2、 西の果て (その1)
2、西の果て (その1)
荒地は果てしなくどこまでも続いている。石ころの転がる大地に、強い風に運ばれた枯れ草の束が転がっていく。食べ物になりそうな植物も動物も、どこにも見当たらない。
植物といえば、蜘蛛の足のように地を這うアロエの一種や空に向かって高くそびえるサボテンが、ところどころ唐突に地面から生えているだけだ。
クスコを中心として栄えているのはほんの僅かな範囲でしかない。村々が密集する地域を外れてさらに西へ向かえば、そこは一面の荒野であり、人が暮らす集落には数日間歩き続けてもたどり着けるかどうか疑わしい。そもそもその土地に人が住めるのかどうかさえ分からないのだ。
その一帯も一応はケチュア族の支配する領域とされているが、国によって特に管理されているわけではない。
その昔、アヤルマカという大部族が治めていた広大な地域を、先代の皇帝がかの大部族を征服したことをきっかけとして領土に取り込んだのだ。しかし今では都からの警護兵が忘れかけたころに時折巡回にやって来る程度で、それ以外は都の目の届かない辺境の地である。
神々が住まうといわれる高く美しい峰が連なる山脈の、その懐に抱かれた風光明媚な高地クスコとは天と地ほどの差がある。乾いた荒野が果てしなく続くその土地はまさに死の大地である。人が暮らすには大変酷な場所だ。
クシに課せられたのは、その辺境に自力で生きる場所を見つけ出し、何時とも知れない刑が解かれるその日までただひたすら生き抜いていくという、単純でありながら最も過酷な試練である。
クスコからの道はとっくに途絶えた。クシが逃げ出さないようにと、彼の両脇をしっかり抱え込んで引き連れてきた兵士たちは、道が途切れた途端、ひび割れて使えなくなった土器を投げ捨てるようにクシを突き放し、さっさとクスコへ戻って行ってしまった。
かろうじて数日生き延びられようかというほど僅かな食料と、氷点下にもなるこの土地の夜の寒さにはほとんど役立ちそうにない薄い毛布を投げ与えて……。
役に立たない自尊心など捨てて、兵士たちに哀願し縋りつくように後を追う方法もなかったわけではないが、それならば潔く死を選ぶのがクシである。
あれから何日この荒野を彷徨っているだろうか。
終わりの見えない地平線に向かって歩き続け、枯れ草に溜まった朝露で喉を潤し、夜は地面を掘って寒さをしのぎ、何とかクシは生き延びていた。
ここはまさに地の果てだとクシは改めて実感した。語り部の語りや、父王とともに遠征に出てこの地を訪れたことのある兄たちの話に聞いてはいたが、他人から聞く話は所詮絵空事であり、自らの足で踏みしめているこの大地とそれとは全くの別物であった。
すべての物をさらって吹きすさぶ風は、空腹でふらついているクシの身体を一気に空へ舞い上げようとする。クシは這い蹲るように重心を低くして脚を踏ん張り、風にさらわれるのを堪えた。風に逆らって進もうとするものの、どうやら後ろに押しやられているようだ。
西の果ての異国との境界辺りにひとつ村が存在すると聞いたことがある。唯一の頼みであるその噂を信じてそこを目指すしか方法はないだろう。当てのない目標に向かってひたすら歩き続ける。
『本当にそんな村など存在するのだろうか?
そもそも流刑などとは建前で、実は自分がこの荒野でのたれ死ぬことを期待して、この罰が下されたのではないだろうか?』
厳しい環境に晒され続け、日を追うごとにクシの心は疑念でいっぱいになっていった。
数日間荒野に吹き荒れた砂嵐が止んだとき、地平線に近い遥か彼方に一筋碧い線が見えてきた。クシの歩調に合わせ茶色一色の地面に時折濃い群青色が見え隠れする。近づくたびにその筋は幅を増し、やがてかなりの広さを持つ碧い大地となってクシの前に姿を現した。
脚がもつれ思うように速く歩けない。片足を引きずるようにして、それでもクシは残る力を振り絞り、ようやくその蒼のふちへと辿り着くことが出来た。
「水だ!」
そこには平原の真ん中にぽっかりと口を開けたような広い湖があった。
空よりも深く濃い群青の上に時折風が吹き渡り、無数のさざなみを作って水面を白く染め変える。そして通り過ぎればまた、深い藍色は雲を映して沈黙した。美しい光景よりもまず、クシはその豊富な水に心が躍った。
クシは湖の入り江にジャブジャブと入り込み、水を手で掬っては頭から浴びた。何日も荒野を彷徨っていた身体には固まった砂が厚くこびり付いており、流れ落ちた泥砂が足許の澄んだ水を濁らせていった。全身に水を浴びぐっしょりと濡れても、荒野の乾いた風はあっという間に乾かしてくれる。
汚れを落として喉の渇きを潤すと、今度は猛烈な飢えを感じた。
湖の周りには緑の草や背の低い木が茂っていた。木や草の中には小さな実をつけているものもあり、草や実をひととおり口に含んでみる。あまり美味くはないが何とか食べられそうだ。クシは夢中になってそれらを漁った。
こびりついた汚れが落ち、腹が落ち着くと、それまでクシの心を覆っていた怖れや疑念がいつの間にか消えていた。
クシは誰もいない広い湖に向かって大きく手を広げると、叫んだ。
「私はもう皇子ではない。この地で自由に生きていくのだ!」
そう決意した途端、クシの心は軽くなり、新たな希望が湧いてきた。
湖のほとりは湿気を帯びた心地よい風が吹いているものの、その日差しは刺すように鋭い。強い日差しをよけるため、潅木の茂みに顔を潜らせて横になる。すると今までの疲れがどっと襲ってきて、彼を深い眠りに引き込んでいった。
まどろみの中で何故か鮮明にキヌアの姿が浮かんできた。あの強く逞しい彼女が、幽魔のように蒼白い顔で自分を見つめている、宮殿を出るときに見たあの姿だ。
彼女の痛々しい姿に目を伏せようとする一方で、不屈の精神をもつ彼女が自分のために嘆く姿に快感を覚えている自分がいる。
夢とも現実ともつかないその世界で、クシは自分の心の奥底を知った。
―― そうか。武術を教わろうなどとは建前で、その実は単に彼女と居られる時間がほしかっただけのだ。私は彼女より強くなることで彼女に認めてもらおうと必死になっていたのだ。だからあのとき、彼女が私との別れを嘆いてくれたことで私の心は満足している ――
「今更……愚かなことに気付いたものだ……」
眼を閉じたまま、うわごとのように呟いて、やがてクシは深い深い眠りに落ちていった。