第一章 始まりは唐突に ~ The knight of roaring flames sits on a bench. ~
「毎度ありぃ!いつも良いもん持ってきてもらって、すまんな」
聞き慣れた声が部屋の中で響く。近くにいる人間と話してるだけなのに、よくもまぁそこまで声を張るもんだな、と驚くくらいには大きい声だ。声質も大きさに似合う太くて力強いもので、目をつぶって聴いても中年の巨漢が仁王立ちしている情景が目に浮かんできてしまう。
実際の姿もその想像に漏れない。入り口から見て右側、カウンターの向こうに声の主が仁王立ちしている。歳は五十代後半、オールバックで固めた髪を撫で、ついでに自慢の顎髭も撫でながらにんまりとこちらを見ていた。
「いや、これ高すぎないか?」
「大丈夫大丈夫」
本当に大丈夫なのだろうか。怪しい。
先程の竜から得た素材……鱗や角、爪などは、総じて二十万の値段を叩きだした。二十万程度あれば、一ヶ月くらいならば生活には困らないだろう。食費は抑えればなんとかなるし、生活費だって東京自治政府に住民カード経由で引き落としなら一ヶ月や二ヶ月滞納したところで問題はない。……いや、あるか?
「いつも高値付けてもらって申し訳ないんだけど、店長」
さすがにそこまでの品を持って来ているわけではないから、本当に申し訳ないと思う。しかし、店長は首を横に振った。
「俺は人を見て商売してるわけじゃない、常に平等な平均的視点で物を見るようにしてる。それでも高値が付くってこたぁ、やっぱり伊織の持ってくるもんが良質なんだよ」
人から見れば満面の笑み、とでも言うべき笑顔を見せる店長。この男は本当に喜怒哀楽が激しい。笑えば、がははと巨漢によく似合う笑い方をし、泣けば、嗚咽を漏らしながら大粒の涙を零す。もしこれが演技だとしたなら、彼は生まれながらにして大役者なのだろうと思う。
「それに、もしそうじゃなくともこれくらいの報酬をもらうことくらいはしてるだろ?この辺一帯を回りながらの単独調査も、それに伴う危険度も、その成果として持ち帰ってくる素材も……ドームを活性化させる原動力じゃないか」
自慢の髭をくるりと指に撒きつけながら、店長は再び勢いよく笑った。
「……いや、俺は何もしてないよ」
豪快な笑みとは対照的に、俺は苦笑いしか出来なかった。
実際、俺はそこまで深く考えて行動してるわけじゃない。この辺を調査するのはそれが師匠の遺言なだけで、竜と戦うのはそれが俺の仕事なだけで、珍しいものを拾うのは単に金がないだけだ。
そう、行動理念に他人を巻き込むつもりはないのだ。誰かのために、何かのために自分が行動なんてしない。そもそも、そんな資格は今の俺にあるはずがないんだ。
それに、常日頃から店長は俺を買い被っているように思う。いつも何かことある毎に、ドームのみんなが笑顔になった、とか、地域が安全になった、とか言われるが、俺は自分のために行動しているんだからそんな心の広い人間じゃないだろう。
「いや、お前さん自身何もしてないと思っても、周りの人間からすれば、強くたくましく、そして優しく見えるもんさ」
と、予想通りに返されてしまった。そうは言われても、自分自身何かしているつもりはないんだから、勝手にそう見てる他人の目がおかしい。と考えてしまうのは、俺の性格が捻くれているだけなのか。
自分が何かをしているなんて、そんな大それたことを思うはずがない。今の俺は自分を守ることだけで精一杯だ。
六年前、ドーム埼玉陥落の日。それまで身寄りのなかった俺の親代わりとして育ててくれていた師匠と生き別れて以降、自分独りで生きていくことしか出来なかった。誰かを守るとか考える暇もなく生きることを強いられ、挙句の果てには達成出来るかどうかも危うい口約束を追いかける日々。このドームに住むことが出来るようになったのだって、店長の力があってこそのもので、俺はほとんど何もしていない。その恩返し、という意味でならまだわかるが、それが赤の他人のためになんてことにはならない。
今の俺には自分一人の命しか背負えないのだ。
「いずれにせよ、伊織。お前はもう一人じゃないんだから、あんまり危ないことするなよ?こっちは心配でならん」
