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8、 紫の野にて



8、紫の野にて



 ある日宮殿に、西の地方の小さな村の(おさ)が、彼の妻を伴って挨拶にやってきた。

 乾季に行われる『太陽の祭り』など、大きな祭事のときには多くの部族の長が皇帝のもとにやってくるものだが、そのときは雨季の最中のとくに何もない時期であった。

 長は、昨年収穫された作物や飼育しているアルパカの毛糸など沢山の土産物を携えてやってきた。


 宮殿の大広間に通された夫婦は、背中に石を載せ、皇帝の姿を見ないように頭を床すれすれまで下げてひれ伏していた。皇帝は太陽と同じ存在で、一般の民がその姿を間近で見れば目がつぶれると言われている。それに大広間に市民が通されるときの礼儀でもあった。

 上座にはクシと妃が並んで座り、クシのすぐ横には皇帝の言葉を伝える役の側近が控え、広間には数人の貴族や兵士が集っていた。


 その夫婦は少し風変わりに見えた。夫の方はクスコの民に比べて極端に背が小さい。体つきはがっしりとしているものの、背丈はまるで子どものようだ。一方妻の方は、クスコの女性に比べても背が高く、痩せてすらっとした体つきだ。ひれ伏した姿であってもその差は歴然だ。顔は見えないが、体つきだけを見れば妙な組み合わせの夫婦である。おそらくふたりは民族が違うのであろう。

 そんな夫婦の不思議な組み合わせに気を取られていると、ひれ伏したまま夫の方がクシに挨拶をし始めた。


「われわれは、西の外れにあるティグリ村の者です。ティグリは陛下が西の地を統治されるまで敵の侵略を恐れて地下に暮らしておりました。陛下が西の地を平定され、西の地もタワンティン・スーユの一部になったとき、われわれはようやく平和を得て地上に住まいを作ることができるようになったのです。

 思うように作物を育てることができない西の荒地では、しばらくの間苦しい生活が続きました。

 しかし、クスコからの指導と支援を受け、歳月をかけてようやく数種類の作物が実り、収穫を得ることができるようになりました。さらに家畜を飼育する方法も教えていただき、より豊かな生活を送れるようになりました。

 今日は陛下にそのお礼を申し上げようと、妻とともにやってまいりました」


 側近が長から受け取っていた作物と毛糸をクシに見せた。それを見てクシは側近に言葉を伝えた。その言葉をそのまま側近は長に伝える。


「見事なものだ。ティグリ族は丈夫でよく働く民族だと聞いておる。そなたたちの地道な努力が実ったのであろう。しかし、遠いところをわざわざそれを報告に参ったのか。ティグリ人はなんと律儀なのだ」


 その言葉を聞いて長は答えた。


「恐れ多いお言葉にございます。しかし、今日参った理由はそれだけではございません。

 実は私の妻はクスコ人なのでございます。永いこと故郷を離れていた妻に、いま一度クスコの地を踏ませてやりたかったのでございます」


 クシの顔色が変わった。急いで側近に言葉を伝える。


「長の妻よ。面を上げることを許す。顔を見せよ」


 側近の言葉で、夫婦の傍にいた兵士が妻の背中の石を取り除いた。妻はゆっくりと身体を起こし正面を向いた。その顔を見て周囲の者がざわつく。クシはわが目を疑った。

 そこにいるのはキヌアだった。

 キヌアはクシの方を向いてはいるものの、その視線は背後の天井や壁を見渡すように漂っている。別れてから永い時が経ってしまったためか、皇帝になったクシに敬意を示しているのか、クシを直視することを躊躇っているようだ。


