人魚姫
不思議系短編です。
「夏のホラー企画」に出そうと思っていたのですが、間に合わなかったので(汗)
「ねぇ、聞いてるの!?」
ずい、と身を乗り出した少女は、買ったばかりの雑誌を読みふけっている少年を睨んだ。
家が隣で、生まれたときから一緒だった幼なじみ――まるで絵に描いたような関係の二人は今年で十六歳である。
晴れて高校に入学し、そしてただいま高校生最初の夏だった。
「ねぇ」
「聞いてる聞いてる」
少年の部屋の中にいても自己を主張してくる蝉は夏を感じさせ、聞いているだけで暑さが倍増するようである。テーブルの上に置かれた、飲みかけの麦茶に入っている氷がからりと音を立てた。
「人魚、だろ? いきなり何言い出すんだよ」
目を通していた場所から視線を外した少年が呆れたように彼女を見る。
黒く艶のある髪は以前よりも伸びたようで、首を傾げるとさらりと揺れた。
「この地域に伝わる人魚姫の話、知ってるでしょ?」
「……あぁ、あれな。どこかの湖にいるって話だろ?」
「そう! あれね、今年出るらしいの!」
「何が?」
「人魚姫!!」
ぐっと拳を握りそうな勢いで乗り出してくる少女にちいさく息を吐く。
「どこで聞いてきたんだよ」
「同じクラスの松村君!」
「あいつガセばっかじゃねーか!!」
「そんなことないもん。この前はね、虹色に光る石が……」
「ああもういい。で、いきなり人魚がどうしたんだよ」
「行かない? 一緒に」
可愛らしく小首をかしげる彼女から視線を外し、少年は手元にある雑誌をめくる。現れたページには色鮮やかな文字が踊っていて、大きく特集と題されたそこには今人気急上昇中のブランドの商品が説明付きで並べられている。
男子向けというそれは価格もそこそこ安く、学生が手を出しやすいらしい。
実際、よくクラスメイトたちが手にしているのを見かけたこともあった。
「行かない」
「なんで!? 人魚だよ、人魚!! 願いが叶うんだよ!?」
「……それさ、伝え話だから。本当にいるとか、願いが叶うとかあるわけないから」
昔からこの村に伝わる人魚の話は、その人魚を見た者はどんな願いでも叶うという、なんとも嘘くさいものだった。
伝え話など元来そういうものだが、現代にそんな話を信じる人などそういない。
夏になれば毎年囁かれる人魚の話も、面白半分で探しに行った者はいたが結局誰も見つけられずにいる。
「しかも人魚って言ったら不老不死とかじゃないのかよ。なんで願い事……」
それをもう今年で高校生になった幼なじみが信じているとは――呆れた声でため息とともに吐き出すと、少女がぽつりと呟いた。
「いるんだよ。人魚は、ちゃんと。じゃないと……」
突然言葉を切った少女に、彼は軽く眉をひそめる。
「なんだよ?」
「……ううん。――じゃあそういうことだから、明日集合ね!」
「は!?」
「朝から行くから! どうせ暇でしょ!」
片手を挙げてそう言い逃げる彼女は音を立てて部屋を飛び出した。
昔から時々よくわからない行動をすることはあった。そのたびに幼なじみという肩書きで付き合わされた少年は、今回の彼女の行動に首をかしげる。
確かにおかしなことをする時もあったが――あんな、何かに追われるような顔は初めてだった。
疑問が頭をもたげるが、気にしていてもしょうがないと、少年は再び雑誌に目を落とした。
「ほらー!! こっち!」
そして次の日、昨日の宣言どおり朝からやって来た幼なじみは、暑さでうだる少年をひっぱたいて起こしにかかった。
眠さと暑さでゆるりと瞳を開けると、そこには仁王立ちした彼女がいた。
「おい、ゆっくり行けばいいだろ。こんな暑い時に走らなくても……」
朝の日差しは容赦なく少年を照りつける。
少し坂になったアスファルトの上を歩くと、じりじりと焼かれている感覚がして少年はため息をつく。
次々と噴出す汗は拭う暇もなく頬を滑り、灼熱のアスファルトを濡らしていく。
なにも朝からこんなに暑くなくてもいいだろうと、少年は胸中で毒づいた。
「だっていつでるかわからないでしょ!? ほらー、早く!」
男子高校生が情けない、と彼女は眉をひそめる。
「そんなこと言ったって、暑すぎて……なんでお前は涼しそうなんだよ」
汗一つかいていない少女の顔を恨めしげに睨みつける。
