7、 大地を創り変えし者
7、 大地を創り変えし者
いよいよクシの戴冠式の日がやってきた。
ウルコから受け取った房飾りだけのマスカパイチャは、幾重にも巻かれた固い組みひもに霊鳥クリケンケの尾羽をあしらった真新しい王冠に取り付けられて立派に蘇った。
数日前から太陽神像の前に捧げられ、清められた王の徴が大神官と神官たちによって慎重に中央広場へと運ばれていった。
その日は雨季だというのに雲ひとつなく晴れ渡り、じりじりと照り付ける太陽にすべてが焦がされてしまうのではないかというほど暑かったが、郊外の住まいからぞろぞろと集まってきた住人たちが広場の周囲にひしめき合って、街の気温をさらに上げるような熱気を振りまいていた。
郊外に移動していた都の住人だけでなく、周囲の農村や、さらにはいくつも山を越えた集落からもぞくぞくと人が集まってきていた。
ケチュア族に限らず、チャンカ戦のときに同盟を組んだ多くの部族も、クスコの皇帝の戴冠を見届けようと集まっていた。キリスカチェのふたりの女王も招かれてひな壇の脇の貴賓席に座っていた。
やがて、朱色に金糸の刺繍が施されたマントをなびかせて、クシが壇上に姿を現した。クシの後ろに従うように、髪に銀の装飾が付けられた頭帯を巻き、清楚な淡い色の服とショールを身につけたアナワルキが上がってきた。
現れたふたりの姿を見て、都中に集った無数の観衆が一斉に声を上げ、クスコの都とその周囲の山々を大きく震わせた。
クシの胸には太陽神を象徴する大きな黄金の円盤が下がっており、アナワルキの胸には月を象徴する銀の円盤が下がっている。クスコの街を照らす太陽の王と月の王妃は、壇の先まで歩み出て民衆の大歓声に応えた。
ひととき民衆の声援に応えて何往復も周囲を見回していたクシとアナワルキは、やがて壇の中央まで下がり、そこで待つ大神官の前に立った。クシはそのまま大神官の正面に跪き、アナワルキは壇のさらに奥に下がって二人の姿を見守るように立った。
ふたりの神官が、少しでも揺らせば壊れてしまうのではと思うほど慎重に慎重に王冠を運んできた。そしてそれを大神官に丁寧に手渡すと腰を低くして後ろへと下がっていった。
大神官は王冠を受け取ると、天空の太陽に許しを請うようにそれを高々と掲げ、短い祈りの言葉を唱えた。そして王冠を頭上に掲げたまま、目の前に跪いているクシに近づくと、ふたたび祈りの言葉を唱えながら、その王冠をそっと彼の頭に載せ、それをほんの僅か左右に動かしてしっかりとクシの頭に嵌っていることを確かめた。
王冠を戴いたクシはゆっくりと立ち上がった。彼の頭に載るマスカパイチャはまるで以前から彼の身体の一部であったかのようにぴったり合っていた。
そして今度は自分も太陽に許しを請おうと空に手を伸ばし、大神官と同じ祈りの言葉を唱えた。祈りを終えると上を見上げたまま胸に手を当てて黙祷し、太陽に敬意を払う。
しばらくそうしたあと、奥に控えていたアナワルキの手を取り、ふたたび揃って壇の先に進み出て大勢の民衆の前に立った。
戴冠を終えたクシとアナワルキの姿に先ほど以上の歓声が上がる。それは遥か彼方の雪を戴いた高山にまで響くようだった。
民衆の歓声は暫く止むことはなかった。若い皇帝と皇妃はその洗礼を浴びることによって、本当の意味でこの都、いやこの大地を統べる存在と認められるのだ。
ふたりはその歓声が自然と収まってくるまでひたすら笑顔を向けてそれに応え続けていた。それは気の遠くなるほど長い時間だった。
どれほど時が経ったか知らないが、ようやく歓声が徐々に収まっていった。
広場がだいぶ静かになった頃を見計らってクシはさらに壇の先へと進み出た。自分はこれからあなた方に呼びかけようとしているのだと合図を送るように、大きく広げた手を前に伸ばしてゆっくりと左右に動かした。クシの仕草に民衆は一斉に騒ぐのを止めた。
静まり返った広場に、クシの声が響く。
「私は今日より、ケチュア族を率いる唯一の君主となることを宣言する。このクスコは父なる太陽に護られている。私は偉大な太陽の息子であり、その片腕としてここに集うすべての民を護ると誓う。
私は、太陽のもとにあまねく大地を統一させたいと願っている。
大地は東、北、西、南の四つの地から成り立っている。四つの地域はつまり世界である。この都を世界の中心とし、これら四つの地域すべてに通じる道を築く。さすればクスコは世界をひとつにまとめる役目を果たすことになる。
私はこれより、広大な大地がひとつになった国を『タワンティン・スーユ(四つの大地)』と名づけ、自らは『パチャクティ(大地を創り変えし者)』と名乗る。