 彼女の様子を気遣って、クシは側近に言葉を伝えさせた。


「ここは新しく建てた宮殿だ。しかしこの大広間は前皇帝の宮殿とそっくりに造らせてある。そなたも懐かしい想いであろう」


 それを聞いてキヌアは俯き、小さく「いいえ」と返事を返した。

 隣の長が慌ててとりなすように声を上げた。


「ご容赦くださいませ。陛下が妻のことを直にご存知とはつゆ知らず、お知らせするのが遅れました。

 実は、妻は目が不自由なのでございます。懐かしい想いは十分にあるでしょう。ただ此処がどのような様子かということを知ることができないのでございます」


 クシは衝撃を受けて彼女の姿を見つめた。じっと俯いている彼女に対してクシはふたたび側近を通じて声を掛けた。


「今一度、顔を上げてもらいたい」


 キヌアはまたゆっくりと顔を上げる。

 そこにいるのは、まさしくキヌアだ。少し頬がふっくらとしてやわらかい表情になったが、クシの記憶に残る美しく気高い彼女だ。唯一違うのはその鋭い瞳がまっすぐにクシを見ず、遠い空を見渡すようにゆっくりと泳いでいることだった。

 クシの心に喜びとも哀しみともつかない複雑な思いが湧き上がった。


 クシが何度も星空に願った再会は、忘れかけた頃に訪れた。

 しかし、キヌアにはクシの姿が見えていないのだ。正式な謁見の場では彼女に直接声をかけることも叶わない。もちろん触れることも……。

 

 まるでクシの心を感じ取り、それを慰めようとするかのように、長はひれ伏したままこれまでの経緯を話し始めた。


「陛下もここにいらっしゃる皆様もご存知のことでしょうが、妻はクスコの戦士でした。クスコとチャンカの合戦のとき、私は彼女が率いる軍を戦場まで案内いたしました。

 戦いの最中、彼女は死の風の吹く大地に迷い込んで意識を失い、そこからティグリの街に通じる穴に落ちたようなのです。私は地下通路の一角に倒れていた彼女を見つけ、介抱しました。しばらく生死の境を彷徨い、ようやく一命は取り留めたものの、彼女は死の風の毒気にやられて目の感覚を失っていたのです。

 しかし、彼女が今日こうして元気でいられるのは、実は陛下の恩恵があってこそのことなのでございます。

 身体が回復しても、ティグリには誰も彼女の話す言葉を理解出来る者はいませんでした。言葉が伝わらなくては彼女が何を考えどうしてほしいのかを知ることができません。しかも目が不自由では、身振りで何かを伝えることもできず、次第に彼女は心を閉ざすようになっていきました。

 しかしティグリ村がタワンティン・スーユの自治体として認められたのを機にクスコの管理官が置かれました。私はクスコの言葉を教わる機会を得られたのです。

 彼女のためにも私は必死で勉強しました。そしてようやく彼女と意思の疎通を図ることができるようになったのです。

 さらに陛下が、不自由さを抱えた人々にも出来る仕事を指し示してくださったので、彼女にも仕事が出来るようになりました。今ではまったく不自由さを感じさせないほどよく働いてくれます。

 元気を取り戻したとき、彼女にはクスコに帰ってはどうかと訊いたのですが、彼女は私とともに暮らすことを選んでくれました」


 クシはその話を聞いてさまざまな思いが込み上げてくるのを感じていた。当てなく彷徨っていたキヌアの澄んだ瞳が、一瞬クシの視線に繋がり、すぐに離れていった。彼女は暗闇の中で必死に目の前にいるはずのクシの姿を捉えようとしているようだ。しかしそれが虚しい努力だと感じたのか、やがてふたたび視線を下に向けて俯いてしまった。


 それからティグリの長はひととおりの挨拶を済ませると、キヌアを伴って大広間を出て行った。夫婦の姿が出口に消えても、クシはいつまでもその方を向いて動けずにいた。



 謁見のあと、部屋に戻って考え事に耽っていたクシのもとにアナワルキがやってきた。アナワルキは手にした物を差し出しながら言った。


「陛下のお心の中の穴は塞がりかけていたのでしょうが、このままでは残されたその小さな穴は永遠に埋ることはありませんわ。いま一度、きちんとあの方に向き合わなければ」


 クシが驚きの顔を向けると、アナワルキは手にした物を広げてクシの肩に掛けた。それは狩りなどのときに使う簡素なマントだ。私用で外出するときに使う庶民の服に近い物だった。

 マントを差し掛けるアナワルキの手を握ってクシは訝しそうな視線を向けた。


「どうしてそなたにそのようなことが分かる?」


 するとアナワルキはさも可笑しいというように笑い出した。


「まあ、もう何年も寄り添った仲ですのに、 わたくしに陛下のお心が読めないとでも思っていらっしゃるの?

