6、 太陽と月 (その2)
良く晴れた日だった。いよいよ熱く大きくなってきた太陽が高原の都を燦燦と照りつけていた。丘の上から見下ろす都の中心はその姿を変える前で、古い建物が取り壊され更地になった部分と残された建物がモザイクの模様を描いている。しかし、その周囲を取り囲む小高い丘に造られた段々畑には、青々としたとうもろこしの林や可憐なじゃがいもの花畑が畔に沿って美しい彩を添えている。それらの畑や周囲の新緑の草原に人々は繰り出し、耕作や放牧にいそしむ。
賑やぐ丘の様子が一望できる鷹の丘には、その日皇帝と神官、そして僅かな数の貴族と宮殿に仕える者たちが集っていた。チャンカ防衛戦の際に造り付けられた頑丈な壁に囲まれるように、その中央には古い時代から使われてきた祭壇がある。クシの即位式も行われたその伝統の祭壇で、ワイナとティッカの結婚式が行われようとしていた。
この日のために宮殿の侍女たちの手伝いを得ながらティッカ自身が三日で織り上げた新しいショールは彼女によく似合う美しい色合いの模様が施されていた。
ティッカは、長年姉妹のように寄り添っていたキヌアに背格好や肌の色が似ている。あでやかな色彩の衣装を身につけて姿を現したティッカに、クシは思わず在りし日のキヌアを重ねた。
以前は明るく活発で、ともかくくるくるとよく働く娘だったが、記憶を失くしたあとの彼女はどこか物憂げで口数も少なくなってしまった。彼女の身に付ける鮮やかな色彩が彼女の心に少しでも明るさを取り戻してくれるといいのだがと、その場にいた誰もが願っていた。
ティッカは、かつて寝食を共にしていたビラコチャ帝の後宮の侍女仲間たちに付き添われて立っていた。祭壇を挟んでその向かいには親族に囲まれてワイナが立っていた。ワイナの羽織る長いマントにもティッカが身に付けているショールと同じ模様が施されている。ティッカが自分のショールとともに織り上げて彼に贈ったものだった。
神官は壇を下りてまずティッカの前に立った。ティッカはショールの裾を広げて神官の前に跪いて深く礼をし、また立ち上がって神官の差し出した手を取った。彼女を祭壇の上に導いて、今度はワイナの方へと壇を下りる。ワイナも神官に向かって深く礼をしてその手を取ると、導かれるままに壇上に上がった。壇の上で待つティッカの前までワイナを誘って、神官はもう片方の手でティッカの手を取り、ワイナの手と重ね合わせた。
壇上では、式の始まる随分前から数人の神官たちが盛んに火を焚いて祈りに必要な供物を燃やしていた。進行役の神官は取り出されたその灰を一掴みすると、祈りの言葉を唱えながら、重ねられたふたりの手に少しずつ振りかけていった。
長い祈りの言葉を終えると神官はふたりの顔を交互に見つめて頷いた。
神官の合図でふたりは手を離すと各々が履いているサンダルを脱いで裸足になった。ワイナが自分のサンダルをティッカの前に差し出しそれを彼女に履かせてやると、今度はティッカがワイナの前に自分のサンダルを差し出しその足に履かせてやった。
サンダルを交換し終えてふたりはふたたび手を取り合い、揃って祭壇の上座に正面を向けた。
儀式を見届けて神官は祭壇を下り、ふたりの正面には今度はクシが立った。新しい夫婦は皇帝に認められて晴れてクスコに新しい家庭を持つことを許される。
跪き深々と頭を下げたふたりにクシは声を掛けた。
「クスコの長は、汝らをこの都の新しい家族と認める。そして都が建て直されたあかつきにはその一角に汝らの家を設けることを許そう。汝らは太陽と月のように一対である。助け合い補い合い、常に空を照らし続ける存在でなくてはならない。今日この日、ふたりは命ある限り永遠に寄り添い助け合っていくことを誓ったと、空におわす父なる太陽とここに集う者たちが見届けた」
ワイナとティッカは跪いたまま「はい」と力強く返事をした。
クシが後ろへと下がるとふたりは立ち上がり、ワイナはティッカの手を引いて自分の親族の元へと連れていった。これからワイナの身内の間で行われる様々な儀式を経て、ティッカはワイナの親族の仲間入りをするのだ。
幸せなふたりの姿を見送ってクシは、次は自分が決断する番なのだと心を決めた。
神殿の中庭は夏の花が咲き乱れていた。以前よりも力強い色に染まった花園にハチドリたちが賑やかに飛び交っていた。中庭の中央に設けられた大きな石の桶から湧き出す水が溢れて、石敷きの浅い溜め池にこぼれ落ちる音が涼しげに響いていた。
アナワルキは花園の真ん中で花を摘んでいる。遊んでいるわけではなく、神殿の捧げ物にする花を摘むこともアナワルキの大切な役目なのだ。
つい夢中になってそれ以上摘んだら自分が抱えきれないことに気付いたアナワルキは、両手にめいっぱいの花束を抱えて立ち上がった。出口へと振り向いたとき、前の見えない彼女は何かにぶつかり抱えていた花をばら撒いてしまった。慌ててしゃがみこみ花を拾い集めるアナワルキの横に、誰かが同じようにしゃがみこみ手伝い始めた。アナワルキが怪訝な顔を向けると、そこにいたのはクシだった。
以前はすぐさま文句を言っていたであろう勝気な彼女は、動きを止めて静かに頭を下げた。