店長の目が淋し気に笑った。歳も中年の男の瞳にしては力強さもない。こういう姿を見ると、 もしも父親がまだ生きていたとしたら、こんな感じなのかなと思えてしまう。
「店長……」
親の顔を見たことがない俺にとって、店長の見せてくれる表情や態度は親のそれなのだろうかと感じることは多かった。ドーム埼玉からの脱出後、半年前まで世界を放浪していた俺にここで生活するチャンスを与えただけでなく、ドーム住民権のない俺を匿い、住居や衣服、食料に至ってまでも用意してくれた。それ以降も持ってくるものをことごとく高値で買取り、挙句の果てにこの表情だ。初めは何か裏がある、なんて疑ったりもしたが、失礼なことを思っていたと過去の自分を嗜めたい気分になる。
「いや、まぁ何かしでかしたとしても、ちゃんと元気に飯食いに戻ってこいって言ってるだけだから、気にするな」
店長はひと息吐くと、大きく息を吸って満面の笑みで胸を張った。さっきまでの淋しげな目もどこかへ飛んでいってしまったようで、力強く見開いてこっちに視線を投げかけている。
「店長、何でも言ってくれ。俺に出来ることなら何でもするから」
これは俺の本心だ。出来もしない口約束をして、絶望しか先のない希望を持たせてしまった俺に、誰かのために何かをする資格なんてないけれど、もらった恩は返さなきゃならない。どちらとも心の根っこで思うことだ。
「お前さんがそう思うようになったことが、一番嬉しいことだ、気にするな!不器用なお前さんがよく言うようになったもんだ」
豪快な笑い声が店内に響く。
不器用、そう言われ続けて早半年。俺ってそんな言われる程、か?と自分でも悩むくらいには言われてきたが、今日のその言葉は優しかった。
「不器用って言わないでくれよ、わかってるんだから」
「まぁとりあえず伊織の不器用さは置いといて……」
……優しかった。
「そうだなぁ、あまり器用ではない部類の伊織くんがそこまで言えるようになったことが、本当に嬉しいんだからな」
……優しいはずなんだが。
「あ、そうそう、不器用な伊織くんに一つ頼みが」
「畳み掛けて言う必要ないでしょ!え、なんかちょっといい気分になりかけてたのに!」
この数十秒間の間に不器用発言が計三回。不器用という言葉をオブラートに包もうとして失敗した発言が一回。このままではノックアウトどころか心が折れて立ち直れなくなるぞ。
「いやすまんすまん、ついな」
ついで人を追い込むなっての……それから悪いと思ってるなら部屋中響き渡るくらいに大声で豪快に笑い飛ばすなっての!
店長の笑い声にため息をつきながら、俺は話を先に進めるよう促した。
「……で、店長の頼みってのは?」
この人の頼みは大抵ドーム内での治安維持やらなんやらの名目で、軍の警備隊じみたことをさせられる。そんなの軍に頼んでくれと言っても、軍には軍の守るべき部分があるからそれ以外は住民である自分達がやらねばならないのだ、とかなんとか返されるだけで、結局は拒否出来ない。
今回もいつも通りの警備依頼だろう。高を括って待っていたが、意外な一言が飛んできた。
「ちょっと、外に行ってほしいんだ」
「え、外?」
外に行く。これはこのドーム内にいる者であれば誰しもが同じ解釈をする言葉だ。つまりは、"ドームの"外に行くということ。
ドームの外は、防衛体制のとられた安全な空間であるドーム内とは全く異なり、いつ竜に襲われてもおかしくない場所になっている。道行く人間ですら満足にいない荒廃ぶりで、以前は地域開拓として商人達がこぞって外の荒地を這いずり回っていたが、竜の被害が甚大で即刻ドーム外出禁止令が出される程だった。
それから一旦は外出禁止令が解かれるが、商人達はドーム名古屋まで伸びる地下通路を使って商売を行っているため、外に出ることなく商売している。目的があって外に出るとしても、許可が出されるのはほとんどの場合軍関係者くらいなもので、一般人は基本的に外出しない。
だからこそ、店長の言うお願いの主目的が読めなかった。
「外って何しに?」
問題はそこ。ドーム外に出るということは、それなりの目的がある。ましてや普段から軍の目を盗んで外に出ている俺に頼むくらいだから、今回の頼みってのだって軍に悟られないように、ということなのだろう。
それだけの理由が、単なる古雑貨屋の店長にあるとでもいうのだろうか?