 わたくしの立場を気にしていらっしゃるのなら、それは必要のないことです。わたくしは空虚な心を抱えたままの陛下を見ていることのほうが辛いのですから。どうぞご自分のお心に正直になってください」


 アナワルキはそう言ってクシに深く頷いてみせた。

 クシはアナワルキの手から差し掛けられたマントを受け取り、それをしっかりと前で結び合わせた。


「ありがとう。そなたの言うとおりだ。彼女に逢いに行く。そしてこの心の穴をしっかりと塞いでこよう」




 雨季の晴れ間は青空に緑が映えて美しく、風が吹くと清々しい草の香りを運んでくる。キヌア夫婦はそんなさわやかな陽気のなかをティグリに向かって歩いていた。

 長がキヌアに問いかけた。


「本当にクスコに残らなくていいのかい? もう二度と故郷には戻れないかもしれないよ。のちのち後悔するのではないか」


 キヌアは微笑みを浮かべて首を横に振った。

 ふたりの歩く道の両脇は広大な畑で、人の腰丈ほどある作物がびっしりと植わっている。それらは花の時期を迎え、まっすぐに伸びた穂先が濃い紫色に染まっていた。まるで夕暮れの雲の中を進んでいるようだ。

 美しく色づいた畑を眺めながら、長が感嘆の声を上げた。


「なんと見事な作物だ。これはとても丈夫そうだ」


 雲海のような畑を抜けたところで、長は道端の岩にキヌアを座らせると彼女に言った。


「すこしここで待っていてくれないか? この村の者に、ここに植えられている作物の種を分けてもらえないか聞いてくる。見たことも無い作物だが、丈夫そうだから荒地でもよく育つかもしれん」


 夫はティグリ村の開墾のことになるといつも我を忘れてしまう。キヌアは夫の興奮した様子に苦笑しながら頷いた。


 ひとりになったキヌアは風の香りを深く吸い込んだ。緑の香りを十分に含んだやわらかい空気は、西の高原の乾いた匂いとはまるで違う。懐かしいクスコにいることを実感して胸が熱くなった。

 ティグリの民として生きる決意をしたキヌアは、二度と戻ることはないであろうクスコの空気をいまのうちに吸えるだけ吸っておこうと、大きく腕を開いて深呼吸をした。


 そのとき自分の手を誰かが掴んだ。その感触が夫ではないことを悟ると、キヌアは咄嗟に身体を硬くして手を振りほどこうともがいた。抵抗すると余計に、相手はキヌアの手を握り締め引き寄せた。キヌアの手が相手の顔に押し当てられた。必死で手を引き抜こうとしていたキヌアは、ふと何かを感じ取って逆に相手の顔を撫で始めた。そしてやがて両手で相手の頬を包み込んで言った。


「クシ……」


 キヌアは震えながらその名を口にした。キヌアの手が撫でるその口がゆっくりと開いて彼女に答えた。


「そうだよ。キヌア」


 キヌアは懐かしいその声を聴き、その顔を撫でながらぽろぽろと涙をこぼした。

 宮殿に通されたとき、目の前に座っている皇帝がクシであろうことは分かっていた。たとえその顔を見ることも、声を聴くこともできなくても、クシの存在を感じているだけでよかった。それなのに今、自分の手がクシに触れているとは夢のようだ。

 クシがキヌアに話しかける。


「貴女にもう一度逢えるようにと何度も星に願った。貴女に逢えたら伝えたいことが山ほどあった。でも今はすべて忘れたよ。貴女が無事でいてくれたことだけで十分に願いは叶ったのだ」


 キヌアはクシの顔を撫でながら、何度も頷いた。


「ユタは、貴女の望んだとおり立派に育っているよ。貴方の血を受け継いだ武術の才能は、少しずつ開花し始めた。このごろは年長の者も敵わないほどだ。ただひとつだけ、優しすぎるところが欠点だ。相手を最後まで打ち負かすことができない」