「そなたが私に敬意を示したのは初めてだな」
クシがからかって言うと、アナワルキは頭を下げたまま生真面目に答えた。
「わたくしはそれほど強情でも身の程知らずでもありませんわ。あなたさまはもう押しも押されぬ皇帝陛下なのですから、礼を尽くすのは当然のことです。
いえ、それよりも陛下とは知らずにご無礼を致しました。お赦しくださいませ」
クシは拍子抜けして小さな溜め息を吐いた。そしてアナワルキの肩に手をやって言った。
「ここには他に誰もいない。そのように慇懃に振舞うのは止めてくれ。私は皇帝としてではなく、クシとしてアナワルキに話があるのだ」
クシの言葉にアナワルキはそろそろと顔を上げた。散らばった花の中に座り込んだままの姿勢で、ふたりは向き合った。
「神殿での修行はその後どうなのだ。少しは気持ちを落ち着けることができているのか」
アナワルキは「はい」と小さく答えたが、すぐさま「でも」と付け加えた。
「わたくしはもう悲しみに囚われることなく、一所懸命に修行に励んでおりますわ。それなのに大神官はわたくしが太陽の巫女になることを承諾してくださらないのです。太陽神の妻になることを目指して修行してきたというのに、これではわたくしはただの神殿の雑用係ですわ」
聞き覚えのある義妹の口調に、クシは思わずクスッと笑った。
「陛下、わたくしをアクリャにせよと大神官に命令してくださらないかしら。このままではわたくしの立場はありませんわ」
クシを陛下と呼びながらも、アナワルキはすっかりクシに対する物言いになっていた。しかし、それはアナワルキが少しずつ以前の姿を取り戻している証拠だ。クシは少し安心して本題を告げる決意をした。
「アナワルキ、大神官がそなたをアクリャにしないのには理由があるのだ。
神殿の者や多くの貴族、そして一部の市民たちは、アナワルキに皇妃になってもらいたいと望んでいるのだ。それは周囲の者だけでなく、私自身も后にはアナワルキしかいないと思っている。
ただ、私だけはそなたの無念の想いを知っている。だから私がそれを望むことは、そなたにとってどれほど酷なことかと心配する気持ちもあるのだ。だから私も迷っていたのだ。
しかし、国のためにどうかそれを我慢して私の妻になってはもらえないだろうか。そなたの心がすぐに私へと向かなくても構わない。神殿に仕えていてもそなたが心を取り戻すのに時間が掛かるのは同じだ。それならば私の許でゆっくり心を取り戻せばよい」
クシの言葉を聞いて、アナワルキは視線を地面に落とし、黙ってそこを見つめた。クシはただじっとアナワルキが口を開くのを待っていた。
時折吹き抜ける風が草を揺する音と石の桶からこぼれ落ちる水の音、そしてぶうんぶうんと唸るようなハチドリの羽ばたきの音だけがふたりを取り囲んでいた。
やがてゆっくりと顔を上げてクシを見つめたアナワルキは少し困ったような笑顔になった。
「その言葉はそっくりクシにお返しするわ。あなたこそ心の中に大きな穴が開いてしまったのでしょう。わたくしを必死に慰めてくださったのは、あなたも同じ悲しみを抱えているからこそ。そうではなくて」
クシは言葉を失ってアナワルキを見つめていた。
小さい頃常に一緒だったふたりは、あまりにも互いの心を知り過ぎていて、どう繕ってもお互いの秘めた想いに気付いてしまうらしい。
それに気付いてクシは降参を表すように笑った。
「参ったよ。そうだ。ゆっくり心を癒すべきは私なのだ。私の心こそ、いつアナに向かい合うことができるのか分からない。それでも許してもらえるのなら、私の后になってほしい」
おもむろに、アナワルキは鮮やかな紅い花をひとつ拾うとそれを見つめた。
「…………わたくしはアマル兄さまの想いに従うわ。アマル兄さまは最期にこうおっしゃったの。どうか皇帝の后になってくれ。クシとともにこの国を支えていってくれって。わたくしの心を知りながらひどい方と思ったわ。でもあの方は心の底から国の行く末を案じていらしたのよ。そしてわたくしが唯一皇帝を支えることができる存在だと認めてくださったのよ。愛する人にそう認められたのですもの。喜ぶべきことなのかもしれないわね」
微笑んでアナワルキはクシにその紅い花を差し出した。クシはそれを受け取ると立ち上がり、アナワルキの手を引いて彼女を助け起こした。
ふたりは揃って歩き出し、夏の光が燦燦と降り注いでいる花園を後にした。
※インカの婚礼の様子は創作です。
インカの最盛期には、一定の時期に適齢期の貴族の男女が集められ皇帝がその仲立ちをすることで結婚が成立するという、集団結婚式のようなものが行われていたようなのですが、これは発展する前の話であり、宗教的な儀礼がどのように行われていたのか詳しく分からないので創作してしまいました。
サンダルの交換というのはインカでは婚姻を交わす証として行われていました。
サイズが違ったらどうしたのかな?という疑問は置いておいてください。
また、神殿の中庭の描写ですが、インカ末期にはこの中庭は黄金の庭となっており、黄金のとうもろこしの畑、黄金の家畜と牧童などの像が置かれていたそうです。
ここも発展前の話ということで花園にしました。