「一つ、調査してほしい場所があってな。察しのいいお前さんのことだ、お前さんに頼んだ時点で軍には悟られんようにとまではすでにわかっているだろう?」
やはりそうだ。軍に知られたくない何かしらがあるということだ。
俺は頷いて店長の目を真っ直ぐに見た。
「旧ドーム埼玉と千葉へ電力を供給していた発電所が、旧埼玉千葉県境に存在している」
店長はドームが建造される前の、日本全国地図を取り出して机に広げた。
「大体この辺だ。ここに調査をしに行ってほしいんだ」
指を差した辺りには、周辺を森で囲まれながらもその場だけ木が綺麗に伐採されたかのような空き地がある。他には特に何かしらの建物は見受けられなず、何もない平地が記されていた。
竜滅士の戦闘において、何もない平らな場所では対地竜滅術と呼ばれる部類の戦闘術を駆使することになる。俺の得意戦術ではあるが、その反面、戦うには相応の精神力の消耗を覚悟しなければならない。複数体に囲まれれば詰みという部分も問題だ。
「森の中の空き地……竜の出現状況は?」
「ここ最近の調査士団の報告では、周辺地域での生体反応自体が見受けられないとのことらしい」
らしい、ということは店長も人づてに聞いたか、どこからか情報を盗んできたかってことだ。なんとも危ない橋を渡る一般人だな、この人は。
とにもかくにも、竜が出現する可能性は低いらしい。調査士団情報ということであれば、竜探知に長けた軍の組織の調査上の話になるから、信頼度は無きにしも非ずといったところか。
「で、具体的な調査内容は?」
竜の数が少ないのであれば、戦闘は極力避けていけば問題はない。俺は本題である、そこへ向かって何をするか、という理由の部分へと話を進めた。
調査、と一言で言っても、何をすればいいのかは状況次第。竜、地域、流通経路、経済的効果等々……どれをとっても危険が付きまとうものになるし、場合によっては戦闘の回避方法などにも影響が出る。目的達成までの最短ルートが変わることになるのだから、明確に目的がわかっていなければ危険度が増す。外の調査を行う上では必須の条件だ。
「発電所自体が機能を修復出来るものかどうか。それに加えて周辺に町が存在するかどうか、だ」
「え?周辺調査も?」
頷く店長。発電所の機能が修復可能かどうか、ということは、今の段階では故障している可能性が高いと予測出来る。が、それに加えての周辺調査とは、どういうことなのか。生体反応が見受けられない地域であるはずなのに。
「そうだ。もしかすると、地下に拠点を置いて生活している者も少なからずいるかもしれん。竜から身を隠すには地下が一番ということは名古屋までの地下通路でわかっていることだしな」
なるほど、地下組織が形成されているかどうかまで探ってこい、というわけか。そんな大掛かりな調査が必要ならば、なぜ軍に頼まないのか……俺にはそれが疑問でならなかった。
「わからなくはないけど……」
わからなくはない、なんて返答は、ほぼイエスに相違ない。何が目的で調査を行うのかは確かに気になるし、知っていればもっと綿密に行動を設定することが出来るだろう。
ただ、おそらく店長は目的を漏らさない。そういう人だと俺も理解していた。そもそも、俺のドーム住民IDにしても、店長独自で偽装したものだ。こう言ってはなんだが、裏で何をやっていても驚きはしない。
「軍に知られたくないんだとしたら、それ相応にドーム脱出から綿密に計算しないとだね」
腕を組んで、ドーム東京の立体図を頭の中に思い浮かべる。
東京に限らず、ドームは一つの大きな建造物をいくつか組み合わせた形になっている。形成要素は"テント"……直径十キロメートル、高さ一キロメートルの外壁とその上に蓋のように防護屋根が乗せられた建造物だ。ドーム東京の場合は、テントが四つ寄り集まることで人間の生活範囲を保護している。
四つのテントは旧東京都の二十三区と同程度の面積をほこり、それぞれ高さ約百メートル毎に"プレート"という人間の生活を支える土地の基盤が、層構造で作られている。第十層まで存在し、テント毎に居住層と生産層と中枢層に分かれている。
今俺達のいる場所は、テントの中でも西にあるドーム西地区、その第四階層の一角だ。人口比率で言えば一番比率の少ないテントで、五階層から上層階に関しては中枢層の軍事施設と生産層の生産施設で成り立っている。他のテントに関しては、六階層から上が軍事施設であったりするために、人口比率は高くなる傾向にあった。
俺は思い浮かべたドーム西地区テント第四階層の構成図から、軍の監視が薄い場所を考えた。
外部に出るには、第一階層の巨大な門を開かなければならない。門は計六つ。西地区は六ヶ所からしか外には出られない。
「いつも通り、俺の別荘に基本的な装備がある。それから、別荘から北に十キロ進んだ場所に旧ドーム埼玉外郭地下道がある。地下道は今監視されずに閉鎖されているから、そこをぶち破って東に進んでくれ」
「いつも通り強引だね」
苦笑しながら移動ルートを頭に叩き込む。
