終章
老人はひとり、崖の上にある大岩に座っていた。辺りは濃いもやに包まれて、膝に置かれた自分の手さえも霞んでいるほどだ。白い世界の中で銅像のように動かず、じっと目を閉じていた。
突然、老人は目を開くと、前を向いたまま誰かに語りかけるように話し始めた。
「私は……。
己の生きてきた道が本当に正しかったのかどうか、この年になって不安に思い始めた。
私は若い頃に決意した信念に向かって真っ直ぐに生きてきた。そのときの決意は歪むことなく、ほとんど実現できたと思っている。
しかし、歪ませることも必要だったのではないかと、今になってひどく後悔し始めたのだ。私が信念を貫くことと引き換えに、私のもっとも大切な者たちが犠牲になったのではないかと。
己の信念など諦めて、大切な者たちを守っていく方法もあったのではないかと。
そうは思えないか? インギル……」
老人の背後にはただ白いもやが立ち込めているだけで、人の気配などない。しかし、その声はもやの中でこだまするように響いてきた。
『確かに、そういう生き方もできたのかもしれません。
しかしそれが正しかったかと言われれば、そうとは言えないでしょう。
どのように生きたとしても、どれも正しくもなければ、間違ってもおりません。
それに、あなたさまが犠牲にしたとおっしゃるものたちは、決して犠牲などではありませんぞ。
誤解なさるな。あなたさまには、あの者たちを犠牲にすることも、生かすこともできないのでございます。
それぞれに、己の生きる道を己の心の向くままに生き抜いただけにございます』
そのとき、俄かにもやが晴れてきた。老人の座っている大岩の先は、目も眩むような絶壁で、その下を流れる谷川が小さく遥かに見え、もやから漏れてきた日の光を反射して輝き始めた。
目の前には、深い緑色をした山々が幾重にも折り重なって続いており、遠くのほうに低く立ち込めている雲の中へと姿を消していく。
雲の下にときおり閃光が走ったかと思うと、霧に霞む山脈の向こうから、鈍い遠雷の音が響いてきた。
老人のいる峰は見る見るうちにもやが薄れていき、眩しい光が差し込んで、まだわだかまっている水蒸気を照らし、大きな虹を映し出した。
『すべてのものたちは、この大気の中に息づいております。
自然の流れには善悪はありませぬ。ただゆき過ぎる時を見守るのみ。
しかし通り過ぎたその過程で結んだ絆だけは確かなものでありましょう』
老人は、はっとして後ろを振り返った。
老人の後ろには、彼よりもさらに深い皺を刻んで穏やかに微笑む小さな老人がいた。
突然甲高い笑い声が響いてきた。張りのある高い声が老人に呼びかけた。
「【くしゃみ】! いつまでそんなところでぼんやりしているんだい! 早く来ておくれよ!」
声に導かれるように立ち上がると、日に灼けた艶やかな頬を輝かせて、遊牧民の娘が立っていた。娘は笑いながら「はやく、はやく」と老人を手招きする。老人が岩から下り、その姿を追いかけてゆっくりと歩み出したとき、娘の姿は流れてきたもやの中にかき消えてしまった。
娘の消えたもやのほうに目を凝らし、立ち尽くしていた老人は、足許に誰かの気配を感じ、視線を下に向けた。そこには若い戦士が跪き、活き活きとした眼差しを老人の方に向けていた。
その面影をよくよく見つめて、老人はそれがつねに自分の傍らで、彼の手となり足となり支え続けてくれた友であることに気付いた。
「何を弱気になっていらっしゃるのですか! 貴方さまの信ずる道に私はどこまでも付いていきますぞ」
精悍な戦士はさっと立ち上がり、老人の方へ手を差し延べた。その手を取ろうと老人が手を伸ばした瞬間、白いもやが戦士の姿をかき消していった。
今度は、ふふ……とやわらかい声が背後で響いた。振り返ると、ともに年老いて、自分を置いて先立ったはずの妻が、まだ若い少女の頃の姿で立っていた。
「貴方の夢のお話はいつも壮大ね。でも貴方が夢を語る姿は、わたくし嫌いではなくてよ」
少女は腰に手を当てて、小さな子をなだめるような口調で言った。呆気に取られている老人の姿がおかしかったのか、少女はまたクスクスと笑い出し、踵を返して靄の中へと走り去ってしまった。
「兄上!」
少女の姿が消えたと同時に、背後で呼びかける声を聞いた。
振り返ると、自分の若い頃によく似た風貌の青年が立っていた。青年はゆっくりと老人に近づいてくると、その前に恭しく跪いた。
「私は兄上の本当のお心を知っておりました。
運命はわたくしたちの絆を引き裂いたように見えますが、そうではありません。兄上も私も、己の運命に従って精一杯に生き抜いただけにございます。
貴方の姿を見て育ったからこそ、私は己を誇れるような人生を送ることができたのです。
私は幸せでした、兄…………いえ、父上」
青年は穏やかな笑顔を向けて大きく頷く。
「ユタ……」
思わず老人が青年に差し延べた手は、虚しく白い靄を掴んでいた。青年の姿が俄かに遠ざかり、その隣には凛々しく美しい女戦士が立っていた。
女戦士は静かに老人の方へ歩み寄ってくると、彼の目をじっと見つめた。