「鍛え方が違うの、ほら早く!」
坂の上で手招きする彼女にため息をつき、少年は再び足に力をいれて坂道を登った。
――そしてしばらく道なりに進んだころ、眼前に大きな湖が現れた。
小さく波紋が広がった、澄んだ湖。
毎年人魚が出るとされる湖であり、この村唯一の湖である。
「……で? まさかここでずっと待ってるなんて言うんじゃないだろうな」
湖の周りは木に覆われ、頭上にも伸びた木々が重なっているが暑いのには変わりない。影になっている場所であっても、温い風が肌を撫で少年は思わず顔をしかめた。
「ううん。――大丈夫、人魚はここにいるから」
「……は?」
彼に背を向け、目の前に佇んでいる彼女の言葉に小首をかしげた少年は湖を覗き込む。
けれどそこにはなにもなく、ただ二人の姿を映し出すだけであった。
「おい、何言って――」
「私ね。ずっとどうしたらいいのかわからなかったの」
その時、ふわりと肌を撫でた風に少年は目を見開く。
「どうしたら正しいのか、何がいいのかわからなくて。でもね、このままでもいいんじゃないかって――そう思った時もあるの」
少年は体に感じる風にぞっと寒気がした。
温いと思っていた風はいつのまにかひやりと冷たく、無意識のうちに体を抱きしめていた。
――なんだ。
彼女は、なんだ。
ずっと一緒にいた、幼なじみ。
生まれた時から、一緒にいた――けれど、それを自覚したのはいつだったか。
家も、学校も、すべて一緒だったはずだ。
しかし、いくら思い出そうとしても彼女と過ごした時のことが思い出せず、少年は混乱する頭で目の前の幼なじみを見つめる。
「……人魚はね、願いを叶えてくれるんだって。どんな願いでも、叶えてくれる」
「ちょっと待て。お前は――」
「ねえ、そんな私に願い事を言ったのは――あなたでしょう?」
その言葉に、少年はかすかに目を見張った。
「私に、叶えて欲しい願いがあるって言ったのは」
ずるり、と少年は後退する。
身体を包む冷気にも気にせず、少年はただ目の前で佇む一人の少女を見つめていた。
「お前……」
ずっと昔。
少年の両親は、不運な事故で亡くなった。
ありふれた、けれど決して許されることのない交通事故で。
その時少年はそこにいず、そして彼はわずか七歳であった。次第に何が起こったのか理解し、呆然とする彼の元へ親戚らが引き取りに来た。
父方の祖父母はとうに他界し、母方の方は遠いのもあり交流が少なく、少年は顔すら知らない。
そのため親戚たちの家に行くことになったのだが、彼はそれらを拒み、両親と暮らしたこの家にとどまることを選んだ。
たった七歳の少年をひとりで暮らさせるわけには行かないと、何度か押し問答になったが、最終的にはひたすらに拒み続ける彼の気持ちに折れた。
――そして表面上では親戚に引き取られたことになり、ただ住むところが違うということになった。時折親戚たちが様子を見に来てくれていたが、彼は変わらず以前のままこの家で暮らすことを選んだ。
そんな中、彼はある噂を耳にする。
毎年夏に人魚が現れるという昔からの伝え話だった。
村にある湖に現れる人魚に願い事を言えば、何でも叶うと。
彼はその言葉を聞いてさっそく湖へと向かった。
もとより伝え話であり、そんなものはいないだろうとは思っていた。
そして案の定、人魚は現れなかった。
少年は風に揺られて波紋を描く湖を見つめ、日が傾くまでその場所にしゃがみこんでいた。
ゆらゆらと震える湖を眺め、ぽつりと彼は呟く。
――もし本当に人魚がいるのなら、決して僕を一人にはしない人がいてくれたらいい。
両親を生き返させて欲しいとは願わなかった。
幼心でも、それはしてはいけないことだと理解していたのかもしれない。
そんなことを呟いて、彼は帰路へと着いた。
「――思い出した?」
「……そうか。お前が、人魚だったのか」
そして十六歳となった少年は眼前の少女――否、人魚を見た。
ある日突然現れた少女。
どこから来たのかも、どうして自分を知っていたのかもわからなかったが、一緒に遊ぶにつれてそんなことは些細なこととなった。
そして現在までずっと、幼なじみとしてそばにいた彼女は――
「あの時、そばにいて欲しいと言ったから私は願いを叶えようとした。でも、もうこのままじゃいられない」
