田の言葉を待った。
「管理会社から事前打合せ会をするように提案させろ。管理会社から、毎回、修繕の必要な場所が指摘されている。限られた理事会で検討するよりも、事前打合せ会で、詳細を、事前に、出席できる理事に説明しておいた方が、理事会でスムーズに審議ができると提案させろ。管理会社も、工事発注が欲しいはずだから、乗ってくらだろう」
畑中は、分かりましたと応え、山田の前を去ろうとしたが、山田に待てと言われた。
「まだ話は終わっていない。事前打合せの中で、不都合な意見書は潰すように、鷺沼を誘導しろ。幸い、鷺沼は、騒音の意見書も、車イスの意見書も、怪訝に思っているんだろう。懇親会で、各理事も、そう思い込まされているはずだ」
「意見書を無視するのは難しいのでは?」
「であれば、鷺沼に回答書を作らせ、それで終わりにさせればいいだろう」
事前打合せ会は、管理会社から提案され、すぐに了承された。
管理会社は、ただの事前説明会としか捉えていなかった。
最初の事前打合せ会の出席者は、鷺沼を含めて、理事が四名。そこに、管理会社の大野、MSC社の畑中が加わって、六名で開催された。
冒頭、忙しい中、集まっていただき、と鷺沼が、主席理事を労い、その後、管理会社から、改修が必要となる工事の説明があった。
そこで、打合せが終わるものと、大野は思ったが、意見書についてのコメントを鷺沼が始めた。
「今回、意見書が二つ出てきておりますが、簡単な内容なので、わざわざ理事会で時間を使うのも大変ですから、こちらで回答書を作って、管理室から回答させることにします」
それからは、理事会で意見書について審議することはなくなった。
大野に若干違和感があったが、二時間を超える理事会は、各理事に疲労感を与えていたので、スムーズな理事会運営は望ましかった。
ガーデン
山田は、畑中を呼んだ。
「ヘデラへの変更は全く問題ないようだな。今回は、少し大掛かりな仕掛けをするぞ。ガーデンの植木だが、枯れているところがいくつかあるだろう。同じ植木を使うと、利ざやが得られない。まずは、同じ植木では、育たないというシナリオを書け。そうだな、管理会社の大野にでもやらせろ。あいつも、今期、もう少し営業成績を出したいだろう。残念だが、取るのはうちだから、あいつの成績は増えないが。その後、鷺沼と一席を設ける。いいな」
「分かりました」
大野からガーデンの美化維持のための提案があった。
まずは、土壌調査も含め、原因分析をしてみては?という提案だった。調査する会社は、ある程度までなら無料で行うという。
鷺沼は、理事会で決を取り、というより、反対する者の発言がないことで、調査を決定した。
「調査した会社に、ガーデンの改善を発注すると決めていると、その費用に、調査費が上乗せされると困るので、その後、いくつかの会社と相見積もりするということでいいですね?」
鷺沼は、山田との懇親会で含まれた話法を、理事会の席で大野に伝え、念をおした。
調査結果は、やや日数を要した。
改善すべき場所と、枯れている原因、つまり、既存の建築物を壊したときの瓦礫の上にマンションを建てているが、植物を植えている土壌が浅いという結果が報告された。
餅つき大会
「畑中、今回のガーデンの工事は取りに行くぞ。その前に、鷺沼を喜ばせてやりたい」
「餅つき大会なんかどうでしょう?」
「悪くないな。居住者にアピールできるし、鷺沼も、懐を痛めないで、餅を楽しめる。管理費を使う喜びを、思い出させてやろう」
餅つき大会には、約四十世帯が集まった。
鷺沼が、会報に書いて満足している姿を、畑中は、想像していた。
自分の懐を痛めないで、自己アピールができる、鷺沼にとってこんなに楽しいことはないだろう。
費用は、約十五万円。鷺沼個人なら、五千円すら払わないだろう。
ローンに支払いがきついのは、新しい服、靴を見ることがないことでも分かる。
私生活でひもじい思いをしている者ほど、管理費を使う喜びを感じる。
山田に教えられた通りだ。
意見書二0一六年一月五日
車イスの寄付を申し出てた居住者から、意匠の変更と飲食についての意見書が出てきた。
鷺沼は、それを大野に見せた。
大野は、そのコピーをもらい、「社で検討します」と応え、山田に相談した。
山田は「なんだこれは?」と言い、「これでは、植木の変更で利益が得られないじゃないか」
畑中が困った顔をしていると「まずは、植木を変更をしなければ、育たないというシナリオを貫け。それから、デザインについては、細かくパンフレットに書いてあるわけでもないから、デザイナーのコンセプトを変えない範囲で行うことにしろ。飲食については、あの場所で行わないと、鷺沼のアピールはできない。鷺沼特有の訳のわからない説明に任せておけばいいだろう。どんな回答書になっても、管理室からそのまま送るだろう」
植栽改善委員会
「鷺沼は、頭がないから使い易いが、大野も、真面目なところが使い易いな」
山田は、植栽の調査報告書を見ながら、畑中に話していた。
「次は、ガーデンの改修工事だが、総会に諮ることもあり、スムーズにしたい。植栽改善委員会を立ち上げさせてみろ。鷺沼の親しい一部の理事を集めて検討させた方がやりやすい。できれば、来期も理事を続けさせられる理事がいい」
畑中は、鷺沼に打診した。
鷺沼は、すぐに了承して、植栽改善委員会の立ち上げを理事会に諮り、承認を得た。といっても、いつも通り、反対意見がないことで承認になっている。
興味ない理事からしたら、検討項目が減るから助かるぐらいの気持ちだろう。
ところが、畑中から、星崎が植栽改善委員になりたいという報告が来た。
鷺沼が、植栽改善をアピールしたいために、居住者からの立候補を募集したのだ。
畑中は、応募する者はいないだろうと、山田に報告していなかった。
山田は、酷く畑中を叱るが、起こってしまったことはしかたがない。様子を見ることにした。