老人の目に安堵の色が浮かんだ。
「私はもうすっかり年老いてしまったよ。キヌア。
今更になって、私が良かれと思い突き進んできた道は、貴女やユタや身近な人々に厳しい試練を与えてきたことに気付いたのだ。
私はどこで道を誤ったのだろうか。何故大切な者たちの幸せをいちばんに考えることができなかったのだろうか」
女戦士は老人に手を差し延べてその手を取った。
そして優しく語りかけた。
「貴方と出会った魂たちは、それだけで幸せだったのよ」
山の天気は刻一刻と変化する。
今すっかり晴れたかと思われたもやが、また老人に覆い被さるように立ち込めてきた。ふと気付くと老人は、ふたたび白いもやの中にひとり佇んでいた。
しかし、老人は先ほどとは違う穏やかな表情になって、静かに目を閉じた。
「確かに。
私も幸せであった。このうえなく」
そして天を仰ぐと心地よさそうに、辺りに漂う細かい水滴を全身に浴びていた。
『皇子クシ ―― 太陽の都を築いた若きインカの伝説 ―― 』 ( 完 )
(あとがき)
連載を始めて一年半、すでに書き上げていた原作を大幅に加筆、修正しながらなんとか最後まで載せきることができました。
読んでくださっている皆様がいるということがいちばん大きな励みになりました。
最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございます。
この物語は、すでにご存知の方もいらっしゃるでしょうが、前作『稲妻と星の花~カパック・ユパンキの物語~』のスピンオフ作品です。
『稲妻……』に脇役として登場させたパチャクティ皇帝が悪印象だったため、彼の印象を変えるために書き始めたものでした。
―― ちなみに……。ご存知ない方のために、簡単に説明しますと。
『稲妻と星の花』は、成長して将軍となったユタが、タワンティン・スーユの国土を拓くために数々の遠征に赴き、成功を収めます。しかしその過程で兄のパチャクティ皇帝との間に意見の食い違いが生まれ、やがて大きな波乱を生むというお話です ――
おまけの作品のつもりだったので、最初はまるで力を入れておらず、メインの『イチュパンパの戦い』を短編で書いただけでしたが、それがいつの間にやら長編に、長編が大長編に、と膨らんでいってしまいました。
長編になるにつれ、細かい描写も必要になってくると調べなくてはいけないことが膨大になり、あちらこちらで資料を集めているうちに、新たなエピソードが生まれ……と、雪だるま式に膨らんでいきました。
~パチャクティについて~
パチャクテク(英: Pachacuti、ケチュア: Pachakutiq=世界を震撼させる者、世界を造り変える者、?-1471年、在位1438年-1471年)は、クスコ王国の9代サパ・インカ(皇帝)(上王朝4代目)である。クスコ王国を「四つの邦」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。彼の在世中、クスコ王国は小さな村から、チムー王国と競い最終的に取って代わる帝国へと発展した。彼は、クスコの谷から南米の文明的な範囲のほぼ全体にインカの統治を広げることとなった3代続く征服の時代を始めた。
(wikipediaより)
即位した1438年時点で21歳であったとされるクシは、71年に没しているので、享年54歳ということになりますが(諸説あります)、現在で考えると60歳後半から70歳くらいだったのではと推測します。
『老人』としてしまうのはどうかと思いますが、晩年という意味合いで……。
パチャクティは国内の農業・産業の拡大、福祉や教育の充実を図った偉大な皇帝であると同時に、自分の意にそぐわない臣下、従わない民族を次々と粛清していった冷酷無比な支配者という説もあります。
彼が冷酷であったとする説の根拠のひとつとなっているのが『稲妻……』で描いた事件なのですが、私の作品の中ではあくまで彼の行った行為を正当化して書いています。
そしてこの終章の中に少しだけ、クシとユタの和解を盛り込んでみました。
ユタがクシの息子であるという設定も、彼らの結びつきが強かったことを印象づけるための私の創作です。
クシには常に確固たる信念と自信があり、自分の理想に向かって突き進んでいく。しかし、その過程には様々な障害や彼の理念に反対しようとする者も現れてくるはずで、それらは彼が意図しないうちに彼の行く手を阻む。そのときクシがそれらを迷いなく排除することで国の安定が保たれる。
きっと彼は何よりも国の安定を望んだために冷酷な決断もしなけらばならなかったのだろう。
彼の行為をそんな風に解釈して書き始めた物語だったため、クシの性格は一貫していました。
そうは言っても人間である以上、多くの迷いや悩みを抱えるに違いない。けれど、それをあからさまに表すことの出来ない立場であるからこそ、近しい人の前で、または人知れず、泣いたり叫んだりして苦しむ。そんな人間的な裏側の部分も盛り込んでみました。