とにかく、店長の"別荘"から出発するのであれば、テントの正規門を隠れながら突破することもない。監視も万全ではなく、ドーム外へ出ることが禁止されてない今は、そこまで徹底して検問を置いているわけではないが、いつもと違うルートを使って外へ出ることのリスクの方が高い。
「とりあえず別荘に行けばいいのね」
店長が頷く。別荘からこれだけの長距離移動をするとすれば、必然的に移動手段は車になるだろう。というか、それ以外の手段で移動なんて出来ないだろうし、やりたくもない。
「車は、借りられるよね?」
「ああ、用意してある。他に必要な装備があれば言ってくれ」
さすがは店長。装備品にまで手を回しているとは……
俺は一通り調査に必要そうな装備を挙げていった。移動用の武装バギー、単一戦闘用竜滅剣一本、護身用銃一丁、念のため一日分の食料と水……発電所の電気設備と地域周辺調査だけであれば、一日もかからずに終わるはずだ。必要最低限のものだけでなければ行動も鈍くなる。とっとと行って、とっとと帰ってこよう。
「それだけで、いいのか?」
もう用意してある、と一言。今日俺がここに来る前から、すでに依頼から実行までの準備を整えていたのか。なんという手回しの早さ。
「最近外で襲ってくる竜の数も減ってきてるしね。活動が活発になるのはまだかなとも思うし、長い調査するよりもさっさと車飛ばしてすぐ帰ってこれた方がいいだろ?」
戦闘を避けられると判断した理由の一つに、竜の活動期間がある。やつらの行動する期間というものには波があり、半年前に俺がドーム東京にやってきた頃は人に対する竜の攻撃も多く報告されていたが、今はそれもほとんどない。さっき俺が襲われたのも珍しく思える程には活動は沈静化してきていた。
「そうだな、何もなければそれだけ報告してくれればいい。いつ出発する?」
何もなければそれだけ報告……ますます調査理由がわからなくなってくる。
「そうだな、装備の準備と行動プランを考えるのに半日……明日の朝ってことでどうかな?午前十時に、別荘から出る感じで」
わかった、と店長が頷いた。
「じゃあそうと決まれば一旦家に戻るよ。何かあったら別途連絡いれてくれ」
片手を挙げて挨拶をし、俺は雑貨屋を後にした。
今の時刻は午後三時。公園内の大きな広場で時を刻む針が、真上と向かって真右へそれぞれ腕を伸ばしている。俺はベンチの上で大きなあくびをしながら、その針と同じように腕と、ついでに体全体を伸ばした。
ドーム東京西地区第三階層の中心、住民達の憩いの場となっている公園では、子ども達の元気な声が響いている。それを見守るのは優しそうな笑顔を見せる母親達。端から見ているだけでもすごく暖かいその光景に、俺は一瞬だけ昔のことを思い出した。
───お前は俺の、息子であり、弟であり、志を同じくする仲間であり、家族だ───
俺がまだドーム埼玉にいた頃。
師匠との生活は、公園で元気に遊ぶ子どもとそれを見守る親のそれとは全く違ったものだった。師匠は軍人で、任務の度に外へ出て行き、数日すると帰ってくる。それを延々と繰り返していた。
珍しく一日中休みの日があると、俺に竜滅士としての戦闘技術を教え込んでいた。遊んでもらった記憶も、おんぶも肩車も、キャッチボールすらもない。ただただ、家の外では身のこなしと剣の振り、家の中では応急処置や道具の扱いをひたすらに覚えさせられた。
苦痛なんて思うことはなかった。師匠の夢を聞いて、師匠の目指す場所を聞いて、師匠から言われることを聞いたら、俺もそこに向かって進むべきだと思えたし、それが家族として当たり前の形だと思っていたからだ。
けど、現実は違うようだった。
ドーム埼玉でも、他のドームでも、そうやって戦う術を身につけて、生きるための手段を頭に叩き込んでいる子どもはいなかった。それを要求する親もいなかった。
俺の普通とは違った。世の中の家族の普通は、俺の知っているものとは違ったんだ。
目の前で微笑む母と子がまさにその例となる。普通、とはこういうことなのだろうと頭で理解は出来るとしても、俺の知っている家族という形ではないと心がそう思ってしまう。
「師匠、なんで俺は戦ってんだろ」
戦う術を覚えさせられ、生きる術を身につけさせられ、結局その道しるべとなっていた師匠は死んだ。俺は、急に道しるべをなくして、どこへ向かっていいかわからなくなってしまった。何のために俺は戦いを覚えたのか、何のために覚えさせたのか……これから先、どうすればいいのか。
「俺は、何と戦ってんだよ」
天井を見上げる。
第三階層の天井は、現在晴れ時々曇り。ホログラムによって映し出された擬似的な青い空に、真っ白な雲が浮かんでいる。
あれも、偽物なんだ。
ドーム外の、自然の空と比べると、綺麗過ぎるというのが率直な感想だ。空を身近に感じなくなった人類の願いが、ホログラムの擬似青空に浮き出ているのだろうか。
「あれ?こんなところで、何してるの?」
聞き覚えのある声が、後ろから聞こえてきた。