これまで、この大地に暮らす多くの民族が、豊かさを『奪う』ことで手に入れようとしてきた。奪って手に入れた豊かさは永遠ではなくいずれ他に奪われる。奪った者の豊かさをまた他が奪う。そうして争いは絶えず繰り返される。その過程で奪う方も奪われる方も双方に、家族を失くし、友を失くし、仲間を失くし、すべてを失くして身も心も貧しくなっていくのだ。
太陽は決して人から奪うことはしない。ただ与えるのみだ。だから太陽の息子である私も、この大地の人々すべてに豊かさを分け与える存在にならねばならないと思う。
すべての人々が豊かさを分け合うことができるように、私はこの大地のしくみを大きく変えていくことを誓う。
奪い合って豊かになることはない。与え合って豊かになるのだ」
人々はこれまでの『皇帝』の印象を覆すクシ……パチャクティ皇帝の言葉に一様に驚きの眼差しを向けた。
常に外敵の侵入に怯え、奪われることを怖れ、平穏であっても働いて得た糧は権力者に搾り取られる生活が当然だった人々にとって、彼らの豊かさを第一に考える皇帝が現れたことは、まるで夢のようだ。
しかし、これまで常に民に近い位置におり、民のために力を尽くす皇子クシの姿を見てきた人々には、それが決して見せかけの言葉でないということが分かった。
ふたたび上がった歓声はさきほどよりも高まり、止むことを知らない。
太陽を背にして立つクシの背後から大きなコンドルが飛び立ち南の空へ向かっていった。クシは民衆に手をかざしながら、コンドルの姿が空の彼方に消えていくのを見つめていた。
―― パチャクティ皇帝の誕生で、クスコを中心に暮らしていたケチュア族は急速に発展していく。
パチャクティは世界を統一するという志を持って、近隣の部族を次々とその傘下に入れ国土を拡大していった。しかし彼の管理下に置いた膨大な数の民には、豊かで文化的な生活を約束する。
そしてどの地方のどの民にも豊かな生活を保障するため、彼はあらゆる改革を行い、多くの制度を作り上げた。
首都クスコの改造に始まり、国土の整備、首都と地方を結ぶ道路の整備といった公共工事が盛んに行われる。それらは首都クスコと地方の交流を盛んにし、情報交換を密にした。
これまで曖昧だった国土や人口も調査され、国によって管理される。人々は定められた土地で農耕や放牧を行うが、それらの産物は国によって管理され、飢饉などの際には国の倉庫に蓄えられた分で賄われた。
国民は年齢や性別、障害の有無などで、与えられるべき仕事が細かく定められた。高齢や障害で労働力に差があっても、できる範囲で働き生活が保障された。
さらにパチャクティは教育にも力を注ぐ。クスコには学校が創設され、貴族の子どもたちはこれまで以上に学問と武術の修練に励むことができるようになった。
地域との連携を強めるため、公用語はケチュア語に定められ、それを教育する学校も各地域に作られた。これまでまったく異なった言語と文化を持った民族たちも、タワンティン・スーユの一部となったときからその首長たちは公用語を学び、クスコとの交流をスムーズに行うことができたのだ。
クスコには、タワンティン・スーユの各地域の異なる民族から集められた人々が暮らした。彼らは民族ごとに住まう街区が定められ、その代表として首都に住まわされた。クスコ全体が、広い国土を縮小した箱庭のような街になったのだ。
これにより、地方の民族は勝手に政治を行うことはできなくなった。それは豊かさを均等にし、各部族間の争いをなくすためのものだった。
そして彼らはときに、これまでの土地から一斉に他へ移住させられることもあった。民族の反乱を避けるためと国全体の生産性を上げるためだった。
他にも、軍部の増強、法の制定など、多くの国民を管理統率するために必要なものが整備された。
膨大な国土とその民を治め、彼らすべてが差異なく豊かな生活を送ることができるようにと、パチャクティの行った改革とその統治は、その後の代にも受け継がれ、さらなる発展を生む。
パチャクティ皇帝の時代に成された多くの改革が、『インカ帝国』という伝説的な国家を創り上げる礎となったのだ。
パチャクティは、歳月をかけて、自らが宣言した『広い地域を統一する国家』『与え合うことで豊かになる国家』を実現させたのだ。
そしてその名目の元に、さらに多くの民族を統合しようと遠征を続けた ――
…………さて、話を少し巻き戻そう。
それは、パチャクティ……クシが皇帝となって数年の月日が流れた頃のことだ。