人間ドラマに重点を置き、物語の流れを重視したため、一般説とされるインカの歴史的事実や流れをかなり歪曲しているところが多いことをご承知ください。
奇しくも今年、インカ帝国展が開催され、インカについて個人では調べきれなかったことや新しい情報を取り入れる機会を得ました。この物語を書くことで様々な疑問を持ち、それを知ろうと思ったときに新たな情報が入ってくるという非常に幸運なめぐり合わせでした。
はじめはほんの軽い気持ちで適当に書き始めた物語が、さまざまな偶然が重なって、当初予定していたよりもずっと濃厚なものに仕上がりました。
小説としてはまったく未熟なものですが、今の自分にできるかぎりでは、充実した作品になったと思います。
よろしければ、一言でも感想をいただけるとうれしいです。
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ともあれ、
最後までお読みいただいたことに、深く感謝いたします。
ありがとうございました。
2012・12・19 作者拝
―― 参考資料 ――
・インカ国家の形成と崩壊
マリア・ロストウェロフスキ著/増田義郎訳
・インカ帝国探検記―ある文化の滅亡の歴史
増田義郎著
・インカ帝国誌
シエサ・デ・レオン著/増田義郎訳
・インカ皇統記
インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ著/牛島信明訳
・インカ帝国―太陽と黄金の民族
カルメン・ベルナン著/ 阪田由美子訳
・図説 インカ帝国
フランクリン・ピース著/増田義郎、義井豊訳
・インカ・マヤ・アステカ展(2007)図誌
・インカ帝国展(2012)図誌
・マチュピチュ―天空の聖殿
高野 潤著
・ナショナルジオグラフィック誌
・インカ帝国展
http://www.tbs.co.jp/inkaten/
(おまけ)
パチャクティを詠ったケチュア語の詩があります。
英訳しかなかったので、正しいかどうか分かりませんが、日本語にしてみました。
おそらくスペインの圧政下で詠われたものですね。なんか切実です。
でもパチャクティはインカの人にとっては神様のような存在なんですね。
P A C H A K U T E Q (Kechwa version)
Pachakuteq Taytallay! Kamacheqniy Inkallay!
Maypin kashan munaykiki? Maypitaqmi khuyayniki?
Mark'aykita mast'arispan Tawantinsuyuta wichirganki,
auqa sonqo runakunataq llaqtanchiqta k'arichinku.
Qolla suyoq yawar weqen Inkakunaq unanchasqan,
qantapunin waqharimuyku Per・Suyu nak'ariqtin.
Maypin kashanki Pachakuteq? Maypin llanp'u sonqo kausayniki?
waqmantapas sayarimuy llaqtanchis Suyo qespirinanpaq.
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PACHAKUTEQ (English version)
Father of our nation! Creator of the Incas!
Where is your love? Where is your compassion?
You extended your arms, and made our nation grow into an empire.
But now, cruel men make our people suffer.
Tears of blood now flow in the venerated land of the Incas.
We call upon you, because our people are suffering.
Where are you Pachakuteq? Where is your noble heart?
If you were alive today, our nation would prosper.
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われらが父、パチャクティよ
インカの国を創りし人よ
あなたの愛はいずこへ
あなたの憐れみはいずこへ
あなたはその腕を広げて
この帝国を築き上げた
しかしいま
われらは無慈悲な人間に苦しめられている
尊いインカの地に
血の涙が流れている
苦しいからこそ、あなたに呼びかける
パチャクティ
あなたはいずこへ
その気高いこころはいずこへ
あなたがいてくれたなら
この国はいまだ栄えていたであろうに