少し高めの明るい声色が心地よく耳に響く。地面を叩く足音が徐々に近くなり、空を見上げる視界の中へ茶色い髪の女性の顔がにゅっと入ってきた。
くりっとした瞳に少し高めの鼻が特徴で、周りからは超絶美人と呼ばれている程度には整った顔。白さの際立つ肌も、その美麗さに拍車をかけているのだろう。……俺はそこまで美人だと思ったことはないのだが。
「おーい、何してるのー?」
「覗き込むのやめてくれないか、未来少佐?」
俺は覗き込んできた顔の左右の頬をつねり、引っ張った。
「いた、いたたたた!何するのよ!?」
わなわなと口を動かし腕をぶんぶん回す彼女へ、俺はさらに力を加えた。
「痛い!痛いちょっと伊織君本気でつねってるでしょ!?」
「さすがに本気なんか出さないよ」
ははは、と自分でもわかるくらいに乾いた笑いを投げた。
「けど、この前も言っただろ?俺がベンチにいる時は、覗き込むなって」
「わかった、わかった!覚えた、覚えたよ!もう覗き込まないから!」
理解出来たならそれで十分だろう。手を離し、視界の外へと顔が出て行ったことを確認して、俺はベンチから腰を上げた。
「……ちょっと、軍人にそんなことしていいと思ってるの?」
先程つねっていた頬を少し赤くして、未来は両手を腰に当てた。
「二度三度言ったことをすぐに覚えてくれないのは俺としてもつらいんだが……確かに未来の言うことも一理あるな。うん、すまなかった、未来少佐。歳が近いと、つい……な?」
「な?じゃないでしょ!」
未来は頬を膨らませてじっとこちらを睨んでいる。軍人がそんな行動をしている時点で、頬をつねられても文句は言えないと思うんだが……
「毎回毎回……伊織君いっつもほっぺたつねるんだから。ほっぺたの皮がべろべろに伸びちゃうでしょ!」
いやいやそれはない。さすがにその考えに至る人間はなかなかいない。軍の佐官クラスという重役を担っているにも関わらず、精神年齢は相当に低いのが彼女の特徴だ。いや、軍もなかなかの賭けに出たもんだよ。未来に佐官階級とは。
「まぁ、何だ。未来は明らかに軍人っぽくないからな。親近感があるんだよ、一般人からするとさ?」
言葉に嘘はない。実際、何度か会ったことのある軍人の中でも、彼女は一般人側の思考を持っていた。
……というよりも、そもそも彼女が軍人であることも疑う程に、軍の思考とは一線を介している。自分の警備持ち回りである西テント第三階層で、任務遂行中であるにも関わらず、一般人である俺に公園で頬をつねられるのだから、一線どころか百線くらい超えているのではないのだろうか。
「私は軍に所属はしてても、一般人と同じような扱いだからね。ドーム埼玉から来た軍人さんはみんなそうだよ。ドーム東京の自治軍は秘匿情報の漏洩を懸念して、組織改革を推進していないから」
「いや、まぁ……そうかもしれないけど」
そうかもしれないけど、君だけは別だ。と、はっきり言っても聞き分けがなさそうなので止めておく。
「というか、組織改革推進してないとかって、俺に言っちゃっていいの?」
「あ……」
やっぱりこの人は軍人には向いていないようですよ、自治軍の偉い人。
ただ、未来の言っていることは暗黙の事実としてドーム東京には存在していた。
ドーム埼玉陥落後、生き残った埼玉の住民達はドーム東京へと移動して来た。ドーム東京側も快く保護を承諾したが、埼玉自治軍の軍人に関しては、東京軍への所属を強制するという条件をつけた。
埼玉自治軍軍人達は、自分達のドームの住民を守るために拒否することも出来ず、東京自治軍へと吸収された。しかし、吸収とは名ばかりで、実際には自治軍本隊への吸収ではなく、別部隊として籍を置いているだけ……悪く言えば、いつでも動ける駒として置かれている状態になってしまった。
ただし、未来については所属方式が違っていたはずだ。
「けど、未来は違うんじゃないの?いきなり上位隊の副隊長に抜擢された人なんていないって俺の前で自慢してたでしょう」
彼女は確か、東京自治軍第六団の空戦隊の上位隊に所属している。第六団は竜滅士団とも呼ばれる竜滅士の部隊で、陸戦、空戦、ドーム防衛の三つの部隊が存在し、ドーム東京自治軍の竜滅士は全て第六団への所属が義務図けられている。
そこからそれぞれのテントへと部隊を再編成して配置しているのだが、彼女はその中でも、西地区の空戦隊の、第一番隊副隊長だ。埼玉から来た軍人の中でも竜滅士は数少ないが、彼女はさらに一握りの、東京自治軍防衛の中枢に立つ人間になった。
そんな人間は彼女以外に存在しない。だから、彼女の言う"自分は一般人と同じ"という発言は、間違ってはいるが、間違いではいなかった。
「ああ、そんなことまで自慢してましたね私……やっぱり軍人向いてないね。私が言ったこと内緒にしてて!お願い!」
この通り!と手を合わせて頭を垂れる未来。いや、軍人に頭を下げられている状況はそれはそれで面白いが、こんなところを他の部隊の人間に見られてみろ、俺まで何か言われるだろ。
「わかったからとりあえず頭上げてくれ」
「本当に?本当にお願いだよ?」