 キヌアは涙を流しながらも、わが子の姿を想像して思わず微笑んだ。


「立派に育ててくれたのね。もう気がかりなことは無くなったわ」


「ユタに会いたくはないのか?」


 キヌアはゆっくりと首を振った。


「私はもう二度とここへ戻ることはないわ。戦士ワコはあのとき死の大地で命を閉じて、今度はティグリとして生き返ったの。今はティグリ人なのですもの」


 クシは寂しそうな目でキヌアの顔を見つめた。

 そのときキヌアの瞳は、その手の感触に助けを得て、しっかりとクシの姿を捉えていた。かつて自分を真っ直ぐに見つめていた彼女の瞳がふたたび自分ひとりを捉えている。しかし彼女の瞳の奥のクシは、まだ若く奔放な皇子のままなのだろう。

 しばらく黙って見つめ合ったあと、クシは目を伏せ溜め息まじりに「そうか……」と呟いた。キヌアはその手でクシの落胆の表情を読み取ったのだろうか、クシの顔を撫でていた手をすっと引いて悲しげな表情になった。

 しばらくの沈黙のあと、クシは膝に置かれたキヌアの手に自分の手を重ね、彼女に問い掛けた。


「キヌアは今、幸せか?」


 かつて同じ問い掛けをしたとき、キヌアは目を逸らしてそれを否定した。まだ若かったクシはいつか自分が彼女を幸せにできるものだと信じていた。運命は、それが傲慢な想いであったことを彼に知らしめた。しかし誠実な願いは、その形を変えてもやがて叶うのだということも教えてくれたのだ。

 キヌアは顔を上げて大きく頷き、「ええ、とても」と答えた。

 クシはキヌアの穏やかな笑顔を見つめながら、安心したように「よかった、本当に……」と呟くと、そっとキヌアの手から自分の手を離した。



 大きな荷物を抱えて長が帰ってきたのはそれからすぐだった。長はクシに気付くと嬉しそうに話しかけた。


「これはクスコの貴族さまですか。もしや私の妻のことをご存知で?」


 長はクシが貴族だということは分かったようだが、まさか皇帝だとは思わないらしい。


「ああ、昔の戦友だ。このようなところで会えるとは思わなかった」


「そうでしたか。彼女は今、西のティグリ村に住んでいて、クスコに戻ったのは数年ぶりなのです。だいぶ時が経っておりますし、さらに彼女は目が不自由なので貴方さまが分かるかどうか……」


 クシはキヌアの方を振り返りながら言った。


「いや。彼女は分かってくれたようだ」


 長は不思議そうな顔をしたが、すぐに笑顔になって言った。


「それは良かった。懐かしい方にお会いできて、彼女もさぞ嬉しいことでしょう」


 夫の声を頼りにキヌアは立ち上がって彼に寄って行った。そして夫の手にした荷物の感触を確かめて、訊いた。


「種を分けてもらえたの?」

 

「ああ、こんなにたくさんもらった。南の方では盛んに栽培されている穀物で、乾燥地帯でも育ち、よく実るそうだよ。きっとティグリでも育てることができるだろう」


 そして、種とともに持ってきた紫の花たばを妻に渡して言った。


「この穀物はキヌアというそうだ。花盛りの今は畑一面が夕暮れの空の色に染まっていて、とても美しいんだよ」


 花たばに顔を寄せて、キヌアは嬉しそうに微笑んだ。


「ええ、分かるわ。故郷にたくさん咲いていたから」


 長はキヌアの手の花たばから何本かを引き抜いてクシに手渡した。そして優しくキヌアの手を引くと、クシに会釈をして歩き出した。

 ふたりの姿が遠くなり、やがて視界から消えていくまで、クシはそこに立ち尽くして見送っていた。

 ふたりの姿が見えなくなると、クシは手にした紫の花房に視線を落として呟いた。


「この季節がやってくるたびに思い出すだろう。この花と同じ名を持つ、強く美しい人のことを」






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