再びふわりと冷気が肌に触れたと感じた時、少女がこちらに手を伸ばす。
ゆるりと伸びたそれは少年の体を絡めとる。
「願いの代償、知ってる? 何かが起こる時、必ず何かを失うの」
「……それ、俺の命だって言いたいのか」
少年は柔らかく抱擁する人魚に体を預けた。
「どうしてかな。私、このままがいいって思ってる。――願いを叶えたら代償を貰う。そうしなきゃダメなのに、例外はないのに」
背に回された腕に力がこもる。
わずかに震える体は水のように冷たく、けれど発する声はどこか温かい。
「水の中は冷たくて、誰にも会えなくて。でもあなたの傍は暖かかった。湖の中じゃできないことも、あなたと一緒にいればできたの」
本当はね、と人魚は呟く。
「あなたの言うとおり、代償は命をもらおうと思ってた。――でも」
あなたには生きていて欲しい、と囁く少女に少年は目を見開く。
そして柔らかな光が少女を包み、その口元が弧を描いた。
「さよなら」
「待っ――!!」
そっと額にあたる柔らかな何かを感じた瞬間、勢いよく吹いた風に思わず目をつむる。
そして目を開けると、そこにはもう少女の姿はなかった。
「うわっ! やべ、新学期早々遅刻はまずい!!」
長かった夏休みは終わり、今日から新学期である。
すでに八時を示している時計を見て慌てて玄関に突進する。
「皆勤賞狙おうと思ってたのに!」
揃えてある靴に足を突っ込み、そこではたと気づく。
何かが足りない。
少年は玄関の扉を見つめ、ついで背後を振り返る。
――いつもなら、確かここで何かがいたような。
「……何だっけ?」
考えても答えは出ず、奇妙な感覚に眉をひそめながら少年は扉を開けた。
瞬間、襲ってくる熱気と太陽の光。
九月になったというのにまるで真夏のそれに気分が重くなる。
玄関の傍に置いてある、バケツに入った水と、そこで気持ちよさそうに泳いでいる一匹の小さな魚をちらりと一瞥してから少年は灼熱の世界に身を投じた。
「――おはよ、先生まだ来てないぞ。危なかったな」
肩で大きく息をしながら教室に入り自分の席に着くと、前に座っている級友――松村が振り返る。
「めずらしいな、お前が遅刻ぎりぎりなんて」
「目覚まし鳴ってるの気がつかなくて……あー、疲れた」
さすがに家から学校まで全力で走るのはきついなと、少年は息を吐き出す。止まると途端に噴出す、額に浮かんだ汗を無造作に拭った。
「目覚まし? ……お前、そんなの使ってたっけ?」
「あ? 使ってるだろ、いつも。じゃないと俺いつも何で起きてるんだよ」
「いや、そうなんだけどさ。前に言ってただろ? 時計壊れてそのままにしてるって」
「……壊れてなかったけど」
唸りつつ首をひねる松村に少年も眉をひそめた。
確かに、以前そんな会話をした気がする。けれど時計は壊れていなく、正確な時間を示していた。
「んー、まぁいいけど。――あ、お前夏休みに湖行った?」
「湖?」
首を傾げると、松村がにやりと笑う。
「そ。人魚姫、今年出るって言っただろ?」
「……言われてないけど」
「は? いやいや、言っただろ。終業式の日、今年は出るらしいから湖行けって」
「言われてないぞ、そんなの。だいたい俺、人魚の話は信じてないから」
えー、と松村が苦情の声を上げる。
絶対言った、とぶつぶつ呟いている彼を横目に少年は窓から覗く澄んだ青空を見上げ、眩しさに目を細めた。
相変わらず太陽は容赦がなく、雲は自由に青空を飛びまわっている。
――幸せになって。
ふいに、少年は空から視線を外した。
「何か言った?」
「……何も言ってないけど」
まだ首をひねっていた松村にそう問うと、怪訝な顔で首を傾げられた。
「お前、今日どうしたんだよ。暑さにやられたか?」
「――さあ、どうだろうね」
柔らかく耳朶を打った、一瞬だけ聞こえた声。
なぜか聞き覚えがあるような気がして、けれどそれが誰の声だったのかわからず再び少年は空を仰いだ。
澄んだ空はどこまでも続き、曇ることがないような気さえしてくる。
果てしなく続くそれに、少年はちいさく微笑んだ。
お読みくださってありがとうございます!
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