瞳を潤わせながら、拝んだ手はそのまま。わかったから落ち着け、となだめてようやく手を下ろしてくれた。
彼女は佐官クラスの軍人だ。頭を下げているところを部下に見られでもしてみろ、威厳なんてあってないようなものにもなりかねない。誰にも見られてないといいんだが……
考えていると、ふと一つの疑問が頭に浮かんできた。
「……そういえば未来って埼玉から来てまだ五年とかだろ?」
「え?うん、そうだよ」
不思議そうな目をしてこちらを見てくるが、おそらく不思議そうな目をしているのは俺の方だろう。
「軍人になったのだって三年前とかって言ってたよな……そこからの出世スピードが早過ぎじゃないか?」
彼女、如月未来は、軍人になってまだ三年という、新米軍人もいいとこの経歴しか持ち合わせていない。ともすれば、ここ数年の竜との戦闘は沈静化の一途を辿っており、実戦経験が少なくなってしまうのも頷ける状況で、前線の戦闘部隊で副隊長にまで選ばれたという人事は異例なのではないか。
未来は手を顎に当て、目だけで空を見上げた。
「そうね……私の場合は運が良かったっていうのが大きいのかな。今のドーム東京の状況は、住民も知っての通り、竜との戦闘はほとんどない。けど、私は軍に入隊して一度だけ竜と戦ったことがあったの」
あれは、と目を瞑って過去を思い出すように、未来は語りだした。
「軍に入隊した後って、配属を志願出来るのよ、一応ね。だから私は竜滅士隊への入隊を志願したの。そしたら、その直後かな、商人団が竜に襲われてるっていう緊急連絡が入って、救出任務の部隊に編成されたの」
未来が軍に入隊した後と言えば、ちょうど三年くらい前の話か。各テント周辺で商人団が襲われているって連絡が一斉に入ったことがあったな……その商人団の目的が陥落したドーム埼玉から売れる物を探してくる、なんてことだったから自業自得だとは思うが。
「私は入隊後ずっと西テントの所属だったから、西テントを中心とした部隊の前線に立たされて……そこで、結構な戦果を挙げちゃったのよね」
困った顔で笑う未来。聞けば、その戦果とは、竜十頭の小規模乱戦の中で、中竜種三頭と小竜種五頭を討伐したことらしい。
……正直、一般兵どころか、一般竜滅士であっても死を覚悟するレベルの戦果だ。驚きを悟られないように、その凄さがわからない風を装うが、本音を言えば唖然としてしまうくらいには驚いている。
「そんなこんなで一気に昇格への道が開けて、さらには私専用の通称と武装までもらっちゃったもんだから、やらざるを得ないっていうか……」
それだ。如月未来の話をする上で欠かせないことは、彼女が超絶美人だということではない。俺は思ってないけども。
彼女には"閃白"という別名が存在し、専用の白い外套と白い竜滅剣が贈呈されていた。それだけ軍にとっては大きな戦果だったのだろう。
さらには軍のプロパガンダとして扱われ、ドーム東京住民とその他ドームに対しドーム東京所属竜滅士の強さの象徴として竜滅士の戦闘を見たことがない人間にさえも"閃白"の名を頭に刻み付けさせた。正直、ここまで名の通った竜滅士は、過去にも現在にも、ドーム東京と名古屋にはいないはずだ。
「未来は、すごい竜滅士、なんだな」
まさかそこまで大きな戦果を挙げて担ぎ上げられているとは思わなかった。驚きを奥歯で噛み殺しながら、精一杯の賞賛を投げた。
「だから、やっぱり運がよかったんだよ」
またも困った顔をする未来。なぜそんな顔をするのか、聞こうとしたところで未来がはっと何かに気が付いた様子でこちらを見てきた。
「……というか、なんで伊織君が軍の出世の平均スピードまで知ってるのよ?」
なるほど、勘も鋭いんですね、未来さん。
ねぇ、と目を細めて見つめられる。というか、これは睨まれているのか?明らかに不審がっている顔だ。
まぁ、日々せっせと軍のデータサーバに入ったりとか軍の無線を盗聴したりとかそういうことをしているなんて口が裂けても言えないのだが……
それに、彼女は俺が竜滅士であり、軍の目を盗んで外に出ていることを知らないはずだ。なのに疑われるということは、そうやって外に出るからこそ知る情報や竜と実際に戦った観点から物を考える癖が染み付いてしまっている可能性が高いわけで。もっと客観的に物事を見ないと……
「いや、なんとなく、ほら、見てればわかるじゃない?それにミリタリオタクに聞いた話もあるし。あいつらどこから情報仕入れてきてるかわからないけど、なかなか興味深くて……」
こんな風に変な言い訳しか出来ないわけだな、ちくしょう。言い訳を口にし始める前の自分に"もっと考えて発言しろ"と肩にパンチをお見舞いしたいところだ。
ミリタリオタクについては、あの店長の顔しか思いつかないが、心の中で豪快に笑わせつつ口からは一切出さないようにする。
「……まぁ、いいわ。とりあえず次から私のほっぺつねったら自治法違反で逮捕しちゃうからね?」
両手の平を上げ肩をすくめる未来。今あっさりと怖いことを言われたような気もするが、笑って誤魔化しておこう。
「それはそうと、伊織君はなんでいつもここのベンチにいるの?」
仕事もしないで……とまで言われそうな勢いだな。
今日に限って特に意味があって来たわけではなかったが、いつも未来と遭遇してしまう時にはちゃんとした理由がある。
「なぜ、か……考えごとしてる時にここにいるとさ、なんとなーく頭から考えごとが消えるんだよね」
「え、考えごと消しちゃ駄目なんじゃないの?」
素晴らしく鋭い疑問だな、確かにその通りだ。其の通りではあるが、一度頭の中をすっきりさせるという意味では俺にとって大きな意味があった。
自分が何をすればいいか、何をしなければならないのか、そして、どうしたいのか……客観的視点と主観的視点を考えて行動するためには、一つの思考に捉われてしまうのは好ましくないからだ。
「なんというか、頭の中がごちゃごちゃしてる時には必要なんだよね」
そもそも難しい言葉で表す必要がない。思考が頭の中を目まぐるしく回っている時にこそ、一度リセットしなければならない時だということだ。
「そういうことね。わからなくもないわ」
軽く笑む未来。本当に軽く笑っただけなのだろうが、それがなぜか俺の目にはものすごく綺麗に写り、一瞬だけ心臓を掴まれたような気がした。
今まで未来に対して心臓の鼓動が速まることなんて全くなかったのに、今の一瞬だけ強く脈打ったのが自分でも感じられたのだ。少し焦る。
「そう?」
意識してしまっているのだろうか……声が上ずりそうになってしまった。
よくよく見ると、確かに未来は美人な部類に入るのだろうと感じる。艶めく黒い長髪に対象的な白い肌、くりっとした目、整った鼻……優しそうな瞳と頬の下のえくぼが、彼女の笑顔をより華やかにしているのがわかる。
そういえば、未来はドーム東京の軍人の中で一番美人だのなんだのと言っていた隣人がいたか。他の女性軍人に発砲されそうではあるが、その言葉も頷ける美貌を持っている。
「私も良くわからなくなる時があってね、色々と。そういう時って、大抵考えなくても済むように早く寝るようにしたりしてるの」
加えてこの純真さ。
"考えて考えてわからなくなったから、もう寝ちゃおう"なんて、自分の心持ちの変え方が上手い人間じゃなきゃなかなか出来ないことだ。俺の考えを飛ばすという行為と同じ匂いがするけど、寝て頭から引きずり出すっていうのはなんとなく未来らしいとも思う。
「ま、そんなとこ!」
未来が広場の中心へと振り返る。おそらく時計を見たのだろう、針は長針が真右に向き、時刻で言えば午後三時十五分を指している。
「っと、こんな時間かー……めんどくさいけど行くかなぁ」
口を尖らせて、両腕を上げて伸びる。あまりにも彼女の伸びが気持ちよさそうなので、俺も真似して伸びてみた。
息を止めたまま頭から足先まで、真っ直ぐに引き伸ばす。全身の筋肉が張っているのがわかり、痛いけど気持ちがいい。
ふぁ、っと不意に未来があくびをした。彼女も気持ちよさそうにあくびをするもんだなんて思っていたら、いつの間にか俺まであくびが出た。
「ふふ、あくび移しちゃったね」
小さく笑む未来。またあの可愛い笑顔が見れて、俺は少しだけ恥ずかしくなった。
「さて、それじゃ、いつまでもそこにいないで、早く仕事しなさいな伊織君」
「俺無職じゃないからね?勘違いしないでよ?」
やはり仕事もせずに、なんて思っていたのか……まぁ、してないっちゃしてないから反論は出来ないんだが。
じゃあね、と手をひらひら振る未来に、俺は手を振り返す。その後ろ姿は、先程までの可愛いと感じていた彼女とは違い、とてつもなく大きく、そして淋しげに見えた。
「色んなもん、抱えてんだろうな」
純粋さ、それはもしかしたら何か重い物を背負った先にあった、彼女なりの心の防衛反応なのかもしれない。なんてふと思った。
子ども達の喧騒が聞こえる。その声の主を温かく見守る母がいる。
未来だけじゃなく、みんな何かしらを抱えて生きているんだろうと思えた。それは大きいものかもしれないし、小さいものかもしれないし……もしかしたら透明なものかもしれない。いずれにせよ、誰もが何かを抱えながら生きていることは確かだろう。
「みんな生きてる。まだ生きてるからな」
ベンチから立ち上がり、深呼吸を一つ。空気を吸って、空気を吐くだけで、自分が生きていると実感出来る。安っぽい生命観かもしれないが、死に直面する機会が多いのであればなおさらなんだろうな。
「さて、俺も目の前の抱えもんを終らせないと」
任務開始は明日の午前十時。それまでにやることは山ほどある。急ごしらえの作戦じゃ命の危険だって増すばっかりだろう、しっかりとした離脱手段も考えなければならない。
俺は店長からもらった地図を頭の中へ思い浮かべ、シミュレーションを始めた。
「ふぁ……ああ」
大きな欠伸と共に、意識が部屋へと戻ってきた。
公園から帰って来たあと、自宅で明日の準備をして……気が付いたら机に突っ伏していたらしい、やたらと首が痛い。
「寝違えたか?」
木製の椅子と机で寝ていたのだから、体が痛くなるのも無理はない。思い切り伸びをすると、背骨の辺りから詰まり物が取れたかのような音が幾度か鳴った。
「ばきばきいってるけど、これ大丈夫なのかな鳴らして」
以前に聞いたことがある。手や首、背中からばきりと音を鳴らす行為は医学上問題があるらしい。医学に詳しくないから本当にどうなっているのかはわからないが、そう言われると止めておかないとなんて思う。
「っつか腹減ったわ……」
そういえば帰ってきてから何も食べていなかったな。空腹も忘れて集中していたのだと今気が付いた。その集中力のおかげで、明日の準備は申し分ないものになっているのだが。
「とりあえず何か作ろう」
キッチンへと移動し、冷蔵庫を開ける。中は常に何が入っているかを把握出来るように、昔からしっかりと整理整頓していた。部屋の方とは大違いだ。
手の込んだ料理を作るのも面倒くさいから、今日は炒め物にしようと心に決め、鶏肉とキャベツ、もやしを取り出して、キャベツを一口大に切り始めた。
まな板に包丁の刃が当たる軽快な音が耳に心地よく聞こえてくる。こういうのを聞くと、料理やってるんだなんて実感が沸いてくる。
キャベツの最後の一かけらを切り終え、もやしと一緒にざるに入れて水で洗う。もやしとキャベツが新鮮そうに水を弾き、これだけでも美味そうに見えてきた。余程空腹なのだろうか。
「あ、米」
炊飯器にまだ炊いたご飯が残っていたはずだから、そいつを食べてしまおう。茶碗に大盛り、五百ワットのレンジで二分温める。
その間にフライパンへ油を敷き、火をかけてならして、鶏肉から焼き始めた。香ばしい音と匂いが、胃を刺激して唾液を出させようとしてくる。ある程度火が通ったところで、水切り後の野菜を入れて塩と胡椒で炒める。
食材全部に火が通ったら、皿に盛りつけて、レンジで温めたご飯と一緒に部屋の机に並べ、
「いただきます」
食べる前の挨拶を済ませてから胃の中に放り込んだ。
「やばい、美味い」
人はなんで塩と胡椒で味付けして火を通しただけの野菜と肉がこんなに美味い物だと感じるのだろうか。早く空っぽの胃を満たしたい欲求と、もっと口の中で味わいたい欲求が喧嘩している。
いい歯ごたえで肉汁を溢れ出させる鶏肉に、噛む毎にいい音が鳴る野菜。ご飯もレンジで温めただけなのに美味い。
「飯食ってる時が一番幸せかも……」
何にも変えがたい時間───それこそが食事の時間なのかもしれない。大げさでもなんでもなく、リラックスしながら栄養を取り、五感を使って感じながら楽しむことも出来るのだから、食事の時間は人間にとって本当に大切な時間だろうと思う。
なんて考えていたら、すでに茶碗のご飯はなくなり、おかずの炒め物も僅かしか残っていなかった。最後の一口を、口惜しみながら丁寧に味わい、
「ごちそうさま」
所要時間僅か五分。せっかくの食事の時間なのだから、と考えていたのとは裏腹に、体は待ってはくれなかったらしい。とにかく胃袋を満たす最短の行動を取ったという感じだ。
胃袋を満たすため……竜もそうやって人間を襲っているのだろうか。
違う。竜は人間を食料とするために襲っているのではない。でなければ、ドームを破壊し尽くす行為も、攻撃していない人間を襲う行為も辻褄が合わなくなる。どこかしらに敵対意識がないことには、無害な商人団を襲うことも、人間の住処を吹き飛ばし、群がる兵を殺すこともない。
やはり、竜には理性があるのだ。それは小さな物なのだろうが、人間とその他の生物、敵と味方を区別出来るくらいにはある。
「敵対しているって強い意識があって攻撃してきてる……」
世界中の研究機関では周知の事実ではあるが、実際に竜と対峙した身としては、この上なく恐怖に思えてくる。
もしも、もう少し思考出来る種だとすれば、今まで生き残ってきたことが嘘のようだ。竜の腕が、あるいは竜の尾や翼が、明確な意図をもって振るわれているとしたら……人間に太刀打ち出来る程の力じゃない。
「いや、やめよう。明日外に出るっていうのに、そんなことばっかり考えるのは縁起が悪い」
頭を振って後ろ向きになりかけていた思考を振り払う。机には食べ終わった後の食器が残ったままだ、片付けないと。
キッチンで食器を洗い、食後のお茶を淹れて部屋の椅子にゆったりと腰かける。今日はあと寝るだけだ。明日になれば危険な場所へ飛び込むことになる。いくら安全を考慮したとしても、おそらく一度の戦闘は免れないだろう。
その戦闘で、どう安全に戦い、どう逃げるか……明日の行動の重要点はそこだ。戦闘を最小限に、そして、回避出来るのであれば対峙したところからでも逃げる。臆病な者程戦場では生きるなんていう言葉も聞いたことはあるが、ある意味正論だ。
「いかに臆病になれるか、か」
いきり立って突き進むことしか出来ないなら死に急ぐだけだからな、しっかりと状況を見極めて、一番安全な手段を取っていこう。
深呼吸を一つして、俺は自分の手を見つめた。
「明日は、しっかりやれよ、俺」
独り言は、部屋に静かに反響して消えた。